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スニーカー履いて

‘猫’も歩けば・・・今日はどんな出会いが?

旧東海道・二宮~国府津①

2012-04-29 | 旧東海道


前回のゴール、JR「二宮」駅からスタートします。
二宮駅には数回降りたことがあるけれど、海側は初めてだな・・

駅前に 「ガラスのうさぎ像

高木敏子さんの自伝的小説『ガラスのうさぎ』は
ここ、二宮が舞台でしたね。




駅前からR1を歩いて行くと、所々に松の木が並んでいたりします。
マンホールの蓋のデザインは・・ツバキ?
       


700~800m行くと、「吾妻神社入口」信号の手前で右へ分岐する道。
「旧東海道の名残」の道標があるので、これが旧街道のようです。




旧道に入ってすぐ右側に、石の鳥居。
左右に、「吾妻神社」と刻まれた立派な石碑もあります。

以前、駅の北口側から訪ねて行ったことがあるのですが
お天気も良いことだし、今回はこちらから上ってみましょうかね☆



鳥居を抜けて行くと、じきにJR東海道線の線路に突き当たります。
嘗ては先程の鳥居から続いていた参道が、鉄道で分断されたのでしょう。
傍らの歩道橋で線路を越えると、道を隔てて「梅沢登り口」の鳥居。



新緑の中を、緩やかな勾配の登りやすい階段がジグザグと続きます。
       

10分ばかり上ると、

吾妻神社

創建は、第12代景行天皇の頃といわれているそうです。 祭神は
弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)で、日本武尊(やまとたけるのみこと)を配祀。

弟橘媛命入水の7日後に海岸に漂着した櫛を埋めた地を「埋沢(梅沢)」、
小袖が漂っていた磯辺を「袖ヶ浦海岸」と呼ぶようになったと伝わっています。



ここまで上ってきたので、まだタイムには早いけれど
すぐ上にある山頂広場で一休みしていきましょう☆


標高136mの山頂は、休日を楽しむ人達が大勢。



相模湾や



箱根・丹沢の山々も一望☆



草はらに寝転んで、ひと眠りしたくなってしまう・・



歩きはじめから、早々とマッタリ休憩してしまった・・・
先が思いやられますぅ~


(続)





旧東海道・大磯~二宮②

2012-04-18 | 旧東海道


城山公園でエネルギー・チャージして、元気百倍



「本郷橋」を渡って、住宅街へと
入って行くと、
左側に、

国府山 宝前院

真言宗のお寺だそうです。

説明板のようなものは見当たらず、ひと気もありませんが
境内には、見事なイチョウ・
クスノキの巨木といろいろな花々が・・





住宅街を進んで行くと、
やがて、左側のR1と並行する松並木の道になりました。
      


国府本郷一里塚」の標柱

日本橋から17番目の一里塚が、国府本郷内の此処から
約200m手前にあったことを記した説明板があります。

旧道はやがて、「国府新宿」交差点でR1に合流します。


少し先の「六所神社入口」交差点の右側に、
朱塗りの大鳥居と「相模国総社六所神社」の石柱。
神社の参道のようですね。 行ってみましょう☆



まもなく、右手にお寺があります。

寶積院

真言宗のお寺。

町最古の「国府新宿梵鐘」には、1631(寛永8)年の銘と
銘文中に、国衙(国府の政庁)の役人の「在張(庁)」の陰刻。
      
                            (説明パネルより)

お寺の入口に、大きく枝を広げたカヤの木が立っています。
樹高 15mと町内最大級の大木で、推定樹齢 300年以上とか

      


JR東海道線の下をくぐる「六所架道橋」を抜けると、長い参道の先に
社殿が見えてきました。 左手に、樹齢700年の大ケヤキ。
 


六所(ろくしょ)神社

主祭神: 櫛稲田姫命(くしなだひめのみこと)
相殿に祀られる分霊: 寒川神社・川勾神社・比々多神社・前島神社・平塚八幡宮

社伝によると;
崇神天皇の頃、出雲国から移住した柳田氏が当地を開拓し、「柳田大神」を
祀ったのに始まり、718(養老2)年 現在地に遷座して「六所神社」となりました。

『吾妻鏡』には、1186(文治2)年 源頼朝が社殿を造営、1192(建久3)年には
  政子の安産を祈願して神馬を奉納しています。 また、1252(建長4)年には
第6代征夷大将軍となった宗尊親王が、幣帛神馬を奉納したと記されています。

現社殿は、永正年間(1501-20)に北条氏綱が造営、氏政が修復したものとか。

      

古来 都から各国(地方)に派遣された国司は、先ずその国の主要大社を巡拝する
ことになっていましたが、それには多くの日数・費用・人員を要したために、やがて
各社の分霊を国府近くの神社に合わせ祀って「総社」と称し、参拝するようになりました。

「相模国府祭(さがみこうのまち)」
 一之宮「寒川神社」(寒川町)・二之宮「川勾(かわわ)神社」(二宮町)・
三之宮「比々多神社」(伊勢原市)・四之宮「前鳥(さきとり)神社」(平塚市)・
「平塚八幡宮」(平塚市)の各神社から、毎年5月5日に分霊が総社である
「六所神社」に集まり、国家安泰・五穀豊穣などを祈念する祭典が行われます。





R1に戻って、西へと進みます。

「変電所入口」の信号を右折し、「JR二宮変電所」の前を過ぎて・・

日吉山 蓮花院

真言宗のお寺で、相模新西国観音霊場第5番札所です。

本尊の「木造 聖観世音菩薩 及び 二天立像」は町指定有形文化財。
3体のうち、中央の像高35.5cmの観音像は平安後期の作と推定
され、二天像は観音像とは別作で江戸時代の作とされています。

(説明パネルより)




R1に戻ります。
「二宮町」に入って来ました。



塩海橋
      
傍らに「塩海の名残り」の標柱が立っていますが、何を指しているのか・・?
この付近の浜では、塩が製造されていたのでしょうか。

ほどなく、右手に入った所がJR「二宮」駅。
今回のゴールといたしまセウ☆



先述の六所神社で頂いた「湯津爪櫛(ゆつつまぐし)御守」


今さら‘良縁’は望みませんが(笑)、女性の災禍除けのお守りとか。
櫛稲田姫命のご神徳に守られて、この先も楽しく旅が続けられますよう・・


今回は、25,803歩





旧東海道・大磯~二宮①

2012-04-17 | 旧東海道


なかなか更新が進みませんねェ・・・
がんばりまっす!


左手に、石造りの鳥居と可愛らしいお社。

八阪神社
      
とくに説明書きはありませんが、何でも京都・八坂神社の末社のようです。
牛頭天王を祀り、疫病退散・五穀豊穣のご神徳があるとか。
 タイムにちょうどいいナ・・と思ったら、先客アリ。
やっぱり皆さん、思うことは一緒のようです(笑)
では、‘猫’はもう少し先まで




「小磯幼稚園入口」信号の右側に、

西国三十三所巡礼供養塔





道の反対側に、標柱が見えます。
「日本橋から70km」





やがて、小さな「切通し橋」を渡ります。
下を流れる細い川は、何とも物騒な名の「血洗川」

その先で道は左右に分かれます。 
右が旧街道とか。


分岐の手前、左側の門は吉田 茂邸

総檜造りのお屋敷を、いつか機会があったら見学したいと
思っていたけれど・・・焼けてしまったんですよね、残念!!


分岐のすぐ先、左手奥に

西長寺
      
                            (説明パネルより)          

説明板によると;
ご本尊の「地蔵菩薩立像」は、像高148.7cmの石像で頸と胸に
継目があり、行基作といわれて 市の有形文化財になっています。
元は、近くの切通しの岩窟の中に祀られていたといいます。

1191(建久2)年 源頼朝の行列が鶴岡八幡宮で襲撃されたとき、
梶原景時の家臣 悪太郎義景が疑われ、畠山重忠に切られましたが
義景は刀傷ひとつ負わず、代わりに日頃信仰していたこの地蔵尊の
肩に刀痕ができていたと言われています。 このようなことから人々は
お堂を建て、「身代わり地蔵尊」として祀ったと伝えられています。



街道の右側に、

県立 城山(じょうやま)公園

室町時代に、「小磯城」が築かれていたといいます。
1477(文明9)年には太田道灌が、この城に立て籠もる長尾景春の
被官 越後五郎四郎を破ったという記録が残されているそうです。

1898(明治31)年 三井財閥が別荘を構え、7haもの敷地が整備され
庭園内には、織田有楽斎建立の茶室「如庵」(国宝)などもありました。
1990(平成2)年 公園として開園し、多くの人が訪れています。

三井別邸当時の様子

(説明パネルより)

緩やかな坂を上っていくと


展望台があります。


快晴なら富士山が大きく見えるのですが、今日は・・・
それでも、見下ろせばこの眺め☆

ここでゆっくり  タイム~♪


広い園内には、縄文時代の横穴墓群や郷土資料館
茶室「城山庵」・芝生広場などのほか、

「不動滝」


「不動池」


緑豊かな園内をゆっくり散策して、午後からの‘元気’ をチャージ!


(続)




旧東海道・大磯宿②

2012-04-16 | 旧東海道


R1を西へ向かって歩いていきます。


 
街道の左側に、

鴫立庵


「こころなき 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ」と
いう西行法師の歌で名高いこの地に、1664(寛文4)年 小田原の
崇雪という人が草庵を結んだのに始まり、1695(元禄8)年に俳人の
大淀三千風が入庵し、第1世庵主となりました。 現在は落柿舎(京都)・
無名庵(滋賀)とともに、我が国の三大俳諧道場の1つとされています。

敷地内は、あちらにもこちらにも句碑の数々・・


庵の少し手前に、

湘南発祥之地 大磯」碑

崇雪が大磯の景勝を讃え、中国の湘南に似ているとして
「著盡(ああ)湘南清絶地」と刻んだ標石を建立したことから
「湘南」という呼び名が始まったといわれています。


湘南・大磯には、明治になって元勲や財閥
の邸宅・別荘が立ち並びました。
現「大磯町役場」は、山内容堂(豊信)の子息 山之内豊景邸の跡地。

その横の道を入った所にある、石垣も立派な巨大マンションは
日清戦争で使われた村田銃の発明者 村田経芳男爵と、日立製作所の
礎を作った実業家 久原房之助氏の邸宅があった場所だそうです。






鴫立庵の向かい側に説明板がありました。

高札場跡

高さ約3m 幅約5mほどもあり、幕府の権威を示すために
見上げるように作られていたといいます。




R1を暫く歩き、「統監道」バス停を少し過ぎた左側に

京方見附跡

街道を挟んだ両側に、台形状に高さ1.6mほどの石垣が積まれ
その上に竹矢来が組まれていたそうです。 平塚の江戸見附跡
見た、アレと同じようなものがこの辺りにあったわけですね。
旅人に宿場の出入り口を標示する「御料傍示杭」が立っていました。

大磯宿とは、早くもここでお別れということになりますが
まだまだ歩いて行けそうですよ



山形有朋邸跡地にある「大磯中学校」の辺りから
東海道の面影をとどめる松並木が続きます。
(歩道橋の上から  )


幹周り約4.3m 樹齢約300年の一番太い木から、まだ可愛い若木まで
形も大きさもさまざまなクロマツが、濃い緑蔭を形成しています。
      


1994(平成6)年 マツクイムシの被害に遭って倒れた
樹齢217年の松の切り株には、年輪の所々に年号と
当時の出来事が記されていますが・・・もう判読できません。


左側に、長~い石塀が続きます。


陸奥宗光邸・大隈重信邸があった所で、現在は古河電工の寮とか。



その先に、「伊藤公 滄浪閣跡」

伊藤博文邸の跡地です。

そういえばこの辺りも、以前歩いてご紹介したことがありましたよね。


小路を挟んで隣接する「旧西園寺公望邸」

現在は、企業の所有になっているとか。






滄浪閣と、R1を隔てて対面にある鳥居は・・

宇賀神社

      
「宇賀」さんといえば、たしか蛇身の神様ですよね・・
赤い鳥居といい、たくさん奉納されているお狐さんの石像といい、
お稲荷さんでは?と思うのですが・・・稲荷神社ではないのですかね。
とくに説明書きもないし、その方面の知識がないのでわかりませんが
そのせいか、何かミステリアスな感じのする神社でした。


(続)

 


旧東海道・大磯宿①

2012-04-15 | 旧東海道


前回に続き、JR「大磯」駅からスタートします。


駅前広場左の観光案内所でマップをGETし、坂を下って行くと
R1(旧東海道)に出ました。 さっそく道路沿いの左側に、

神明神社
      
祭神: 天照大神
古来 紅葉山神明台に祀られていたものが、享保年間(1716-35)に
神明森に移された後、現在地に遷座されたと伝えられています。
神明造りの現社殿は、1930(昭和5)年に再建されたものとか。

1868(明治元)年 明治天皇が初めて京都を発って東京へ行幸の途次
大磯宿小島本陣に御宿泊の際、ヤタノカガミを祀る「内侍所御羽車」が
奉安されたことを記した石碑(昭和5年建立)が建っています。
因みに、東幸費用は77万両(約50億円)だったそうです。




秋葉神社

1762(宝暦12)年の大火で、宿場の殆どが焼失したため
遠州・秋葉神社を勧請し、大運寺内に社を建立したのが始まり。
1918(大正7)年に現在地に遷座されました。


秋葉神社から坂を下ったところに、お寺の山門。

宮経山 延台寺

日蓮宗のお寺。

創建: 1599(慶長4)年
開山: 法雲院日道上人
        (身延山第19代法主)
曽我十郎の想い人 虎御前が、剃髪して結んだ庵の跡ともいわれます。

このお寺は、以前にご紹介したことがありました。

虎御前

十郎の死後 19歳で剃髪し、生涯その菩提を弔って過ごしたとか。
「 露とのみ 消えにしあとを 来てみれば 尾花が末に 秋風ぞ吹く 」

境内には、虎御前に所縁のものがいろいろ・・
「法虎庵曽我堂」


堂内にある「虎御石」は、錦に覆われていました。


虎御前供養塔                 祈願した竜神
      




街道の右側に

北組問屋場跡」の説明板

全国各地からの書状や荷物の継ぎ立てを行う場所で、
大磯宿は、北と南の2か所に人足・馬が準備されていました。

大磯~小田原 お定め賃金(正徳元年)
 乗掛荷人共(人と荷20貫まで) 185文
 軽尻馬壱疋(人と荷5貫まで)  124文
人足壱人     (荷5貫まで)  90文 



創業100年という蕎麦処「古伊勢屋」の傍に

小島本陣跡
      
1803(享保3)年頃の大磯宿には、小島(建坪246坪)・尾上(238坪)・
石井(235坪)という3つの本陣があったそうです。



右手の少し奥に、

船附山 地福寺

真言宗のお寺。 境内に、島崎藤村夫妻のお墓があります。
ここもご紹介済みなので、説明は割愛




街道の左側を入って行ったところに、

船附山 薬王寺 東光院
 
真言宗のお寺だそうです。
本尊: 薬師如来
くわしいことはわかりません。 境内の桜がとても綺麗でした。





「日本橋から68km」

「照ヶ崎海岸入口」の信号で二股になっています。
左が旧街道筋、右がR1ですが、この先でまた合流します。


突き当たりの緑陰には・・

「新島襄終焉之地」碑

47歳の若すぎる死・・・


この辺りに「南組問屋場」があったようです。



左側に大きな石柱。 この先は、どうやら海のよう
「大磯照ヶ崎海岸海水浴場」と刻まれています。
      


右側に、右書き看板の和菓子のお店
「新杵」

大磯で有名なお店です。
島崎藤村や吉田茂氏もご贔屓だったとか。

‘猫’も大好き  「西行饅頭」



旧道を行くと、ほどなく

「真壁豆腐店」                   「井上蒲鉾店」
      
創業明治37年                  創業明治11年
豆の味が濃いお豆腐・厚揚げ・生湯葉・・   はんぺんが絶品!午前中に売り切れます。

グルメ・リポートになってきた・・(笑)
こうした昔からのお店に、今日もお客さんがひっきりなし・・
さすが
大磯だなぁ!

(続)



旧東海道・大磯宿へ

2012-04-07 | 旧東海道


その名も美しい「花水橋」を渡り、R1を進んで行くと
「高来神社入口」交差点の右手に、鳥居に続く参道があります。


高来(たかく)神社

     祭神:
神皇産霊尊(かんみむすびのみこと
                  天津彦穂邇々伎尊(あまつひこほのににぎのみこと)
応神天皇  神功皇后

中世の戦乱により記録が焼失して創祀の詳細は不明ですが、717(養老元)年
行基上人がこの地を訪れて、山頂に「高来寺」を創建したのに始まるともいわれ、
鎌倉時代には、源頼朝が政子の安産を祈願し神馬を奉納したと伝えられています。

江戸時代までは「高麗寺」に属し、明治元年の神仏分離で「高麗神社」となり
1897(明治30)年 「高来神社」と改称したようです。

      




「高来神社」に隣接するお寺は、

慶覚院

  創建: 1613(慶長18)年
本尊: 千手観音菩薩像
「高麗寺」の末寺で、高麗寺が廃寺となった際に寺物が移されたとか。

「木造 地蔵菩薩像」  

もと高麗寺地蔵堂の本尊で、像高 145cm。
寄木造 玉眼嵌入 県指定重要文化財
面部内に1278(健治4)年造像時の墨書銘が残されており、
鎌倉後期における鎌倉仏師の制作と考えられています。


「木造 仁王像」2体

これも高麗寺の遺産で、江戸初期の制作といわれます。 
町指定有形文化財で、現在は市郷土資料館に展示。




R1に戻って進んで行くと、両側には樹木に囲まれた
住宅が並んでいて、どこか旧街道の雰囲気☆



左手の住宅のすぐ前に

化粧井戸
      
鎌倉時代には、この「化粧坂」辺りが大磯の中心であったといわれます。
仇討で有名な曽我十郎の恋人 虎御前もこの近くに住み、この水で化粧をした
とか。 格子の蓋がしてあり、中を覗いてみましたがよく見えませんでした・・



道に面して草花が植えられ、所々に歴史のありそうな大木もあり
住民の方たちに愛され保護されているのを感じます。
      


「大磯八景 化粧坂之夜雨」碑

「雨の夜は 静けかりけり 化粧坂 松の雫の 音ばかりして  敬之」
大磯小学校第2代校長 朝倉敬之氏の筆とか。 

明治の頃 各地で土地の名所を「〇〇八景」とすることが流行し、
ここ大磯でも、名所の八景を選んで絵葉書を出版したそうです。
1923(大正12)年には、各所にその記念碑が建立されました。

現在「小淘綾(こゆるぎ)の晴嵐」を除く、7基が残っているとか。
「高麗寺の晩鐘」 「花水橋の夕照」 「化粧坂の夜雨」 「唐ヶ原の落雁」
「鴫立沢の秋月」 「照ヶ崎の帰帆」 「富士山の暮雪」




JR東海道線の線路をくぐる「竹縄架道橋」を抜けると
旧街道の面影を一層色濃く残す松並木が続いています。




大磯宿 江戸見附」跡






さて、ここからいよいよ「大磯宿」に入ります。
次回は、JR東海道線「大磯」駅からスタートすることにしましょう~☆


26,822歩




旧東海道・平塚宿②

2012-04-06 | 旧東海道


ちょっとバタバタしていて、なかなか更新できなくて・・

さて、気を取り直してボチボチ参りますか。
「平塚宿」の続きを、お付き合いくださりマセ~



「平塚の塚緑地」のすぐ近くに、「要法寺」の墓地。 その中に・・

「お初の墓


歌舞伎『加賀見山旧錦絵』の「鏡山お初」のモデルとなった
女性(名前は「たつ」)のお墓と伝えらえています。

「明和六年(1769)」の刻銘

たつ女は平塚宿の松田久兵衛という人の娘で、荻野山中藩の大久保長門守の
江戸屋敷で中臈 岡本みつ女に仕えていました。 ある時、みつ女が年寄 沢野から
侮辱を受け自害したため、主の自害した小脇差で仇を討ったと伝えられています。

傍らの立派な碑は、1935(昭和10)年に建立されたものだそうです。



墓地と背中合わせに、神社があります。

春日神社


特に説明板もなかったので、帰宅後に調べてみました。
Wikipediaによると;
創祀年代は不詳。
もとは平塚山黒部宮と称し1191(建久2)年に
源頼朝が相模川の橋供養の祈願所と定め、翌 建久3年には
御台所 政子の安産祈願に神馬を奉納したといいます。

      
1843(天保4)年の狛犬さんは、江戸後期の特徴をよく残しているといいます。

神社なのに・・





「問屋場跡」まで戻り 街道を西へ向かって行くと、道は二股に分かれます。
 右の道が旧東海道のようですが、地図を見ると、どちらの道を行っても
R1に合流することになるので、このまま直進することにしましょう。



行く手に、ぽっこりした「高麗(こま)山」が見えてきました。
大磯がもう近いようです。




R1との合流地点の左側に

京方見附跡

説明板によると;
空襲や区画整理などによって往時の面影は失われてしまい、
見附の場所も定かではなくなってしまいましたが、言い伝えや
歴史資料などによって、この辺りにあったものと思われるとか。
「平塚宿」とは、ここでお別れですね。



ここから、「大磯町」に入って行きます。



「花水橋」を渡ります。 橋の手前の右側に・・

平成の一里塚

往時の旅人の休憩所であった木陰を、現代に
蘇らせようとつくられた憩いの場なのでしょう。


橋の下を流れるのは「金目川(花水川)」




遠くに丹沢の山々も・・  春が感じられる風景だな~



(続)







旧東海道・平塚宿①

2012-04-02 | 旧東海道


「江戸見附」跡から、平塚宿に入ります☆




江戸見附跡のすぐ先にある「平塚市民センター」の前に
「 『平塚の里歌碑』 この裏にあります 」という立札を見つけました。
どこ、どこ? 行ってみましょう!

そのビルの中ほどにある通路のような所を入っていくと・・

平塚の里歌碑


平塚にて
あわれてふ たが世のしるし 朽ちはてて かたみもみえぬ 平塚の里

このひらつかのかたへにて そのかみ三浦遠江入道定可 世を遁れて
みまかりしと いひつたふばかりにて しれるもの なかりけり 

1480(文明12)年 『平安紀行』の作者(太田道灌といわれる)が東海道を
上る道すがら平塚の地で、この地に隠棲し没した三浦遠江入道定可を偲び
里人に遺跡・墓所を尋ねたが、知る者もないことを嘆いて詠んだといいます。
三浦定可は、三浦義継の子 為高のことと考えられている由。

碑の隣には、市制25周年に当たり記念として贈られた
江戸城の井戸」も展示されてありました。




その先の「見附台緑地

広場の中に一本のクスノキの巨木が、大きく枝を広げています。

嘗て此処に「平塚小学校(現・崇善小学校)」があったそうで、
1895(明治28)年 当時の県知事が、県下の小学校に配布した
種子が根付き育ったものとか。 ってことは、樹齢100余年!?

広場の奥にある建物は

崇善公民館

1950(昭和25)年の復興期に、市議事堂として建設されたものだそうです。
下見板張りの外壁の白ペンキが少し剥げているのも、なかなかイイ雰囲気



東海道を先へ進みましょう☆

平塚宿脇本陣跡

脇本陣は本陣の補助的役割の宿泊施設で、平常は一般の旅籠として営業しました。
この脇本陣は、天保年間(1830-44)に山本安兵衛という人が営んでいました。



平塚宿高札場跡

平塚宿の高札場は、長さ二間半(約5m) 横一間(約1.8m) 高さ一丈一尺
(約3m)ありました。 平塚宿~藤沢宿、あるいは平塚宿~大磯宿の
公定運賃を定めたものの高札なども掲げられていたようです。



平塚宿本陣跡」碑

本陣を営む家は、代々加藤七郎兵衛を名乗っていました。
平塚宿では、本陣1・脇本陣1のほか54軒の旅籠があったそうです。 

この一帯は空襲の被害が甚大で、歴史的なものも全て焼失して
しまったため、ただこのような標柱や石碑があるだけです。



平塚宿西組問屋場(といやば)


この奥にお寺の山門が見えます。 訪ねてみましょう☆


松雲山 要法寺

日蓮宗のお寺です。

嘗てここに、鎌倉幕府執権 北条泰時の二男 北条泰知の屋敷があり、
1282(弘安5)年のある夜 泰知の夢枕に立った七面天女から、
日蓮上人が当地においでになると聞いて上人を出迎えました。 
泰知が屋敷を献上し、山号・寺号を賜ったのが起源といわれます。


要法寺に隣接して公園がありました。

平塚の塚緑地

説明板によると;
『新編相模国風土記稿』の中に里人の言い伝えとして、昔 桓武天皇の三代孫 高見王の
娘 政子(真砂子)が、東国への旅の途中 857(天安元)年にこの地で逝去。 此処に
埋葬されて塚が築かれたとあるそうです。 (右側の玉垣に囲われた所でしょうか?)
その塚が平らになって「平(たいら)塚」と呼ばれ、地名の由来になったといわれます。

平塚の塚」碑



この静かな公園で、暫し風の音でも聞きながら
ひと息入れることにしましょうか☆

(続)





旧東海道・平塚宿へ②

2012-04-01 | 旧東海道


前回「蓮光寺」で見つからなかった「ちょんまげ塚」が気になって、帰宅後に
web検索してみたら、見つからない筈、お寺の境内ではなく墓地にあるようです。

で、今回は もう一度そこから再スタート

「蓮光寺」前から左に道を入って行くと、墓地が左右に広がっています。
墓地の中間あたりで見当をつけて左に入って・・・最奥に、ありました~!

丁髷塚




説明板によると;
昔 相模国府祭の夕暮れ、東海道を帰還途中の一之宮寒川神社の神輿を担ぐ若者達と
平塚八幡宮の神輿を担ぐ若者達が喧嘩となり、一之宮の神輿が馬入川に投げ込まれて
しまいました。 吟味の結果 神輿に無礼をはたらいた16名の若者が打首断罪の判決を
受けましたが、処刑当日 代官の江川太郎左衛門は 若者達の髷を切り落として打首に
代えたので、その温情ある処置に当人達は勿論、村人もみな歓喜の涙を流したとか。
その丁髷を埋めて塚としたものだと伝えられています。



墓地から少し先の緑道を通って、平塚駅まで戻ることにしました。

馬入緑道


所々にベンチや児童遊具が置かれた、静かな憩いのスペース。



緑道から道を隔てた右手に、石の鳥居が・・

神明神社


祭神:伊弉諾命(いざなぎのみこと)
創祀年代は不詳ですが、神戸山蓮光寺の秀岳法印の勧請と伝えられ
元は旧東海道に面した所にありましたが、1945(昭和20)年 空襲で焼失。 
1966(昭和41)年 現在地に仮社殿、3年後に新社殿が落慶しました。

嘗て 街道に面した境内には、直径3mもの大イチョウがあり
沖から浜に帰る船の目印となっていたそうです。

(説明パネルより)




緑道が終わり、「平塚八幡宮」を右に見ながら駅へ戻ります。




ところで・・
旧東海道からは話が逸れますが
JR「平塚」駅前に、こんな設置がありました。

囲碁のまちひらつか記念塔

説明板によると;
近代囲碁に大きな功績を遺した木谷實九段(1909-75)は、平塚の自宅に
全国から有能な子供達を招いて育成しました。 「木谷道場」で育った弟子は
70名近くになり、その後 多くが現代囲碁界を代表する棋士になったそうです。
これは、木谷九段生誕100年を記念して設置されたものだとか。


さて、あらためて東海道の旅を続けましょう☆



「平塚」駅前を直進、「東横イン」の前で左折します。
街道の両側は、いろいろなお店が並ぶアーケード街。
      


商店街の途中、左側にある「まちかど広場」を左折し
旧「長崎屋」の角で右折。 すぐ先の路地を左に入って行くと
右側に、小さな公園。 「お菊塚」という石柱が立っています。

「紅谷町公園」


お菊塚

怪談「番町皿屋敷」の、あのお菊を埋葬した場所といわれます。

伝承によれば;
菊女は平塚宿役人 真壁源右衛門の娘で、江戸の旗本 青山主膳方へ奉公中の
1740(元文5)年、主人の怒りを買って斬殺されるという出来事がありました。
一説では、菊女を見染めた主膳の家来が意のままにならない菊女に逆恨みし、
家宝の皿を隠して、菊女が紛失したと主人に讒言したものとも言われます。

お菊の遺骸は長持詰めにされ、馬入の渡し場で父親に引き渡されました。
刑死人の例に倣って墓はつくられず、栴檀の木を植えて墓標としたとか。
現在は、市内 晴雲寺にある真壁家の墓地に納められているそうです。



「紅谷町公園」を探し当てるのに手間取ってしまいました・・
先を急ぎましょう。



「市民プラザ」交差点を過ぎて暫く行くと、右側に

平塚宿 江戸見附跡


平塚宿の江戸見附~京方見附間には、東西十四丁六間
(約1.5km)の街並みが連なっていたといいます。

平塚宿の江戸見附は、長さ3.6m 幅1.5m 高さ1.6mの石垣を台形状に
積み上げて頂部を土盛りし、東海道に対して直角に対をなしていました。
左右両側の見附は、少しずらして設置されていたそうです。
明治14年ごろの江戸見附の様子

(説明パネルより)


やれやれ、やっとここからが「平塚宿」になります~ 
ここまでに、だいぶ時間がかかったなぁ・・


(続)





旧東海道・平塚宿へ①

2012-03-26 | 旧東海道


前回は「馬入橋」まで来たので、今回はその続きを歩きます。


馬入橋を渡りきると、左側に石碑が・・

陸軍架橋記念碑

関東大震災で馬入橋が倒壊した際に、陸軍第十五師団(豊橋)所属工兵大隊と
第十六師団(京都)所属工兵大隊が架橋工事を行い、わずか16日間で橋を
完成させたそうです。 この碑は、第16大隊の事蹟を顕彰するものとか。


橋の右側に 「弘栄堂」という和菓子屋さん。
      
明治40年創業の老舗です。

名物「ちょんまげ最中」と「力餅」


「ちょんまげ最中」由来の「ちょんまげ塚」があるという
すぐ近くのお寺を訪ねてみました。


馬入山 蓮光寺

真言宗のお寺で、ご本尊は不動明王。
高麗様式の山門は、東京・芝「金剛峰寺 東京別院」から移築したものとか。

「ちょんまげ塚」は、残念ながらわかりませんでしたが
おもしろいお地蔵さんが祀られてありました☆

「持ち上げ地蔵」
      
願い事を心に念じながら像を持ち上げ、軽く感じれば願いは叶うそうです。
‘猫’もトライ・・・・とても持ち上がるような重さじゃなかった~



「馬入川(相模川)」沿いに遡ると、ほどなく公園があります。

馬入ふれあい公園


河津桜が満開



あれぇ、あやしい雲行き・・



川堤に上がってみましょう。

馬入の渡し跡

説明板によると;
相模川には60以上の渡し場がありました。 東海道は「馬入の渡し」と
呼ばれ、幕府が管理し周辺の村々の負担によって成り立っていました。
渡し賃は、12文だったといいます。





北斎 画


広重 画
(いずれも説明パネルより)






またR1に戻って、西へと向かいます。
やがて、R1から左へ分岐する道が旧東海道です。 
その少し手前に・・

馬入の一里塚跡

江戸から15番目の一里塚が、この辺りにあったようです。


ポツポツ雨が降り出したと思えば、じきに止んで薄陽が射してみたり・・
めまぐるしく変わる空模様が気になって、今回はあまりはかどりませんでしたね~

次回は、この先のJR「平塚」駅からスタートだな☆






旧東海道・茅ヶ崎④

2012-03-17 | 旧東海道



大鳥居を抜け松並木の参道を行きます。

が、その前に・・
右側の民家の横を少し入ったところに

「弁慶塚」
      
説明板によると;
武蔵国稲毛(川崎市)領主 稲毛三郎重成が、亡妻の供養のため
相模川に橋を架け、1198(建久9)年 その落成供養には源頼朝が
大勢の家臣を連れて参列し盛大に行われましたが、その帰途に
鶴嶺八幡宮付近にさしかかった時、突然乗っていた馬が棒立ちに
なったため頼朝は落馬して重傷。それがもとで、翌年死去しました。

馬が暴れたのは、義経・行家ら一族の亡霊の出現に驚いたためといわれた
ことから、後年 里人達が相計り供養塚を造立して霊を慰めたと伝わります。


約800mも続くという松並木を歩きます。




やがて、石造りの鳥居と可愛らしい太鼓橋



その先も、松並木が続いて・・



ようやく、社殿が現れました☆

鶴嶺八幡宮

祭神: 応神天皇・仁徳天皇
     佐塚大神・菅原道真
康平年間(1058~1065)に源頼義が東征の折、石清水八幡を勧請して
神社を建立したことに始まるといわれ、源家の篤い庇護を受け繁栄しました。
後北條氏滅亡の後 荒廃していましたが、当社の別当寺住職 朝恵上人が
浜之郷村領主 山岡氏の援助を得て、社殿・拝殿を再建。 1649(慶安2)年
徳川幕府より7石の御朱印を受けたのを記念し、あの沢山の松を植えたとか。

ご神木(槇)                   大イチョウ
      
ご神木の槇は、前九年の役で父 頼義の応援に向かう源義家が戦勝を
祈願して植えたものとか。 県天然記念物に指定された大イチョウは
推定樹齢 950年 ・根周り 8.5m ・目通り 9mというみごとな大樹です。



朱塗りの鳥居まで戻って、また東海道を進みます☆


「日本橋から60km」だって・・





街道の左側に、「神明神社

ひと気のない境内には、
双体道祖神と、「厄除大権現」と刻まれた石碑がありました。



やがて、左手に・・
相模川橋脚跡


1923(大正12)年の関東大震災と翌年の余震による隆起で、水田に太い木柱が出現。
調査により、先述の稲毛重成が相模川に架けた橋の橋脚と確認されました。
鎌倉時代には、相模川はこの辺りを流れていたのですね。
出現当時の様子

(展示パネルの写真)
計10本の桧の丸柱が、南北方向に4列 東西方向に3列並ぶ様子から
幅約9m 長さ40m以上の橋が南北方向に架けられていたと推測され、
1926(大正15)年に 国の史跡に指定されました。

現在 プール状の池に展示されているのは、復元されたレプリカで
実物は防腐処理を施し、地下2m65cmの所に保存されているそうです。




下町屋橋
下を流れるのは、「小出川」です。



橋を渡って暫く行くと、通りの右側に

妙巌山 信隆寺

日蓮宗のお寺。

    開創: 1253(建長5)年
本尊: 釈迦牟尼仏
武田信玄の従兄弟に当たる 勝沼信就が、武田勝頼に従い
天目山の戦で織田・徳川の連合軍に敗れた時、家臣数名と
共にここまで逃れて剃髪し、開いたお寺と伝えられています。

「日蓮上人坐像」

(説明パネルより)
像高 42. 2cm  玉眼寄木造りの木像です。
市指定重要文化財で、1564(永禄7)年の銘。




今宿からここ中島辺りの街道筋には、敷地も広く
重厚な構えの民家が多く見受けられます。




やがて、「平塚市」に入っていきます☆



馬入(ばにゅう)
下を流れる相模川は、頼朝落馬のあの故事に因み「馬入川」と
呼ばれています。 下流に見えるのは、JR東海道線の鉄橋。


橋の途中に
「日本橋から62km」の標識



橋を渡りきると、道は平塚市街に入っていきます☆
次回は、「平塚宿」を歩いてみることにしましょう☆


27,410歩






旧東海道・茅ヶ崎③

2012-03-16 | 旧東海道


今回は、前回の続きをJR「茅ヶ崎」駅から歩き始めました☆


駅を出て、R1を西へ。

さっそく、右側の公園の中に4基の大きな石燈籠。
      
東京上野の寛永寺に納められていたものの一部が、市にもたらされたものとか。
寛永寺は、いわずと知れた徳川将軍家の菩提寺。 代々の将軍の供養に
各地の大名が競って大燈籠を寄進しました。

手前から1・3・4番目の燈籠は、第10代徳川家治(浚明院)のため、
1786(天明6)年の刻銘。 2番目は第4代徳川家綱(最有院)のため、
1681(延宝9)年の刻銘。 寄進した大名の名が刻まれてあります。



街道右手に、厄除け大師のお寺がありました。

茅ヶ崎山 円蔵寺

真言宗のお寺です。
本尊: 薬師如来・厄除秘鍵大師

境内には、「乃木大将像」や「203高地血染の岩片」などがあります。
説明されてありませんが、当寺とどのような所縁があるのでしょうね。
       



街道沿いに、製材所があったので・・

そういえば、近頃あまり見かけなくなりましたよね。



「十間坂」という所に来ました。 右に大山や富士山、左には江ノ島や
金沢方面まで望めたことから「十景坂」、いつしか「十間坂」となったとか?

第六天神社

創立: 年代は不詳

祭神: 淤母陀琉神(おもだるのみこと)
               妹阿夜訶志古泥神(いもあやかしこねのみこと)
祭神は神仏混
淆時代の仏教で信奉する神で、国産み神話の
天神七代の神々のうちの、第六代にあたる男女2柱だそうです。

第六天神社は全国に300有余社あり、西日本では皆無に近く、
東京千葉の境に多く存在するようです。 身の丈2里の大神で
身体壮健・不老長寿のほか、道中安全のご神徳があるとか。

織田信長が篤く信奉したといい、その強大な神威を畏れた
豊臣秀吉が廃寺を行ったと伝えられています。


十間坂歩道橋の上から、行く手を・・



街道の雰囲気を感じさせる建物を見ながら、先を急ぎましょう☆




「南湖入口」交差点を過ぎる辺りから、道は右へ大きくカーブしていきます。
やがて、千ノ川に架かる「鳥井戸橋」。


橋の袂に、「南湖の左富士之碑」。

江戸を発った旅人は、東海道の右前方に富士山を見ながら来ますが
街道の屈曲から、此処で突然 左側に富士山を見ることになります。

このように・・


道中 左手に見えるのは、ここ茅ヶ崎と吉原(静岡・富士市)だけだそうで
広重の浮世絵にも、名所「南湖の松原 左富士」が描かれています。




「町屋」交差点の右手、朱塗りの大鳥居の先に
松並木の参道が ずうっと続いています。



(続)


 


旧東海道・茅ヶ崎②

2012-02-21 | 旧東海道


東海道の宿場の間には、馬を継ぎ立てる立場(たてば)が
ある村があり、荷物を運ぶ人足や駕龍かきなどが休息する
所でもあったようです。 眺望が利く場所や街道の分岐点や
橋のない大川の傍などに旅人の休憩のために茶屋ができ、
本陣・旅籠・商店なども軒を連ねるようになりました。

次第に旅人たちの宿泊にも応じるようになった村は
(あい)の宿」と呼ばれ、茅ケ崎もそうした場所でした。



松並木のR1を歩いて行くと、歩道にこんなものを発見。

「水準点」
      
国土地理院が設置・管理する、標高の基準となるもの。
国道など主要道路沿いに設置されているものだそうです。



やがて、右手の少し奥にお寺の門が見えたので・・

海前寺


塀外の左側に大きな石燈籠

1651(慶安4)年 徳川2代将軍秀忠公菩提のため
筑後久留米城主有馬忠頼が奉献したものとか。

本堂

曹洞宗のお寺。
創建:1591(天正19)年

本堂前にも立派な石燈籠が・・
こちらは9代将軍家重公のため、長門守藤原直寛が
1761(宝暦11)年に奉献したものだそうです。



「本村歩道橋」の近く、
右手の緩やかな下り坂の
向こうに、風格のあるお社が見えます。


八王子神社


説明板によると;
創立年代・創立者は不詳
祭神:天照大神と須佐之男命の誓約の基に生まれた 男神5柱と女神3柱

社殿を飾る精緻な彫刻





境内には、ほかに

本村天満宮」               「本村八坂神社
      
祭神:菅原道真                祭神:須佐之男命

 



車や人の往来が、俄かに多くなってきました。
市の中心部に入ってきたようです。

「一里塚」交差点の左角に、「茅ヶ崎一里塚」

 日本橋から数えて14番目の一里塚

こんなにきちんと整備されていて、いや~感激デス
松並木といい、この一里塚といい・・やるなぁ 茅ヶ崎!

あと少し先へ行った左手がJR「茅ヶ崎」駅です。
今回のぶらり旅は、ここまでにしておきましょう

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旧東海道・茅ヶ崎①

2012-02-20 | 旧東海道


久しぶりの東海道ぶらり旅です。

先月藤沢宿を出て、辻堂辺りに来たところで日が暮れました。
その後日、辻堂古道に寄り道をして・・


今回は、JR「辻堂」駅北口から古道の続きをたどって旧東海道と
合流し、次の平塚宿へ向かって歩いてみようと思います。
さて、どこまで行けるかな?


駅を出て、新装成ったデッキの右側の階段を下り
車の往来が多い広い通りを北へ向かって歩いて行くと
左側に まだ新しい石塔と仏像、その先にお寺の参道。
      


寶光山 本立寺

日蓮宗のお寺です。

説明板によると;
1592(文禄元)年 日栄上人が静岡市清水区興津に創立。
1924(大正13)年に日佛法尼・日顕上人が現在地に移転。
本尊: 十界大曼荼羅

どことなく愛嬌のある表情の狛犬さん
      




くねくねと民家の間の道を抜けて、やっとR1に交わりました。
路傍にひっそりと、いかにも古そうな石塔が・・

常光明真言塔巡礼供養塔

表面が剥がれ落ちていてよく読めませんが、大山参りの帰途に
寶泉寺に立ち寄り参拝する慣習があり、その道標だったようです。


さぁ、ここからいよいよ旧東海道歩きになります☆
どんな出会いがあるか、楽しみながら歩きましょう!






小和田という町に入ります。 右側にお寺の山門。

龍徳院 上正寺

浄土真宗のお寺。
山門前に立たれるのは、旅姿の親鸞さんでしょうか。

説明板によると;
木造聖徳太子立像が祀られてあるそう。

室町時代の作と考えられているとか。
市指定重要文化財。

境内にある大きな石燈籠

1681(延宝9)年 徳川4代将軍家綱公の菩提のため
対馬守 安藤重治(重博)が奉献し、上野 寛永寺に
納められていたものが、市にもたらされたそうです。
市指定重要文化財。


街道の左側に

千手院

真言宗のお寺だそうです。
本尊: 十一面観世音菩薩


すぐ近くの右側には

山王山 観音院 廣徳寺

真言宗のお寺。
本尊: 千手千眼観世音菩薩




街道筋には、近代建築の住宅や店舗に混じって、
どっしりとした風格のある建物が見られることも




「菱沼陸橋」下の右側に、何やら説明板がありました。

牡丹餅立場跡

宿場と宿場の間に設けられた休憩所が「立場(たてば)」。
これまでにも何度か出てきましたね。

藤沢宿~平塚宿には4箇所あって、その1つが「牡丹餅立場」。
きっと、名物のおいしい牡丹餅を出す茶店があったのでしょう。

1960(元禄3)年に 菱川師宣が描いた「東海道細目分間之図」の一部。
下図で見ると、牡丹餅茶屋・一里塚・大山・富士山などが分かりますね。





「本村」という地域に入ってきました。
左側に「TOTO」の大きな工場が見えます。

立派な松並木が続きます。


街道沿いの松並木は黒松。地上1.2mの幹周りが1m超で、
推定樹齢400年という松もあり、長い間風雪に耐えて育った
貴重な文化財として、地域の人々に親しまれています。




(続)








旧東海道・藤沢~辻堂

2012-01-02 | 旧東海道


元日はの予報だったので、初日の出は諦めて
家で終日マッタリと過ごし、今日が初外出です。
2012年も元気に歩くぜ~い!


今年の歩きぞめは、
長らくご無沙汰していた 旧東海道の続きを・・
藤沢宿から、下って行きましょう。
上って
(現代人感覚が出てしまった・・




伊勢山橋
R43が小田急・江ノ島線の線路を跨ぎます。

この橋を渡った辺りに藤沢宿の京方見附があったようです。
藤沢宿を出て、次の宿 平塚へ向かって歩きます。


橋の近くの右側に・・お店かな?
「かざりや」と読めます。 


2階の銅板の戸袋にご注目。 すばらしい風神・雷神が!
      




やがて、引地川を渡ります。
その名も「引地橋

R43から分かれ、R44に入って行きます。



道の左側の石垣の上に、かわいらしい祠がありました。
おしゃれ地蔵
      
女性の願い事を何でも叶えるといわれ、満願のあかつきには
白粉を塗ってお礼をする風習があるところから、誰言うとなく
「おしゃれ地蔵」と呼ばれているそうですが、形態的には
地蔵というより、
双体道祖神のようです。




道はやがて、R1に合流します。




右側に 「四谷不動尊

旧東海道と大山参詣道が交差する四谷辻に、
1678(延宝4)年に 江戸・横山町の講中が建立した道標。

不動像下部の正面に「大山道」、両側面に「これより大山みち」とあります。
      

お社を右へ行く道が、大山道。
立派な石の鳥居が見えます。





「羽鳥交番前」交差点を過ぎた辺りから、道の両側は松並木になりました。
当時の木ではないのかも知れませんが・・街道の雰囲気があります。


松並木になってすぐ、右側に標柱。
四谷一里塚跡

日本橋から13番目の一里塚があったのでしょう。


二ツ家稲荷神社


「二ツ谷(二ツ家)」の名は、江戸時代 大山詣での導者や信者たちの
休憩所(立場茶屋)として2軒の茶店があったことからとも、また
もともとの地名であったともいわれているようです。

境内に、庚申塔や道祖神が並んでいました。
三猿のついた庚申塔は、市指定重要文化財で「寛文十年」の銘。
      




前方に、「茅ヶ崎市」の標識が見えてきました。


が・・・
そろそろ帰宅の時刻になってしまいました~
今日は出発が遅めだったからなぁ・・ 続きは、また次の機会に!

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