せっかく近くまで来たので、ちょっと寄って行きましょう。
初詣には、40万人の参拝者が訪れるという 有名な神社です。
JR相模線「寒川駅」前の広い道を左方向へ。
道なりに歩いて行くと、やがて神社の参道に出ました。
緑深い参道が開けると、大きな「二の鳥居」が見えてきます。
鳥居をくぐって更に進み、道なりに右の方へカーブして行くと
まもなく、「三の鳥居」と神池に架かる石造の太鼓橋。
その先に、重層の「神門」
お正月に「迎春ねぶた」が飾られているのを、TVで見たことがあります。
1993(平成5)年 竣功
初詣の人達が結んだのでしょうか。 おびただしい数のおみくじ!
本殿
東西に翼殿・回廊をもつ総ヒノキ造。 1997(平成9)年 竣功
「寒川神社」
祭神: 寒川大明神(寒川比古命・寒川比女命)
創建年は不明ですが、関八州鎮護の神として1,500年余の歴史があるとされます。
『総国風土記』によると、雄略天皇(456-479)の頃に奉幣の記録があるそうです。
源頼朝・武田信玄が篤く信仰し、後北条家・徳川家累代からも社領の寄進を得る
など庇護を受けて、八方除の守護神として「相模国一之宮」と称されてきました。
大難は小難に、小難は無難に と願う人達が、この日も御祈祷の順番を待っていました。
25,779歩
前回のゴール「四ツ谷不動尊」から、今日はスタートします。
眼光鋭い(玉眼)不動尊に見送られて・・
冷たい雨が降り出しましたが、元気出して行きましょう!
すぐ右手に、石の「大山遥拝鳥居」
1661(万治4)年建立の鳥居は、大山の御師 矢野清太夫が世話人となり
江戸の石工を動員して江戸で制作、片瀬の浜まで船で運んだそうです。
元禄大地震(1703年)で倒壊。再建されるも関東大震災(1923年)で再び
倒壊。現在の鳥居は、1959(昭和34)年再々建されたもので、高さ5.8m。
藤沢宿から茅ヶ崎方面に向かう東海道から分かれて大山へ向かう、ここが所謂
四ツ谷大山道の入口で、嘗て四ツ谷の立場(たてば)には、大山詣の客目当ての
茶店や旅籠も数軒あり、ひと休みする人たちで賑わっていたといわれます。
鳥居をくぐって進み、R308を横切って更に行くと、Y字路に
「折戸地蔵尊」
地蔵坐像の大山道標は、1727(享保12)年に近隣の村民達が
建立したもので、堂脇に1978(昭和53)年建立の句碑も。
「 右野道 地蔵も花も 笑いけり 」 蕉風(菊池正平)
このまま進んでもいいのですが、一旦不動堂まで戻り 別の道から・・
旧東海道(R1)沿いの右側に
「二ツ谷稲荷神社」
嘗てこの辺りに 2軒の茶店があったことから「二ツ家」とも。
旧東海道歩きのときにも、ご紹介しましたね。
東海道(R1)で茅ヶ崎に入る手前の、「大山街道入口」信号の足元に
「奉巡西国坂東秩父供養塔」(あふり山歌碑)
1803(享保3)年 建立。 側面に和歌が刻まれてあります。
「 あふり山 わけいる道に しおり置く つゆのことのは しるべともなれ 」
此処から右に入って行きます。
右手の高架は「新湘南バイパス」。
大山街道(R44)は、暫くこの道の右に左に沿いながら続きます。
「松林(しょうりん)村役場跡」碑
1889年から茅ヶ崎町成立の1908年まで、この先の
「妙行寺」の場所に村役場があったそうです。
「妙法山 妙行寺」
1725(享保10)年創建の日蓮宗のお寺。
松林村役場があった場所だそうです。
「赤羽根神明神社」
祭神: 天照大神
『皇国地誌』によれば、治暦年間(1065~1069)に
源義家が勧請したのに始まる近隣6ヶ村の総鎮守でした。
1629(慶安2)年には、幕府から6石の朱印状を得たとか。
バイパス道路建設の為に改修された1,300余坪の境内には
年を経た巨木が立ち並びます。鳥居横のヒノキは樹齢400年とか。
神仏混淆の名残りと思われる鐘楼もありました。
「村澤山 本在寺」
日蓮宗
創建:1253(建長5)年
本尊: 釈迦牟尼仏
もとは藤沢市柄沢にありましたが、寛文年間(1661~1673)に
高田村地頭 大岡忠章(大岡忠相の祖父)夫人が 夫13回忌追善の
ため此処に遷したといわれ、以後 大岡氏の庇護を受けました。
大岡家供養塔
大岡家の墓所は「浄見寺」にありますが、忠相は墓参の
折には 必ず当寺に立ち寄って休憩したといわれます。
1603(慶長8)年に大岡忠吉(忠相の曽祖父)が 高田村のうち160余石を
幕府より賜り、爾後 明治維新に至るまで大岡氏の采地だったそうです。
「熊野神社」
祭神: 熊野大神
『皇国地誌』には、1658(万治元)年 高田村地頭 大岡忠高
(忠相の父)が紀州熊野権現を勧請したとあります。
社前に忠高が奉納した手水鉢
「大岡吉次郎忠〇(欠損)」の文字。
JR相模線の踏切を越えると、R44は次第にバイパスから
離れて行き、「大曲」を過ぎて やがて「景観寺前」交差点へ。
「窪田山 景観寺」
天台宗のお寺。
創建: 伝757(宝宇元)年
開山: 行基上人
本尊: 十一面観音立像(室町時代)
寺要が整ったのは、棟札によると1536(天文5)年頃と考えられています。
大山街道の道筋にあたる一之宮村は、江戸時代を通して宿場として栄え
街道に面した当寺の門前も、往来の人で大変賑わったといわれます。
弘法大師像
当寺は、相模国準四国八十八か所のうち第54番御札所。
歩き始めて間もなく、雨は幸い殆ど気にならない程度になってくれましたが
何しろ寒い1日でした~~ 今日はよくガンバりました!
次回は、この近くの相模線「寒川駅」からスタートです。
車線のある広い通りに出ました。
車道を跨ぎ、左手に境川とそれに架かる「新屋敷橋」を見ながら北進。
「馬鞍(うまくら)橋」
説明板によると;
源頼朝が 馬の鞍を架けて橋の代わりにして川を渡ったことから「馬鞍橋」、
また 此処へ来ると、馬が突然いなないて死んでしまうというので「馬殺橋」、
通りかかった行者が、石の裏に阿弥陀如来の梵字が書かれてあるのを
見つけ、その石を供養したら馬が死ななくなったことから「念仏橋」など
面白い伝説がいろいろと残されています。
この道は江の島参詣の往来だけでなく、京都~鎌倉を結ぶ幹線道路でした。
また、この付近は海上交通の拠点としても賑わっていたようです。
ほどなく道は2つに分かれ、 川沿いを離れて右へ。
「大源太の辻」
鎌倉方面から来る道と江の島道が合流する辻で、この付近では縄文後期~
平安時代の遺跡が発見されているとか。 古くから人の生活があったようです。
地名も、近くの集落に「源」の字がつく農民が多く住んでいたからだそう。
辻の少し先にある 享保15年銘の庚申供養塔。
「従是左ふじさわ道」 「従是右かまくら道」と刻まれ、道標も兼ねていたようです。
「上山本橋」で川を渡ります。
昔はここに「石上の渡し」と呼ばれた船橋(舟を何艘も並べて上に板を渡した橋)が
あり、藤沢方面から片瀬・鎌倉方面へは この橋を渡る以外に道がなかったようです。
1873(明治6)年に 境川が改修で直線化された際、片瀬の豪農 山本庄太郎氏が
此処と少し下流の2か所に私費で木橋を架け、橋銭を徴収したといいます。
江ノ電の発電所跡地「大源太公園」を右へ行った住宅街の中に
「石上地蔵尊」
高さ159cmの大きな像で、舟型光背型。 火成岩製。
鵠沼に現存する最古の石仏だそうです。
この辺りは 鎌倉幕府右筆の旗本 大橋家の知行地で、1800年頃に
作成された『江嶋道見取絵図』に描かれている地蔵かといわれています。
「石上神社」
江戸時代には「石上の渡し」の場所にありましたが、度々の浸水に
遭ったため、1934(昭和9)年に現在地へ遷されたということです。
「石上(砥上)公園」
公園の一隅に、庚申供養塔・道祖神・馬頭観音像・六十六部供養塔。
石上に散在していたのが、公園整備の際に集められたようです。
「藤沢」駅南側の賑やかな商店街の中に、庚申堂と石塔群。
最奥の大型の庚申塔は元禄元年の刻銘。 二番目は寛文13年の銘。
堂内には、玉眼 寄木造の青面金剛像が祀られているそうですが
60年毎のご開帳で、次回は2040年とのこと。
駅の北側に出て「蔵前通り」を過ぎ、「藤沢橋」交差点を右折して遊行寺へ。
「藤沢山 無量光院 清浄光寺」(通称:遊行寺)
時宗の総本山
旧東海道・藤沢宿を歩いたときにご紹介しましたね。
「遊行寺」を出て、R1を西へ。
旧東海道・藤沢宿③・④で歩いたルートです。
そのときにご紹介してなかったお寺を1か所。
「引地山 養命寺」
曹洞宗のお寺です。
創立: 天正年間(1573~1592)
本尊: 木造薬師如来坐像
本堂裏の泰安殿に安置されている本尊の薬師如来坐像は、国指定重要文化財で
玉眼・漆箔。 1197(建久8)年の銘があり、鎌倉初期の運慶様式の代表作されて
います。 もとは大庭薬師堂の本尊ともいわれ、願主は大庭景義・景兼父子または
三浦義澄・義村父子と推定されます。 寅年にご開帳で、次回は2022年4月12日。
今日のゴールに到着しました☆
「四谷不動堂」
R1から大山道への入口にあるお堂に、大山道標(延宝4年銘)に乗った不動明王像。
次回は、お堂の右方向に建つ 大山遥拝の大鳥居を通って行きます。
次回も がんばって歩くゾ!
28,702歩
相模平野の中央にそびえる標高1,252mの「大山」は、古くから
霊山として、 貴賤上下の別なく篤い信仰を集めてきた山です。
特に江戸中期(18世紀後半)以降は 大山講の組織化が進展し、
駿・遠・豆・甲信越・房総など各地からの「大山詣」が盛んに行われ、
参詣後、石尊大権現・江の島弁財天まで足を伸ばす人も多かったとか。
江の島~大山を結ぶ参詣古道 「田村通り」を、ぶらっと歩いてみようと思います。
以前歩いた「江ノ島参詣道」と逆方向ですが、重複部分はササっと軽めにね
小田急線「片瀬江の島」駅からスタート☆
「洲鼻(すばな)通り」を通って 「ゑのしまみち」と刻まれた道標
管鍼術の考案者杉山検校が寄進した江の島弁財天への道標は、
高さ約120cmの尖頭角柱の火成岩に「薬研彫」という深い彫り。
48基中 14基が現存、このあと路傍の所々に立っています。
「龍口山 常立寺」
日蓮宗
鎌倉時代の刑場「誰姿森(たがすがもり)」に面影塚を建てて供養したのに始まるとか。
「誰姿森 元使塚」
1275(建治元)年来日し処刑された元使5名を供養するため、1925(大正14)年建立。
五輪塔に巻かれた青布は、英雄を称えるためのものだそうです。
境内の梅が大変美しく、毎年楽しみに訪ねています。
本堂前の枝垂れ梅も、白梅が咲き始めました☆
古道の雰囲気が感じられる道が続きます☆
高さ165cm 火成岩製
寛文年間(1661~1672 )造立の日蓮宗系の庚申塔。
「西行戻り松」
西行が東国へ歌行脚の途中、都を懐かしんで思わず枝を西へねじり向けたとか、
行き会った童に行先を尋ねると和歌で答えたので、恐れをなして行脚を中止し
都へ戻ったとか、おもしろい言い伝えの松があった場所に道標が立っています。
「宝盛山 密蔵寺」
真言宗
門前左の榎は、幹回り約214cm 樹齢200~300年の古木。
嘗て映画「愛染かつら」に主演した女優 故木暮実千代氏が
記念植樹したという「愛染かつら」の木が本堂正面にあります。
26体の弘法大師坐像
「諏訪神社下社」
祭神:建御名方命
長い石段を上って参拝。 ふり返ると、遥かに江の島が見えています。
「片瀬山 泉蔵寺」
真言宗
門前左脇に、庚申塔6基・神像塔1基・馬頭観音文字塔1基。
近辺に散在していたのを集めたものでしょう。
すぐ近くにも3基
左から:庚申塔(文化2年銘)・双体道祖神(年代不明)・庚申塔(元禄6年銘)
このように、街道沿いには 古い庚申塔や道祖神など供養塔が多く見られます。
(続)
すっきりと青空が広がりました
今日は 絶対ハズレっこないでしょ!と確信して、富士山を見に☆
JR「二宮」駅から、舗装された階段を上って行くのが一般的なルートですが
以前歩いた道の方が好きなので、今回もそちらから行きます。
鳥居を抜け、土の階段道を上って
まずは、「吾妻神社」にご挨拶。
祭神: 弟橘媛命 日本武尊を配祀
山頂の芝生広場には、すでにたくさんの人たち
そして、どどーんと 大きな富士山&菜の花
「 相模路の 淘綾の濱の真砂なす 児らは愛しく 思はるるかも 」
万葉集 巻十四 東歌
( 相模国の淘綾の浜の砂のように あの娘のことがとてもいとしく思われる )
「浅間神社」は、縁結びのご利益があるそう
祭神: 木花咲耶媛
曽我兄弟の姉 二宮の花月尼が 富士浅間神社に仇討の本懐を祈願。
大願成就に感謝して、この山上に浅間神社を祀ったと伝えられます。
気分はもう春~♪ 14,435歩
「小田原」駅構内で見かけたクリスマスツリー
使われているのは、ご当地ならではのかまぼこ板☆
かまぼこ板には、匂いの付きにくいモミの木が多く使われているそうで
それを聞いた駅長さんの発案で、市内から集められた1,078枚の板を
駅員さんが20日かけて繋ぎ合わせ、積み重ねて作ったという力作!
いろんなメーカーの焼き印がありますね~
よく見ると、紅白のかまぼこを模したオーナメントも
バス通りを 山の方に向かって歩いて行くと、
階段の先に仁王門が見えてきました。
仁王門の脇から、杉林の中の散策路を歩きます。
「てんぐのこみち」
鬱蒼とした杉林の中は緩坂あり階段あり、約2kmの楽しい道♪
先年歩いた「熊野古道」を思い出したりしながら、思わず大きく深呼吸☆
道の傍らに、たくさんのアジサイが植えられています。
花の季節にも 歩いてみたいナ!
紅葉が陽に透けて 、とても綺麗☆
やがて「三門」
2003(平成14)年建立の高さ22mの重槽楼門で、
放光菩薩像や十六羅漢像などが祀られています。
三門を抜けて石段を上っていくと、ほどなく校倉造の白い「尚宝殿」。
カメラを構える人がたくさんいます。 紅葉の撮影ポイントのようです。
石段を上って「瑠璃門」を入ると
正面に、「真如台(書院)」
その左側に、「護国殿(本堂)」
「大雄山 最乗寺」
全国に4千余の門流を有するという曹洞宗の名刹です。
創建: 1394(応永元)年
開山: 了庵慧明(えみょう)禅師
本尊: 釈迦牟尼仏
修験道満位の行者 相模房道了尊者(道了大薩埵)が、500人力を以って
開山禅師を援けて当山の建立に貢献。 禅師遷化の後、尊者は白狐の
背に乗って山中に身を隠し、大雄山の守護となられたといわれています。
本堂前辺りの紅葉がいちばん見事です
昨夜の強風で、散った葉もかなりありますが・・・
池の周囲も水底も、真っ赤っ赤!
「多宝塔」
1863(文久3)年 建立
方形層上円形木造二重塔で、多宝如来を祀っています。
市指定重要文化財だそうです。
「初代大下駄」は、重さが1,500kgとか。
さらに、奥の院へ上る階段
何段あるやら・・・これはキツかった!
天狗さんにパワーを頂いて・・
なんとか「奥の院」に到着~
小休止したら、下っていきます。
「妙覚宝殿(御真殿)」
1934(昭和9)年 再建 総檜造
道了大薩埵を本尊に、大天狗 小天狗を両脇侍に祀っています。
重さ3,800kgという世界最大の「和合下駄」をはじめ
奉納された大小様々の下駄がいっぱい!
帰りも、錦繍の絨緞を贅沢に踏みながら・・・
この秋の紅葉を満喫しました☆
18,838歩
時ならぬ台風のような暴風雨の一夜が明け、青空が広がりました☆
こりゃあ、出かけずにはいられませぬ~
JR東海道線「小田原」駅から、
伊豆箱根鉄道・大雄山線で終点まで。
天狗サマがお出迎え
「大雄山」駅は、三角屋根の山小屋風駅舎で
足柄山の金太郎サンの像が歓迎してくれます。
1998(平成10)年に「関東の駅百選」に選定され、
市の登録有形文化財になっているそうです。
駅前を通るR723を左方向へ。
狩川に架かる「大雄橋」 を渡って行くと、道は緩やかに上り坂となり・・
左の路傍に「清左衛門地獄池湧水」の標柱があったので、行ってみました。
住宅地の奥に、池と赤鳥居のお社。
「厳島神社」
池の弁財天をお祀りする神社のようです。
言い伝えによると;
昔 清左衛門という人が良い水を探して此処まで来たとき、誤って乗っていた
馬もろとも地中深く落ち込んでしまいました。 すると、そこから勢いよく
水が湧き出し、以来 村人達は水で困ることはなくなったといいます。
落差5mの滝もあり
今も豊かに湧き出す水は、「平成の名水百選」に選定され
現在では主に、工業用水として利用されているそうです。
パネルの写真だと、池を中心とした湧水公園の様子がよくわかります。
池に隣接するお堂は
「観池山 弁財寺」
近辺からは縄文時代の住居跡が発見されるなど、古くから
この辺りには人が住んでいたらしいということです。
思わぬ寄り道で、綺麗な紅葉に出会うことができました☆
これは、このあとも期待できそうだゾ~
(続)
連休後半も、まずまずのお天気が続きそうで
藤沢にある「白旗神社」
境内の「弁慶藤」と呼ばれる紫藤は、花がもう終わりかけていましたが
白い「義経藤」の方は 綺麗に咲いていました。
そして、広い境内いっぱいに・・
子供たちが、元気にはしゃぎまわっていました。
明日はもう、 端午の節句なんですねぇ☆
「西海子(さいかち)小路」を歩いていると・・
「旧田中光顕氏別邸」
伯爵 田中光顕氏(1843-1939)
元 土佐藩郷士で土佐勤王党の志士。 中岡慎太郎の陸援隊に参加。
維新後は警視総監 貴族院議員。 先述「対潮閣」歌碑の短歌の作者。
広い敷地内には、小田原ゆかりの文学に関わる展示がいろいろあります。
「本館」
1937(昭和12)年 築 登録有形文化財
鉄筋コンクリート3階建ての南欧風洋館で、屋根瓦はスペインから輸入したものとか。
現在は、「小田原文学館」として小田原ゆかりの文学者に関する資料を展示しています。
「別館」
1924(大正13)年 築
木造2階建ての純和風建築で、現在は「白秋童謡館」として
詩人 北原白秋に関する資料が展示されてあります。
白秋の小田原時代の作品「赤い鳥小鳥」の碑。
「北村透谷氏碑」
北村透谷氏(1868-1952)は、小田原藩士の孫として誕生しました。
幼名は「門太郎」。 近代浪漫主義文学の先駆者。 27歳で夭折。
揮毫は、友人であり共に『文学界』を創刊した島崎藤村氏。
「尾崎一雄氏書斎」
尾崎一雄氏(1899-1983)は、小田原出身の芥川賞受賞作家。
昭和20年代初期の建築で、市内にあった旧宅の書斎部分を移築したもの。
8畳・4畳半の和室と書庫など。 机など当時の調度品が置かれてあります。
相模湾に面した御幸の浜を走る 西湘バイパスのすぐ近くに
「川崎長太郎小屋跡」碑
川崎長太郎氏(1901-1985)
徳田秋声に師事し、昭和20年代後半に活躍した小説家。
『裸木』『父島』『抹香町』などの作品を著しました。
昭和13年より海沿いの小屋に寝起きして私小説一筋を貫きました。
‘猫’は、 残念ながら川崎氏の小説というものを読んだことは
ないですが、碑には『抹香町』の一節が刻まれてあるようでした。
小田原には、まだまだ興味深い見どころがいろいろあるようです。
「老欅荘」 「古稀庵」 白秋ゆかりの「伝肇寺」 etc.
機会があれば、また・・☆
小田原には、1889(明治22)年に伊藤博文の別邸「滄浪閣」、
1900年には城跡に御用邸が設けられたことなどが契機となり、
著名な政・財界人や文人の邸宅が数多くあったといわれます。
お城のすぐ近くに、
「清閑亭」
(旧黒田長成氏別邸)
侯爵 黒田長成氏(1867-1944)は、旧福岡藩主の家柄で
貴族院副議長・枢密院顧問官などを務めました。
1906(明治39)年 築
大正初期頃の様式を備えた数寄屋風書院造の母屋と、
海を見下ろす庭園が残されています。 国登録有形文化財。
「対潮閣」跡
(山下亀三郎氏別邸跡)
現在この建物は無く、跡地に一般の住宅が建てられています。
山下亀三郎氏(1867-1944)は、山下汽船(現・商船三井)の創業者。
「対潮閣」には、同郷の海軍中将 秋山真之氏(1868-1918)が度々
訪れ、秋山中将は49歳のとき 盲腸炎悪化のため此処で亡くなった由。
「釣鐘石」と石碑
右の石は対潮閣にあったもので、釣鐘型の空洞があるので
「釣鐘石」と呼ばれていたそうです。 左の石碑には、この石を
賞して田中光顕氏(後述)が詠んだ歌が刻まれてあります。
「うちたたく 人ありてこ曽 よの中に な里もわたらめ つりが年の石」
「諸白(もろはく)小路」
「この地名は、小田原城主 稲葉正則の時代、この地に上方の杜氏を招いて
諸白酒(よく精白した蒸米と麹米で醸造した酒)を造らせたことから生まれた
といわれる。 道の両側は武家地で、中級の藩士が住んでいた。」とあります。
諸白小路の中ほどに
「三好達治旧居」跡
三好達治氏(1900-1964)
大阪出身の詩人。 1939(昭和14)年に鎌倉から移住。
この地を好み、この場所にあった小さな庭のある二階建の
和風家屋に住み、試作に精を出したといわれています。
現在は旧居の跡形なく、ただ石の標柱が立っているだけ。
「静山荘」
(旧望月軍四郎氏別邸)
非公開で鬱蒼たる緑に覆われ、中を窺うことはできません。
望月軍四郎氏(1879-1940)は、1910(明治43)年に証券会社を
設立した実業家。 銀行や保険会社の役員を経て、1930(昭和5)年
京浜湘南鉄道の会長に就任。現・京浜急行(株)の基礎を築きました。
諸白小路とT字に交わる、桜並木の静かな道は
「西海子(さいかち)小路」
昔、サイカチ(マメ科)の木が立っていたことから この名で呼ばれたとか。
江戸時代には両側に武家屋敷が並んでいたそうで、明治以降は別荘地と
して知られていました。 約50本の桜並木が400m程も続く道は、現在も
往時を偲ばせる雰囲気がありますね☆ 有名なお花見スポットのようです。
(続)
今日は 大磯の海岸にやって来ました。
陽射しも風も すっかり秋~!
秋の雲って 形もいろいろで 見飽きないですね☆
これは・・羽根雲っていうのかな?
やっぱり すじ雲?
この季節は自然と 空を見上げることが多い気がしませんか
JR東海道線「大船」駅を出ると、目の前に大きな白い観音像。
電車の窓からも、見えてくると「あ、大船に来たな」と思うのです。
連日の猛暑をも忘れそうな、涼しげで色白なお顔☆
昭和初めに地元有志の方の発起で寄付が集められ、「護国観音」として
建立が始まったものの、途中で工事の中断・変更など20有余年の時を経て
1960(昭和35)年に漸く完成したという、像高 25.39mの観音胸像。
「佛海山 大船観音寺」
曹洞宗のお寺。
今日まで戦没者慰霊と世界平和を祈念する観音さまとして、また
地元大船のシンボルとして、広く国内外から親しまれている仏像です。
‘晴れ女’の面目躍如 今回も晴れました~
久しぶりの箱根でーす☆
が・・
最近は平地ばかり歩いているので、大丈夫かなぁ?
まぁ、ゆるゆると行きましょうか。
まずは、箱根登山鉄道「箱根湯本」駅からバスで「畑宿」へ。
最初の目的地「飛龍の滝」をめざします。
いつもは「小涌谷」駅から出発し、浅間山・鷹巣山を経て畑宿へ
下りてくるのですが、今回は逆に上って行くことになります。
10:00 スタート
ゴロゴロした石の道や階段をどんどん上っていくと、
やがて、水音が聞こえてきました。
スタートから30分ほどで、「飛龍の滝」に到着
落差約20mを二段になって落ちる姿から、この名とか。
鎌倉時代には、修験者たちの修行の場だったといいます。
ひと息入れて、また上って行きます。
杉林の中を 延々続く階段、また階段・・・
こんなに階段が長かったっけ~?!
上る時と下る時では、随分感じ方が違うもんだナ・・
11:10 鷹巣山への分岐に到着
右の方へ15分ほど歩くと、標高 834mの「鷹巣山」山頂です。
天正年間(1573-91)には既に、鷹之巣城が築かれていたとの
記録があり、1590(天正18)年 豊臣秀吉の小田原攻めの折に
徳川家康は、この城に暫く滞在したと伝えられているそうです。
そろそろお昼近く、山頂は早めのランチタイムのハイカーでいっぱい!
私たちは暫時休憩だけで早々に分岐点に戻り、先へ進むことにしました。
バス道へ出て、「芦之湯」方面へ。
芦之湯は 鎌倉時代にはもう温泉が湧いていたといい、江戸時代には
太田蜀山人・松尾芭蕉・賀茂真淵など、多くの文人墨客が訪れたようです。
芦之湯温泉郷を過ぎて、「精進池」へ続く道に入って行きます。
精進池畔には、鎌倉時代 箱根越えのルート「湯坂道」が通っていました。
湯本→浅間山→鷹巣山→精進池畔→箱根権現(現・箱根神社)のルートで、
箱根権現を信奉した源頼朝が、伊豆・走湯山や三島大社とともに参詣する
二所詣(あるいは三所詣)の参詣道として利用した道です。 二所詣は
その後も歴代将軍へと引継がれ、次第に道が整備されていったのでした。
けれども 高地にある険しい峠道は、時には霧が立ち込め
火山性の荒涼とした‘この世の果て’のような風景だったようです。
そのような景観であったからか、鎌倉後期から室町前期にかけて
精進池畔には、たくさんの石仏・石塔が造立されました。
江戸時代 幕府によって東海道が整備されると、人の往来は移ってゆき
石仏・石塔群は物見遊山で立ち寄る観光地へと変わり、やがて時と
ともに、地震などによる倒壊や埋没・風化などで荒廃してゆきました。
平成4~9年 学術調査に基づいて整備工事が行われ、保存されるところとなりました。
磨崖仏 俗称「二十五菩薩」
西に 阿弥陀如来1体、地蔵菩薩21体、供養菩薩1体、東に 地蔵菩薩3体が彫られています。
1293(永仁元)年から造られ始めたもので、鎌倉時代には仏像を仰ぎ見る位置にあったようです。
五輪塔 俗称「曽我兄弟・虎御前の墓」
高さ約2.5mの五輪塔が3基。 刻銘から1295(永仁3)年の造立で
「地蔵講結縁衆」が現世利益を願って建立したものとされています。
宝篋印塔 俗称「多田満仲の墓」
高さ3.6mで、1296(永仁4)年の造立。
多田満仲(913-997)は、清和源氏の祖に当たる武将だそうです。
磨崖仏 俗称「応長地蔵」
大小2つの仏龕に像が彫られています。 1311(応長元)年造立。
この地域には身内の不幸の際、この地蔵の前で送り火を焚き池畔に花や線香を供え
霊を山へ送る「浜降り」の風習があったことから、「火焚地蔵」とも呼ばれるそうです。
宝篋印塔残欠 俗称「八百比丘尼の墓」
1350(観応元)年の造立。
八百比丘尼は、若狭国で800年も生きたという伝説の女性。
磨崖仏 俗称「六道地蔵」
1300(正安2)年の造立で、鎌倉時代を代表する磨崖仏といわれます。
蓮華座を除く高さが3.15mの浮彫で、国内最大級の磨崖地蔵菩薩坐像。
創建当時から地蔵像を覆う覆屋がありましたが、何度も焼失破損したようで
学術調査で室町時代後期とされる建築遺構が発見され、復元されました。
これら石仏・石塔と俗称との関連性は不明ですが、信仰の対象から
観光名所へと変わった頃から、俗称で呼ばれるようになったようです。
これら石仏・石塔の多くは国の重要文化財に指定され、
周辺一帯も、国の史跡に指定されているとのことです。
「精進池」
静かな池にも、春の訪れが感じられました。
12:30 無事に池畔の「保存整備記念館」にゴール~
館内で昼食・休憩し、「六道地蔵」バス停から帰路へ。
17,629歩
すっかり春らしい陽気になりましたね
先週のこと、ふらりと江の島に行ってきました。
大橋を渡って・・
いつ行っても、多くの観光客で賑う観光地ですが
お目当ては、島の中にある「サムエル・コッキング苑」。
明治初期に来日したイギリス人貿易商 サムエル・コッキング氏の別荘に
設けられていた大庭園の跡地を整備し、公開している緑豊かな庭園です。
入口を入ると、
まずは、色鮮やかな冬咲きチューリップ
「温室遺構」
2002(平成14)年に発見された、レンガ造りの温室設備の遺構。
庭園には、石炭による蒸気スチームの暖房設備が備わっており
池の下にまでスチームのパイプを通して、オオオニバスのような
珍しい熱帯植物なども育てていたようで、当時としてはかなり
技術的に高度な水準の設備であったということです。
苑内には、友好姉妹都市に因んだ広場などもあります。
でも、何といっても一番の‘ごちそう’は この眺望ですね
暖かな晴れた日には、本当に気持ちのいいところです☆