相変わらず 国内外の観光客や修学旅行生で賑わう「鶴岡八幡宮」。
三の鳥居前の通りを、今日は巨福呂坂切通し方面へ歩いて行きましょう。
初めての道ではないけれど、八幡宮の流鏑馬の馬場口(西鳥居)に因んで
この道が 「馬場小路」と呼ばれることを知ったので、あらためて☆
道の左側、「小町通り」の角に
「鉄の井(くろがねのい)」
説明板には;
「この井戸は、鎌倉十井の一つです。かつて扇ヶ谷に所在した
新清水寺に蔵されていたと伝わる鉄観音像の首が この井戸の
中から掘り出されたことから、この名がついたといわれます。」と。
この井戸は、水質の良い美味しい水が夏でも涸れることがなかったそうです。
1258(正嘉2)年 扇ヶ谷にあった新清水寺が焼失した際 鉄製の観音像が紛失。
胴部は間もなく見つかり、失われた首部は1699(元禄12)年になってこの井戸から
掘り出されたので、観音堂を建立し祀りました。 明治初め 神仏分離令によりお堂が
壊されたため、東京人形町にある「大観音寺」に移されてご本尊となっています。
以前訪ねた東京のお寺と こんな繋がりがあったなんて、ちょっと驚いた~
さらに歩いて行くと、右側に八幡宮の「自動車お祓い所」があり
その向かい側(左側) 駐車場横の坂道を上って行きます。
すると左手に、石の鳥居が。
50段ほどある急な石段を上り、もうひとつ鳥居をくぐると
「青梅聖天社」
1685(貞享2)年 水戸光圀の命で刊行された『新編鎌倉志』巻之三に;
「鎌倉ノ将軍一日疾劇シクシテ時ナラズ青梅ヲ望マル、諸所ヲ尋ヌルニ
此堂ノ前ニ俄ニ青梅実ル、是ヲ将軍ニ奉テ終ニ疾癒ヌ」 とあるとか。
ご本尊は、男女神が抱き合った姿の「双身歓喜天」で
南北朝期の作とされ、市文化財に指定されています。
拝観はできませんでしたが、この場所に祀られているのは、
往来する人の安全を願ってであろうと、説明板にあります。
石段を下った少し先に、石塔・石仏が並んでいます。
庚申塔のようですね。 時代などよく分かりませんでしたが
古道の面影を偲ばせてくれます。
さらにこの坂を上って行くと、道は次第に細くなっていくようです・・
上ってきたこの道が、実は 1240(仁治元)年に 北条泰時が整備・開通
させたといわれる「巨福呂坂切通し」の旧道で、当時の交通の要衝でした。
そういえば、切通しの険しい雰囲気が感じられますね。
現在 この先は私有地になっていて、行き止まりとのことです。
上ってきた聖天坂を引き返し、鎌倉街道(R21)を北鎌倉方面へ進んで行くと
「巨福呂坂洞門」
江戸時代末頃の「巨福呂坂切通し」は、この洞門の真上辺りを通っていたようです。
1886(明治19)年にトンネルが掘られ新道が造られましたが、1923(大正12)年の
関東大震災で壁面が崩落。その後拡幅工事を経て、1993(平成5)年 現在のように。
「馬場小路」というのは、「鉄の井」からこの辺りまでをいうようです。
洞門の北鎌倉側に、もうひとつのトンネル。
1912(明治45)年から10年の間に「横須賀水道」がこの峠を
通り、この「巨福呂坂送水管路隧道」が完成しました。
今回あらためていろいろ知ることができて、なかなか楽しい散歩でした
16,271歩
「大巧寺(おんめさま)」の門前に、今年も咲いています☆
「氷室雪月花」
こちらのお寺にも、今年も 四季折々いろいろな花を楽しみに 幾度も訪ねました。
では、ちゃんとお礼詣りをして行きましょう。
「羽衣」 「荒獅子」
名も愛らしい「ももすずめ」
ご本堂は、ロウバイと南天に彩られています☆
「本興寺」は もう年越しの装いですね。
年が明ければ、鎌倉は初詣や七福神巡りの人達で 一際賑わうことでしょう。
その喧騒が収まったころに、また歩きに来ようと思います。
こぼれた‘残りの福’でも いただきに(笑)
20,609歩
鎌倉の紅葉スポットを、もう1箇所訪ねてみましょう。
紅葉ヶ谷の「錦屏山 瑞泉寺」へ。
石段の手前に 早速
今日は生憎の曇天ですが、次から次へと 訪問者は絶えません。
山門を入っていくと・・
庭園に、冬桜が数輪 咲いていました☆
「 羨まし 美しうなりて 散る紅葉 」 支考
なかなか時間がとれずに とうとう今日になってしまったけれど、
やっぱりこれを見なくちゃ ‘猫’の「秋」は終わらないんです!
鎌倉・比企ヶ谷 「長興山 妙本寺」の紅葉
ちょっと遅いな~ もう終わっちゃったかな~と思いながら・・
盛りは過ぎているものの・・まだ 見られました~♪
あら、紅梅も咲きだしてますよ
来てみてよかった~
逗子に滞在していた泉鏡花が、しばしば訪れたというお寺へ行ってみました。
閑静な住宅街の奥、谷あいの長い参道を通って
石段を上り、「吉祥門」と呼ばれる山門を入ると
更に、急勾配の石段が上へと続いています。
観音堂への石段の途中に 「爪掘地蔵尊」
わずかに御姿が見える2体の石仏の傍らにある立札には、
「関東百八地蔵 八九番札所 爪掘地蔵尊 伝 弘法大師御作」とあります。
百余段の石段を上りきった所に 「観音堂」
現在の御堂は、1727(享保13)年に再建されたもの。
朱塗りが残っています。
「 海雲山 岩殿寺 」
曹洞宗
開基: 徳道上人(奈良・長谷寺開基)
行基菩薩
開創: 720(養老4)年
本尊: 十一面観世音菩薩
今を去ること1300年の昔、徳道上人がこの地を訪れた際 彩雲に射す光に
導かれて岩峰で座禅を行っていると、十一面観世音の御姿が現われました。
その後 此処を訪れた行基菩薩もまた同様の体験をしたことから
自ら岩に観世音像を刻み、此処を霊場としたと伝わっています。
990(正暦元)年 花山法皇が御参詣、法要を営まれ、
1174(承安4)年 後白河法皇御参詣の際に、当寺を
坂東三十三箇所 第二番札所に定められたそうです。
源頼朝も篤く信仰し何度も参詣、朱印地を寄進したとか。
↑
手前の池は、住職と懇意で観音信仰が篤かった鏡花が寄進したもの。
御堂の背後に、「奥の院 岩殿観音」
近づくことができないので よく分かりませんが、
行基御手彫りの観音像が祀られているようです。
背後の山に上る道は「立入禁止」になっていて 上ることができませんでしたが、
長い歴史に違わず、深い樹林に包まれた由緒ある霊場の佇まいを感じました。
境内で、こんな木の実を拾いました☆
スギ ヤマグリ ヒノキ
(合っているかな?)
当寺を何度も訪れていたという泉鏡花は、此処を題材に
『春昼』 『春昼後刻』などの作品を著したといいます。
あの文豪と同じ場所に 今居ると思うと、境内から見下す
景色にも 何か特別な感慨を覚えてしまう‘猫’なのでした。
なーんて、ちょっと文学を気取ってみた~
17,526歩
12日のこと。
晴天に誘われ、急に逗子の海が見たくなって
JR横須賀線「逗子」駅から、海をめざしてぶら~りと。
R134の下を潜れば、もう海デス☆の休日は、砂浜も沖もにぎわってるナ~
でも・・
期待した富士山のお出ましは無く・・・・
ならば、海はこれくらいにして 山の方へ行ってみよう!
と、回れ右!
途中でちょっと寄り道して、
逗子で人気のお豆腐屋「とちぎや」さんへ。
外のテラスで ひと息入れましょ♪
おとうふのケーキは、やさしいお味
このあと、泉鏡花ゆかりの観音堂を訪ねてみましょうか☆
(続)
鎌倉・鶴岡八幡宮の「ぼんぼり祭」、今日が最終日でした。
鎌倉ゆかりの方達による書画のぼんぼりが、境内に並んでいます。
昼間のぼんぼりですが、目に留まったものをいくつかご紹介しますね。
山本富士子氏
添えられた短歌に惹かれて・・
鈴木英人氏
毎年 ステキな湘南の夏の絵☆
滑川公一氏
今夏は、まさに!
折原みと氏
ひまわり娘♪
大竹五洋氏
清楚な日本美☆
福井良宏氏
幻想的・・
小澤柏光氏
跳躍!
養老孟司氏
今年の虫は、覚えにくい名(笑)
土田直敏氏
この夏は、やっぱりこの人!
昼間でも、十分に楽しめました~!
「正宗」に関わる場所が、ほかにもありました。
先日訪ねた源氏山公園の中にある「葛原岡神社」の境内に
「合鎚稲荷社」
「合鎚」は、鍛冶で互いに鎚を打ち合わせることをいうそうです。
正宗の子孫が北条氏綱から与えられた無量寺ヶ谷の屋敷内に
あった屋敷神を、2013(平成25)年 この場所に遷したとか。
「本覚寺」
ご本堂の前に、江戸の刀匠達が建立したという立派な石碑が立っています。
「五郎入道正宗碑」
墓地に入ると、右側の植え込みに囲まれた一画に 宝篋印塔が一基。
岡崎五郎入道正宗のお墓と伝えられます。
「戌子 正月十一日 心龍墓 俗名 正宗」とあります。
嘗て 七里ガ浜に注ぐ河口の辺りでは 砂鉄が産出したといわれ、
そのことから、刀剣などの鍛冶産業が発展したと考えられます。
正宗に関しては、生年・没年を含め不明な点が多いとされていますが、
「相州伝」と呼ばれる作風を確立し 多くの弟子を育成して、後世に
影響を及ぼした刀匠であったことは 間違いのないところでしょう。
「鎌倉」駅西口から、「寿福寺」の方へ向かう「今小路」。
寿福寺の少し手前の路地を左に入った所に、お稲荷さんの石祠。
「焼刃(やいば)稲荷社」
タブノキに守られるように、ひっそり佇む小さな祠です。
祠の傍らに立つ碑
「稲荷社 正宗屋舗 焼刃渡」と読めます。
鎌倉~南北朝時代に活躍した刀匠「五郎入道正宗」の屋敷が
この辺りにあったとされており、そこに祀られていた稲荷社が
屋敷と共に荒廃していたのを、江戸時代に再建したものとか。
入母屋造りの屋根としっかり刻まれた垂木、
麻の葉模様が施された腰壁、切目縁を巡らした
小さい祠ながら 大変精巧な造りになっています。
「今小路」をもう少し進んだ右手、JR線の踏切の近くに
「正宗孫刀剣鍛冶綱廣」と書かれたお店があります。
「正宗工芸美術製作所」
正宗のご子孫が営むお店だそうです。
正宗の11代目子孫が北条氏綱から「綱」の一字を貰って「綱廣」を名乗り、
以来 代々その名を継いで、現在のご当主は24代目だということです。
ショーウィンドウには、刀剣や包丁など。
‘ザ 鎌倉’というお店ですね!
山越えの道を歩いて、逗子市から横須賀市へと入っていきます。
途中から、「鷹取山」のハイキングのときに通った道になりました。
その道をどんどん進み、道標に従って追浜方面へ下っていきます。
高台から眼下に長浦港を眺めながら、「浜見台」の住宅地を過ぎて・・
「梅田隧道記念之碑」
1882(明治15)年 海軍水雷艇基地などの建設のため、周辺の港が軍用と
なったため、漁民たちは軍の工場で働くようになりました。しかし、通勤には
険しい山坂を越えねばならず難渋していました。 そこで土地の有志達が出資、
2年の難工事の末に、すべて民間人の手によるトンネルが1888(明治21)年
完成しました。 軍用以外では、市内で最初に建設されたトンネルだそうです。
碑の題字は、樺山資紀氏(海軍大臣)。 碑文は、田辺新之助氏。
「楽浦山 能永寺」
市内唯一の時宗のお寺。
1276(建治2)年 一遍上人が開いたといわれます。
本尊:阿弥陀如来
本堂は1843(天保14)年 築
ご本尊のほか、観音菩薩像・勢至菩薩像・胎蔵地蔵尊像など。
寺裏の「榎戸貝塚」からは、縄文期の骨角器が出土しています。
「地蔵十王図掛軸」
(画像は市HPより)
画幅:141cm × 47cm 市指定重要文化財
寺伝では中国画家 陸信忠の筆といわれますが、中国画の強い影響を
受けた室町中期の日本の画家の筆によるものと考えられています。
「浦郷公園」を通り抜けて、「深浦湾」に到着☆
嘗ては「能永寺」門前辺りまでが海で、「榎戸湊(えのきどみなと)」と呼ばれる
海上交通の要衝でした。 逗子から運ばれてきた魚は、此処から船で江戸へと
運ばれたのです。 現在ではすっかり埋立てられ、往時の面影はありません・・
魚荷道を辿って、逗子の田越から横須賀の深浦まで
今回も よく歩きました~☆
24,610歩
「魚荷(うおに)」とは、文字通り魚を運ぶ荷駄のこと。
江戸文政の頃、相模湾で獲れた生魚を江戸・日本橋の魚河岸まで届けるため
逗子の田越から桜山・沼間を経て 横須賀の榎戸湊まで、馬で荷を運んだ「魚荷道」を
ガイドさんの案内で 途中の山越えも楽しみながら、周辺の寺社を訪ねて歩きました。
伊豆や真鶴で獲れた魚は、相模湾から逗子市内を流れる「田越川」を舟で運び、名主 石渡家の
屋敷の前で荷揚げして馬の背に積み替え、榎戸まで運んだのち 海路を江戸に向かいました。
「荷揚場跡」
道路沿いにある長い塀の邸宅が「石渡家」。
中世からの土豪で「神武寺」の筆頭檀家。 江戸時代後期、屋敷の前で
舟を停めて荷揚げし、馬に積み替えて榎戸まで運び、海路にて江戸まで
運ぶ差配をしていました。 川に面した石垣に、荷揚場の跡が残っています。
笹の葉を敷き生魚を入れた籠を、馬の背に左右5籠ずつ積んで
さぁ、ここから魚荷道のスタートです☆
ほどなく右手に
「海向山 宗泰寺」
真言宗のお寺で、通称「さくら山寺」。
本尊: 阿弥陀如来
以前訪ねたとき、ご紹介しましたね。
「木造十王像」と「奪衣婆坐像」が市の重要文化財になっています。
(画像は逗子市HPより)
十王像は、1685(貞享2)年 鎌倉扇ガ谷の加賀仏師の作といわれます。
住宅街の道が右へ緩やかにカーブしていくと、変わった外観のお寺が・・
茅葺屋根のお堂が建て替えられ、近代的な建物になりました。
「恵日山 金剛寺」
真言宗
創建: 18世紀ごろ
本尊: 阿弥陀如来
阿弥陀如来像は江戸初期の作。 建物左端のガラス戸越しに拝観。
他に十一面観音坐像・不動三尊像。
R24 (逗子大師通り)に出ました。
横須賀方面へ進み 消防署前辺りで右へ入って行くと、山裾に石の鳥居。
そこから、長い石段をひたすら上ってゆきます
「桜山大神宮」
祭神: 天照大神
桜山地区の総鎮守。 一説に、神武寺の山王社ともいわれます。
「神明社」と書かれた扁額は、東郷吉太郎中将(東郷元帥の甥)の筆。
R24 沿いの「福祉会館入口」交差点右に、たくさんの石塔が並んでいます。
嘗て周辺に祀られていたものが集められたのでしょうか。
「桜山石塔群」
地蔵・馬頭観音・堅牢地神塔・庚申塔・徳本塔など。
激しく風化した地蔵像は「疣(いぼ)地蔵」と呼ばれ、弘法大師の作と伝わります。
R24 「警察署入口」交差点向かいの路地を奥へと入って行くと、
覆屋に卵塔が1基祀られてあり、「入定さま」と呼ばれています。
この辺りは 廃仏毀釈で廃寺となった「地蔵院」の境内で、円求という法師が
諸国行脚の末 此処で地下に掘った穴に入り、竹筒で呼吸を補いながら
食を断ち、鐘を鳴らし念仏を唱え続けて 7日後に入定されたと・・
R24を進んで また右の道に入ると、奥に 直登する急勾配の石段。
「蓮沼山 観蔵院」
天台宗
開山は724(神亀元) 1716(正徳6)年 中興
本尊: 十一面観世音菩薩
御像は7年毎に行われる祭の際に開扉されるとか。
三浦三十三観音第十三番御札所
境内の一隅、覆屋に赤い前垂をした石像が祀られてありました。
地蔵様かと思ってよく見ると、頭に馬の顔を乗せた馬頭観音でした。
「火の見下」の交番前の信号右側 大樹の根元に石塔群。
「火の見下石塔群」
「宝暦四年」と刻銘がある宝篋印陀羅尼塔は、
中に経文が入っていたといわれています。
反対側の金網の中に並んだ石塔も、庚申塔のようです。
「五霊神社」
沼間地区の鎮守
祭神: 天手力男命
源義朝が、沼浜の舘の守護神として勧請したのが始まりと。
此処も 以前ご紹介したことがありましたね。
「かながわの名木100選」に選ばれている境内の大イチョウの巨木から
落ちたギンナンの匂いが境内中にただよい、拾う人の姿もちらほら
住宅街を過ぎ、やがて横横自動車道路のガードをくぐった辺りから
次第に人家がなくなり、山道へと入って行きます。
横須賀はこの山越えのあと・・
(続)
切通しの中でも 往時の雰囲気が色濃く残っているという「朝夷奈切通し」。
木蔭と湧水のせせらぎの水音を求めて、久しぶりにまた 訪ねました。
入口の道祖神の前を通って
切通しに入って行きます
岩壁に彫られた磨崖仏
上の方で 盛んにリスが鳴いています
江ノ電に乗って、湘南海岸にやってきました☆
今日も いい天気だな~
「稲村ケ崎」駅を出て、「極楽寺」の方へ数分歩いた道沿いに
「十一人塚」
1333(元弘3)年 新田義貞の鎌倉攻めの際、新田方の将 大館宗氏が
軍を率いて極楽寺坂切通しに攻め入りましたが、北条軍の猛反撃に
遭い 宗氏は討死、最後まで残った11名も自刃しました。 その霊を
弔うため、1862(文久2)年に建立されたという石碑があります。
傍らの丸石の塚は、1959(昭和34)年に付近の造成現場から発見された
鎌倉時代の武士のものとみられる多数の人骨の内の1部を埋葬した塚とか。
坂を下ると 一気に視界が開け、海岸通り(R134)の向こうは 湘南の海☆
夏の海水浴は勿論、1年を通してマリンスポーツの人達で賑わいます。
左手に見えるのが「稲村ケ崎」
サザンの歌や、映画の舞台になった湘南の観光地として
知られていますね。 今日も、磯遊びのファミリーやカップルが☆
新田義貞徒渉伝説地
1333(元弘3)年の鎌倉攻めの際に、新田義貞が海中に宝剣を投じ
潮が引いたところで一気に攻め入った という伝説はあまりにも有名。
「鎌倉海浜公園」
今は整備された公園になっていて、目の前に広がる海の景色を
楽しみながら、芝生やベンチでお弁当を広げる人達も。
「関東富士見百景」の1つに挙げられています。
夕景の富士を眺める絶好ポイントとしても、超有名な場所。
海岸線の向こうに、江の島と富士山☆
あまりにも定番の絵づらですけど・・・
「ボート遭難慰霊碑」
♪真白き富士の嶺~♪ の歌で知られるように、1910(明治13)年の
海難事故で亡くなった12名の霊を悼んで建立された像です。
R134は車の列が途切れなく続いていますが、江の島へ
向かって海岸沿いに歩いて行くと、「音無川」の近くに
「西田幾太郎記念歌碑」
西田幾多郎氏(1870-1945)
哲学者
(画像はWikipediaから拝借)
1933年より没するまでの12年間の夏・冬を、この地で過ごしたとか。
碑は、1951(昭和26)年 同郷の友人 鈴木大拙氏らの発起で建立。
「 七里濱 夕日漂ふ 波の上に 伊豆の山々 果し知らずも 」
1911(明治44)年刊行『善の研究』は、氏の代表的著書として有名ですが
‘猫’も学生の頃、どんなことが書かれているのかと開いてみたことがあります。
内容もさりながら、文言の難しさに疲れて・・・途中で あえなく撃沈~
江ノ電「鎌倉高校前」駅
この先の「小動(こゆるぎ)岬」を過ぎれば、江の島はすぐそこです☆
「妙本寺」のすぐ近くにあるのは、
「妙巌山 本覚寺」
化粧直しが終わり、すっきりときれいになった仁王門。
左右の仁王像はまだお引越しが済まず、お留守でした。
只今は、本堂の改修をしています。
創建: 1436(永享8)年
開山: 日出上人
本尊: 釈迦三尊
源頼朝が、幕府鬼門の鎮守として夷堂を建立した場所で
佐渡配流から戻った日蓮聖人が、此処を住まいとしたと
伝えられています。 その後鎌倉公方 足利持氏が寺を
建立して日出上人に寄進、日蓮宗に改められました。
第2代 日朝上人が身延山久遠寺から日蓮聖人の分骨を
受け、当山に祀ったことにより「東身延」と呼ばれています。
日蓮上人御分骨堂
「慧雲(えうん)山 常栄寺」
別名「ぼたもち寺」
「これやこの 法難の祖師に 萩のもち ささげし尼が すみにしところ」
塚本柳斎という人の歌だそうで、境内に 歌碑があります。
日蓮宗
創建: 1606(慶長11)年
開山: 日詔上人
中興開基: 日祐法尼
本尊: 三宝祖師
源頼朝が由比ヶ浜の鶴の放鳥を眺めるために桟敷を設けた
山の麓に、鎌倉幕府第6代 宗尊親王の近臣 印東祐信夫妻が
住み、夫の死後 尼となった妻は「桟敷の尼」と呼ばれました。
1271(文永8)年 捕えられて龍ノ口の刑場に引かれて行く
日蓮聖人に、桟敷の尼が胡麻ぼたもちを捧げたといいます。
1606(慶長11)年 日詔上人が寺を建立し、桟敷の尼の
法名「妙常日栄」に因んで 寺名を「常栄寺」としました。
置かれていた僧侶の学問所 宝篋堂壇林が、1689(元禄2)年
池上本門寺に移されたため、紀州徳川家家臣 永野重良の娘
日祐法尼が講堂を再建して、寺を復興したということです。
境内に
右の大きな石塔は、日祐法尼のお墓。
左の2基は、印東祐信夫妻のお墓。
前のは、塚本柳斎の歌碑だそうです。
「八雲神社」
祭神: 素戔嗚尊 稲田比売命
永保年間(1161~62) 新羅三郎源義光の勧請と伝わります。
後三年の役で兄 源義朝に加勢するため奥州に向かう途中に
立ち寄り、当時疫病が流行していたことから「厄除けの神」と
して名高い京の祇園社を勧請し、祈願したことに始まるとか。
以来、「鎌倉の厄除けさん」として崇敬を集める神社です。
本堂前の天水盤
昭和天皇御在位60年を祝い 1986(昭和61)年に奉納されたもので
説明板には「武州鋳物師 鈴木文吾氏により『惣型法』にて鋳造さる。
東京オリンピック聖火台も同氏が鋳造した。」とあります。
15,908歩