明治の文豪 坪内逍遥が眠るお寺を訪ねてみました。
静かな住宅街の中の坂道を上って行くと
「錦峰山 海蔵寺」
臨済宗のお寺です。
境内奥の、海が見下せる高台に
坪内夫妻の墓所
青みがかった、庭石のような大きな伊予石でした。
坪内逍遥は美濃の人で、本名 坪内雄蔵(1859-1935)。
学生時代に訪れて以来 熱海を好み、のちに別邸を建設。
晩年は其処で静かに余生を送ったそうです。 没年77歳
境内に、「逍遥先生景慕之碑」
氏を敬慕する有志によって建立されたとか。
お寺の少し先に、長い建仁寺垣の「双柿舎」
1920(大正9)年築
建物・庭とも 氏自身の設計で、庭にある 樹齢200余年と
いわれる2本の柿の木に因み「双柿舎」と名付けられたとか。
現在は早稲田大学の所有。(氏は同大学文学部の開設者)
この日は閉鎖されていて、残念ながら中を見学できないので
入口の隙間から、チラリと覗いて見ちゃった・・・
「起雲閣」に展示されていた 氏が描いた戯画
「お夏狂乱」
字は無論のこと、絵もお上手なんですね~!
機会があれば、一度見てみたかった場所があります。
「起雲閣」
1919(大正8)年: 海運王・政治家 内田信也氏別邸として建設
1925(大正14)年: 鉄道王・政治家 根津嘉一郎氏別邸となる
1947(昭和22)年: 桜井兵五郎氏が旅館「起雲閣」として開業
2000(平成12)年: 熱海市が取得・整備し、一般に公開している
敷地面積: 約3,000坪 庭園面積:約1,000坪
入館料: 大人¥500
玄関でスリッパに履き替えて、時計周りに見学します。
「麒麟」という名の純和室
鮮やかな壁色は、内田氏の出身地石川県に因み
加賀藩では高貴な色とされていたそうです。
歪みのあるガラス戸は、当時のものでしょうか。
「玉姫・玉渓」
1932(昭和7)年 根津氏が建てた洋館は、2つの洋室とサンルーム。
「玉姫」
桃山風の天井や寺社風の装飾がある長押。
アールデコを基調としたサンルーム
硝子天井 タイル床
「玉渓」
ヨーロッパの山荘風だそうです。
覆いにサンスクリット語の装飾をあしらった暖炉。
入口の天井には、美しい色の竹が用いられています。
床柱のような太い丸柱は、古社の柱か江戸期の千石船の帆柱かとも。
「玉姫・玉渓」の外観
「金剛」
1929(昭和4)年 根津氏により建てられた洋間と浴室。
螺鈿細工のトランプ模様が嵌め込まれています。
中国風デザインのステンドグラス
ローマ風浴室
「孔雀」
1919(大正8)年 内田氏別邸の一部。
旅館だった頃、舟橋聖一氏が好んだ部屋だそうです。
旅館「起雲閣」当時は、山本有三・志賀直哉・谷崎潤一郎・太宰治など
著名な文豪諸氏が好んで滞在し、名作が生まれる舞台となったそうで
ゆかりの品々や資料などが展示されてありました。
中央に水が流れ、池・築山を配し約20tという巨石が置かれた広い庭園は
庭好きだったという根津氏が、自ら采配を振るって作庭したものだとか。
朝 家を出るときは、小田原で街歩きをするつもりだったのだけど
乗った電車が 偶々熱海行きだったので・・・急に気が変わって「熱海」へ。
‘風来坊猫’の散歩は、しばしばこんな具合デス(笑)
熱海を歩くのって、何十年ぶりだろ?
まずは、駅そばの案内所へ行って観光ガイドマップをGETし
とりあえず 人の流れにそって歩き始めよう☆
熱海は、昔から名だたる温泉保養地。
街のあちらこちらで、立ちのぼる蒸気を目にします。
「小沢の湯」
人が大声で呼べば大いに湧き、小声で呼べば小さく湧き出たとか。
「目の湯」
眼病に効能があったというので、この名。
「清左衛門の湯」
昔、清左衛門という人が湯壺に落ちたからとか。
「大湯間歇泉」
古くから間歇自噴泉でしたが、関東大震災後は止まったり復活したり・・
現在は 人工的に噴出するようになっているそうです。
他にも 「〇〇の湯」というのが街の所々にあって、「七湯めぐり」で
観光客に温泉町の雰囲気を楽しませようという仕掛けのようです。
大湯の近くに 「湯前(ゆぜん)神社」
祭神: 少彦名神
温泉の神として、1,000年以上も昔から崇敬されてきたといわれ
春秋の例祭には、献湯祭・湯くみ道中の神事が執り行われるとか。
境内に、源実朝の詠んだ歌を刻んだまだ新しい碑がありました。
「 都より 巽にありて 出湯あり 名はあづま路の 熱海(あつうみ)といふ 」
商店街に目を引く建物 「常盤木羊羹店」
1000年以上昔から、4代続く和菓子の老舗。
建物は、昭和初期に建てられたそうです。
「芸妓見番」
「糸川」という細い流れの両岸には
「熱海桜」の名で親しまれる寒桜が咲いています。
晴天の予報に反して、昨夜に続きまたも降りだしそうな雲行き
ですが・・
さすが有名な観光地だけあって、人の流れの絶えない週末の1日です。
中之条から四万温泉に入る少し手前、四万川の流れの途中に「甌穴(おうけつ)」があります。
川の渦流によって川底の石が同じ場所でくるくると回転し続け、数万年の歳月のうちに
凝灰岩の岩盤に穴を穿ったもので、此処には大小8個あるそうです。 「甌」は「甕」の意味。
河原への階段を下りて行くと、
速い流れが段差のある岩を、白い飛沫をあげて下りてきます。
流れが渦を巻いて・・
甌穴を形成しています☆
頭上の道路を行く車の音までも、消してしまうような水音と
冷たい川水のミストを浴びながら、時間も暑さも忘れていました・・
10,422歩
JR吾妻線「中之条」駅から関越交通バスで約30~40分、
群馬北西部 「四万川」沿いにある「四万(しま)温泉」にやって来ました
ナトリウム・カルシウム・塩化物硫酸塩の湯は、四万もの効能が
あるそうで、特に胃腸病など消化器系疾患に飲んで効くといわれ、
1954(昭和29)年 「国民保養温泉地」第1号に指定された名湯です。
温泉の起源には諸説あるようで、坂上田村麻呂が蝦夷征伐の途中で
立ち寄り発見したとも、また源頼光の家臣 碓井日向守貞光が発見した
とも伝わっていますが、いずれにしても平安中期頃のことのようです。
温泉街を歩いてみると、特徴のある旅館を目にします。
「四万たむら」
坂を上ったところにある大きな茅葺屋根の旅館は、創業500年。
室町時代から続くという、四万で最古の湯宿だそうです。
「積善館」
1691(元禄4)年の創業だそうです。
説明板によると、赤い橋の下を流れる新湯(あらゆ)川の
川底に源泉があり、毎分900Lの湯が湧出しているとか。
木造3階建ての本館は、現役の温泉建築としては我が国最古の
建物といわれ、県の重要文化財になっています。 アニメ映画の
「千と千尋の神隠し」に出てくる湯屋のモデルだそうですよ。
「落合橋」の上から
今日も、炎天下をよく歩きました~
硫酸塩泉の「美肌の湯」に浸かって、の~んびりしましょ
16,492歩
JR吾妻(あがつま)線「中之条」駅で降りると、今日もギラギラ~
暑い~~!!
が、
調べたい事があるという‘トノ’に お付き合いして
「中之条町 歴史と民俗の博物館」
建物は、1883(明治16)年に当時の金額で5,200円余をかけて建築されたという
「旧吾妻第三小学校」校舎で、外観は洋風、内部は和風の木造建築は県指定重要
文化財になっています。 当時の人々の教育にかけた情熱が伝わってくるようですね!
館内には中之条町を中心に、吾妻地域一帯の歴史的資料などが展示されています。
歴史にはと~んと疎い‘猫’ですが、地域柄当然「武田VS上杉」に関する資料もあり
真田氏なども登場してきて、子供の頃に熱中?した忍者ごっこを思い出したり(笑)
予想外におもしろく見てまわりました。 さて、‘トノ’の方は収穫があったのカナ・・?
1階に、小学校の教室が再現されてありました。
足踏式のオルガン☆
博物館を出て、町なかを少しだけ歩いてみました。
「町田家」
唐破風造りの玄関が目を引く屋敷構えです。 国登録重要文化財。
町田家は町内屈指の旧家で、代々名主を務めた格式ある家柄だそうで
1873(明治11)年から10年ほどは、吾妻郡役所としても使われていたとか。
立派な山門を見かけたので、行ってみると・・
「寶満山 白雲院 林昌寺」
曹洞宗のお寺です。
文安年間(1444~49) 天台宗の僧 長馨(ちょうどん)師が創建。
その後荒廃しましたが、真田幸隆の弟 矢沢薩摩守頼綱によって
再興され、沼田 真田氏の庇護を受けて寺勢を伸ばしたといいます。
山門と本堂の屋根には、「六文銭」の紋どころ☆
境内のしだれ桜は、町の天然記念物に指定されているとか。
市街の北に聳え立つ、特異な形をした岩山は・・
「嵩(たけ)山」
嶽山・岳山・武山とも書き、和利(わり)嶽・見付山などと呼ばれて古くから祖霊を祀る
霊山として信仰されてきた、中之条町のシンボルの山だそうです。 標高789m。
室町時代中期に嵩山城が造られ、戦国時代には上杉謙信が沼田城攻略のため
最重要視していた岩櫃(いわびつ)城の出城でした。 1565(永禄8)年 嵩山城の
斉藤憲宗・城虎丸率いる斉藤軍(上杉方)は、真田幸隆率いる真田軍(武田方)の
調略・猛攻を受けて落城。斉藤一族は自決し滅亡しました。(嵩山合戦)
嵩山の南麓に、立派な社殿が建っています。
「親都(ちかと)神社」
祭神: 須佐之男命
配祀: 品陀(ほんだ)和気命
現在の社殿は、1677(元禄12)年大風で大破したあと修復したもの。
境内には杉・ケヤキなどの大木が56本もあって、神社の森を形成しています。
神社周辺は、その昔「ちかと千軒」といわれる大集落があり賑っていたといわれ
南北朝の頃に編纂された『神道集』にその名が見られるということです。
ご神木の大ケヤキ
社殿鬼門に当たる所にあり、県指定天然記念物。
樹齢 約700年 樹高 約15m 目通り 9.7m
「中之条」駅の近くから見た「嵩山」
一見してすぐそれとわかる、本当に特徴のある形ですね。
上高井郡高山村の山あいにある温泉群は、「信州高山温泉郷」と呼ばれます。
今回訪ねた「山田温泉」もその1つで、JR「長野」駅から長野電鉄に乗り換え
「須坂」駅で下車し、バスなら約30分。 水量豊かな松川渓谷に沿って
9軒ほどの宿が並び、ひなびた山里の風情が残る静かな温泉地です
泉質は硫黄を含み、ナトリウム・カルシウム・硫化水素の湯は50~70℃ 。
温泉の発見は今から800年も昔といわれ、200年ほど前 現在の地に引湯されたとか。
嘗て 一茶・山頭火・鴎外・鉄幹&晶子夫妻・牧水など、多くの文人も訪れたようで
あちらこちらに、碑が建てられてあります。 その一部をご紹介しますね。
「 此のゆふへ 外山をこゆる 秋かぜに 椎もくぬぎも 音立てにけり 」
太田水穂(1876-1955)は、歌人で国文学者。
「牛窪(牛久保)神社」
社殿は1859(安政6)年建立。 祭神は大己貴命。
参道の傍らに、明治27年建立の小林一茶の句碑がありました。
「 梅が香よ 湯の香よさては 三日(みか)の月 」 一茶
大正13年 建立
「 おなじ名に なりてたかるる 落葉哉 」 笠山
「薬師堂」
1828(文政11)年 建立。 高山村指定有形文化財。
境内に、種田山頭火の句碑
「霧の底にて 啼くは筒鳥」 山頭火
「大湯」
山田温泉のシンボル的な建物の共同浴場 ¥300
傍らに、足湯もありますよ~
「滝の湯」
宿泊客と地元の人専用の共同浴場
温泉街の坂道を上って行ってみました。
遠くの山々が顔を覗かせています。 あれは・・「飯綱山」 「戸隠山」?
松川の向かいの山壁に、何段にもなって落ちる滝が見えます。
「八滝(やたき)」
展望台から見る、8つの滝壷をもつ落差180mの豪快な滝です。
「雷(かみなり)滝」
松川の奔流が轟音を立てて落下する音から、こう呼ばれています。
落差 30m 幅 29m 岸壁の高さ 約40m
滝の裏側を通って見ることができるので、別名「裏見の滝」とも。
温泉街から雷滝まで、車も通る舗装路を上ること1時間余。
ちょうどいい運動になりました~
この後 宿に戻って一風呂浴びたら、も
も
さぞさぞ美味しいことでしょうね~
14,248歩
須坂市は明治時代以降、近代製糸業の発展に伴い 「須坂・横浜・ヨーロッパ」と
いう言葉が生まれるほど、時代の最先端をゆく繁栄を見せていた町で、
今でも多くの土蔵造りの建物が残っている「豪商の町・蔵の町」です。
そんな須坂の町を、‘野次馬猫’の目で所々見学しながら散策しました。
「須坂クラシック美術館」
旧 牧新七氏邸
製糸業が発展を始めた明治10年代に建てられた製糸家の住居兼店舗。
当時としては貴重な輸入材が使われた主屋など、典型的な大規模町屋です。
現在は、古民芸や着物などを展示する美術館になっています。
自然石の形を活かしながら接着面のみを平らに加工して積んでいく
「ぼたもち石積み」というもので、1つ積むのに数日も要するという
高度で手間のかかる工法のため、現在は受け継がれていないとか。
豪商の裕福さの一端が偲ばれるものですね。
「ふれあい舘 まゆぐら」
旧田尻製糸所の3階建の繭貯蔵庫を、現在地まで‘曳船’移転し修復した建物。
養蚕・製糸に関するさまざまな資料・器材が展示されていて、おもしろかったです。
蚕棚 給桑台
回転桑刻器
足踏式座繰機
「墨坂神社(芝宮)」
祭神: 墨坂神 建御名方命
673(白鳳2)年に、大和国・墨坂神の分霊を勧請したのに始まるという古社です。
平安時代の延喜式神名帳に記載のある所謂式内社で、市内小山にも「墨坂神社」が
あるため、地元では鎮座地の名から「芝宮(しばみや)」と呼ばれているようです。
広い境内、石造りの太鼓橋、蚕を祀った境内社など。 説明書きでもあれば・・・
「笠鉾会館」
墨坂神社の夏の祭礼「祇園祭」で披露される笠鉾11基と
屋台4台、その他祭礼に関する文物が展示されています。
「宇治乃園茶舗」
100数十年続く老舗のお茶屋さんだそうで、
漆喰大壁造り3階建て望楼つきの堂々たる店構え。
「旧越家」
製糸王と呼ばれた越寿三郎氏ゆかりの建物。
氏創業の「山丸組」は、最盛時 従業員8,000人の国内屈指の企業だったとか。
畳数36畳に及ぶという、豊かな暮らしぶりが想像される邸宅です。
主屋と2つの土蔵は、国登録有形文化財になっています。
「ふれあい舘 しらふじ」
須坂藩で要職を務めた浦野家が、藩邸の西隅を固めるように建てたもので
大壁造りの長屋門や3階建ての土蔵、ぼたもち石積みなどに風格を感じます。
庭内には、樹齢100年を超すという、みごとな白藤の老木。
「旧上高井郡役所」
1917(大正6)年に建てられた木造瓦葺で、下見板張り壁・上げ下げ窓の洋風建築で
1926(大正15)年まで郡役所として使用されていたそうです。
ほかにも「田中本家博物館」や「塩屋味噌蔵」などなど、見学したい所があったのですが
とても数時間では廻りきれませんでした。 また機会があれば、もう少しじっくり見学したいな・・
大聖院の前から農道に入り、付近を散策してみました。
風もなく暖かで、のんびりいい気持ち~♪
ふり返ると、今下りてきた山が・・
この山かな↓
海側には、一面の菜の花☆
花摘みができる畑も、あちこちにあります。
花を摘む人達でにぎわっている畑もあります。
ストック1本 ¥50~¥80ぐらい。
国道を渡って、海岸に出てみましょう。
おもしろい波の造形を眺めながら☆
おや、こんなものが・・・
「元禄地震の再来想定津波高」とあります。
‘猫’の背丈を優に超える高さ・・・
現実に引き戻されたところで、今日の散策はここまで
17,867歩
今日は、「東海自然歩道」の本栖湖周辺を歩きます。
「東海自然歩道」というのは、1974年に完成したそうで
東京・高尾国立公園~大阪・箕面国定公園を結んで
1都2府8県を通り総延長1,697.2kmに及ぶ遊歩道です。
今回はそのうち、精進湖民宿村から本栖湖を経て山梨と
静岡の県境 割石峠まで、約10kmの樹林帯を歩きます。
久々の土の道で、気分は
11:00
精進湖民宿村から、樹林帯に入って行きます。
さぁ、ドキドキ&わくわくの始まりです♪
さっそく、周囲は露出した木の根と苔むした岩が
ゴロゴロしていて、樹海の雰囲気・・
でも、陽が射し込んで思ったより明るいので☆
暫くは、R139に並行して樹林の中を進みます。
右手に、「本栖城跡」への登り道
説明板によると;
標高1,056mの城山山頂には、自然の地形を利用して
烽火台ともいわれる中世山城の形態が残されています。
地勢や周囲の遺構、土塁・石塁などから、中道往還の
関門の役を果たした砦であったと考えられています。
小1時間も歩いていくと、やがて視界が開けて
「←本栖湖」の道標が・・ホッ☆
湖が見えてきました~
遠くに、富士山が頭を少しだけのぞかせています。
12:10
本栖湖に到着♪
水深138m 富士五湖の中で最も深い湖です。
湖の南側にどっしり構えるのは、標高1,485mの「竜ヶ岳」
湖岸で、静かな風景を眺めながら連れの友人と タイム~☆
が、
吹きつける風が意外に冷たくて・・・ぅ、寒っ!
食べ終わったら早々に、後ろの林の中へ避難
12:50
「本栖湖レストハウス」でトイレを済ませて、再び出発!
キャンプ場を抜け、落ち葉でふかふかの道を歩いて行きます。
やがて「←割石峠」の道標がありました。
ゴールはもう近いかな?
道端で見つけた木の実
またR139のすぐ横を歩き・・
急な階段やアップダウンの石ころ道を
息をはずませながらクリアして・・
14:20
県境・割石峠にゴ~ル
気持ち良く歩いて、スッキリした~
24,085歩
通称「陣馬街道」は、甲州街道(R20)の「追分」交差点から
西へ別れ、和田峠を経て神奈川・相模原市へと続いています。
嘗ては「案下(あんげ)道」と呼ばれ、また甲州街道の裏道だった
ことから、「甲州裏街道」・「甲州脇街道」とも呼ばれたようです。
陣馬山から、この案下道を「夕焼小焼」バス停まで
戻る道々、いろいろ興味深いものに出会いました。
「くぬぎ沢橋」バス停近くの道路脇に、大きな石碑がありました。
とくに説明はなく、碑文もよく読めなかったので詳細は不明・・
「道路改修記念碑」
「落合」橋の近くで、野生のに遭遇!
素早く逃げられてしまい、 が間に合わず残念・・
道路沿いにひときわ立派な建物。
「尾崎家長屋門」
尾崎家は、代々町長を務められた家だそうです。
門に「なんじゃもんじゃ」と書かれた板が架かっていますが・・何だろ?
隣接した場所に石碑があります。
「関場址碑」
説明板によると;
江戸時代、甲州街道の裏街道(案下道)の重要な交通要点として
治安警備などのため「口留(くちどめ)番所」が設置されていました。
番所は村持ちで、村方36人が交代で詰めていたといいます。
明治初年に廃止されましたが、「関場」の地名が残っています。
少し先へ行った所に、
赤い屋根と青い下見板張りの外壁が美しい建物。
「上恩方(かみおんがた)郵便局」
1938(昭和13)年から、今も現役とはスゴいですね!
看板が ホラ、右書きデスよ☆
また、道の左側に2基の石碑がありました。
「松姫の碑」 「街道之碑」
武田信玄の6女 松姫が、武田家滅亡の折にこの道を通って恩方へと
逃れ、八王子・信松院の尼として余生を送ったことが刻まれています。
「夕焼小焼」バス停に戻って来ました。
「高留」橋の先で左側の坂を上り、林の中へ入って行くと
「宮尾神社」
創建:元暦年間(1184~1185)
祭神:底筒男命(そこつつおおのみこと)・
中筒男命・表筒男命 ほか
現・社殿は、明治中期の築造
静かな境内に立派な歌碑
「夕焼小焼の碑」
この歌の作詞者中村雨虹氏は、ここ宮尾神社の宮司の家の
出だそうで、故郷の恩方の情景が歌われているのだとか。
1977年 氏の還暦を祝って建てられたものだそうです。
街道に戻り、すぐ先の右手にあるのが「夕やけ小やけふれあいの里」。
宿泊施設・食事処・キャンプ場や地場産野菜直売所などの施設があります。
ギャラリー・スペース「夕焼小焼館」
中村雨虹氏に関する資料のほか、地元出身の写真家 前田真三氏の
作品(モノクロの素敵な写真がたくさん!)が展示されていました。
中村雨虹氏
(展示パネルより)
そのほか、2007(平成19)年までこの路線を運行していたという
ボンネット型の乗合バス「夕やけ小やけ号」も展示されています。
約1時間の里歩きを楽しみました。
このあともう一箇所、お楽しみがあるんです☆
(続)
北関東の紅葉といえば、此処は外せませんよね!
久慈郡大子町(だいごまち)の「袋田の滝」は、久慈川支流の滝川上流にあり
四段になって岩肌を流れ落ちるところから、「四度の滝」とも呼ばれています。
紅葉の最盛期とあって、駐車場からこの人波
沿道の土産物店には、色とりどりのこんにゃくや鮎の塩焼き・
団子・きのこ類など名物が並んで誘惑しますが
まずは滝、滝!(笑)
行列は、展望台へと続く観瀑トンネル入口(画像の右上)まで途切れません。
1979(昭和54)年に完成した、長さ 276m 高さ3m 幅4mのトンネルの
先に第1展望台、更にその奥のエレベーターで、2008(平成20)年に
新しく完成した第2展望台へと上がることができます。
トンネル内も人・人・人・・
第2展望台へのエレベーターは2台あるようですが、それにも長い列。
なんと、「乗車15分待ち」ですって!
行列が大嫌いな‘猫’は、とてもそんなに待ってはいられませぬ・・
上がるのはやめて、第1展望台からゆっくり滝見物をすることにしました。「袋田の滝」
全長 120m 幅 73mの優美な滝ですが、近くで見ると結構迫力があります。
華厳の滝(栃木) 那智の滝(和歌山)と並んで「日本三名瀑」と称され、
当然ながら、「日本の滝100選」にも選定されているそうです。
冬季の「氷瀑」も有名ですよね。
トンネルの途中から、右手に出たところに吊橋があります。
吊橋の上からも、滝が見られます。
滝の正面にあるのが、第1展望台の建物。
今日は、とても良いお天気でうれし~
次に向かったのは、車で20分ほどの常磐太田市にある「竜神大吊橋」
1994(平成6)年に造られた、有料の観光用歩行者専用吊橋です。
トラスト補剛形式を採用し、全長 375m 幅 3m
湖面からの高さは、約100m
見下ろすと、竜神川を堰き止めて造られた「竜神ダム」
ダム建設によりできた「竜神湖」
その名のように、この付近の里には竜神伝説が伝えられているそうです。
ホントに竜神が棲んでいそうな雰囲気がありました・・
吊橋を往復するだけにもかかわらず、ここも大勢の観光客でした。
きっと、紅葉が人々を惹きつけるのでしょう☆
今年の初紅葉は、高萩市の花貫(はなぬき)渓谷です。
花貫川沿いに続く渓谷は、ちょうど紅葉の真っ盛り
渓谷に沿って、2時間ほどの紅葉狩りを楽しみました。
「名馬里(なめり)ヶ淵の伝説」
昔 この川下にある家の雌馬が、いつもこの辺りへ遊びに来ていました。
やがてこの馬が子馬を産むと、不思議なことに子馬は棒の上に寝ていたり
木に登って遊んだりしました。村人達は驚き、子馬はこの淵に住む大蛇の
子に違いないと、淵に沈めてしまいました。 すると俄かに空が暗くなり、
激しい風雨が続いて大洪水となり、村は流されてしまったそうな。
渓谷の途中に、長さ60mの吊橋が架かっています。
「汐見滝吊橋」
揺れる吊橋の上から見下ろすと
「汐見滝」
時折 小雨のぱらつくお天気でしたが、濡れて
色を増した紅葉もまた、溜息を誘う美しさ
紅葉は綺麗でしたが、人も車も多かったです・・(笑)
昨年は13万人余も押し寄せたとか。 今年は、さて・・?
「田中一村展」開催中の千葉市美術館が入っているビルは
1927(昭和2)年に建造された「旧川崎銀行千葉支店」の建物です。
「旧川崎銀行千葉支店」
(縮尺模型)
建物の正面入口
説明文によると;
この建物は、1927(昭和2)年 建築家 矢部又吉氏(1888-1917)の設計で
川崎銀行千葉支店として建設。1943(昭和18)年の吸収合併によって
三菱銀行千葉支店となったものです。
入口ドアの装飾
新設の市美術館と中央区役所で鞘のように包み込んでこの歴史的建物を
保存・再生するという、鞘堂方式が採用されており、現在はその名も
「さや堂ホール」として市民の文化表現の場として活用されています。
渦巻状の装飾が施された円柱が立ち並ぶ内部は、豪華なシャンデリアや
ドイツ製モザイクタイルの床も美しいネオ・ルネサンス様式が保存されていて
その独特の雰囲気から、映画やテレビドラマの撮影地になることもあるとか。
あぁ、そうした部分もじっくり見学したかったなぁ~~!!
千葉市美術館で開催されている田中一村の絵画展に行ってきました。
「田中一村 新たなる全貌」
「田中一村(いっそん)」
1908-1977
栃木出身の日本画家。 本名は田中 孝。
父は彫刻家。 幼い頃から画才を発揮し、「神童」と呼ばれました。
1926年 東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科に入学しましたが
経済的な理由から約2ヶ月で退学。以後、南画を描いて一家を養います。
1938年 千葉に移り、以後 20年間を千葉で暮らします。
千葉ののどかな農村やそこに暮らす人々を題材に描きました。
1947年 川端龍子主催の画展で《白い花》が入選。
それまでの「米邨」という号から、初めて「一村」を名乗ります。
しかし 龍子との意見の相違からその元を離れ、日展・院展などに
何度か出品しますが落選。日本画壇への絶望を深めます。
1958年 50歳のとき奄美大島に渡り、大島紬の染色工などを
して生活を切り詰めながら、島の植物や鳥などを描きます。
1977年 没。 享年 69歳。
2001年 奄美に「田中一村記念美術館」がオープン。
約450点の作品が収蔵されています。
(パンフレット 及び 会場での説明より)
何年前だったか、TVの美術番組で初めて氏の作品を見たとき
繊細さと命の躍動が同居している《不喰芋と蘇鉄》が強く印象に残りました。
その後ずっと一度実際に見たいと思っていたので、叶って嬉しかったです♪
会場には、初期の南画から鉛筆描きのスケッチ、千葉時代の作品、
そして晩年の奄美時代の作品まで約250点。 絵画のほかにも
氏の手になるという木魚や根付などの木彫、愛用の筆や絵の具、
また、手紙の下書きといった珍しいものなども展示されてあります。
今回は《枇榔樹の森》というモノトーンの絵が、とても印象的でした。
どんな絵なのかを、ここでご紹介できなくて残念!
web検索してみてくださいね~
週末とあって、結構多くの人達が来場していました。
会期は9月26日まで。