今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

高尾山で滝行

2023年05月06日 | パワー・スピリチュアル

先週の土曜は、奥多摩の御岳山にある御嶽神社で式年祭に参列し(→記事)、一週間後の今日は、高尾山の琵琶滝で滝行(高尾山の薬王院では”水行”(すいぎょう)という)に参加した。

滝行は、2009年のGWに、御岳山で神道式の行を経験したが(→記事)、今回は真言宗式。
もっとも滝行のルーツは修験道なので、御岳山も高尾山も根っこは同じ。

高尾山での水行の場は、琵琶滝と蛇滝、それにケーブル駅前の清滝の3箇所あるが、着替えなどの設備が整っているのは前の2つで、しかもそれぞれ毎月二回水行指導の日がある。

今年3月の高尾山行きで、蛇滝と琵琶滝の行場をチェックし(→)、アプローチのしやすさから琵琶滝での5月6日の水行指導を電話予約しておいた。

いつもは使わない目覚ましで目覚め、いちおう登山の格好(タオルと替え下着を追加)で出発。

琵琶滝の行場に着いて(写真:建物は不動堂)、行者だけが入れる右側(写真外)にある建物に入る。
そこで受付を済ませ、指導料3000円を払い、行衣を借りる。
私と同じく指導を受ける人たちが次々やってきて、20名以上になった。
年齢は10代の若者から私より年上らしき人まで幅広いが、それらの中間の中年が多い。
女性は5名ほど。

まずは服の上に借りた行衣を羽織って、館内で待機。
行衣姿の若い僧侶が来て、彼の説明を聞く。

まずは水行を含む”修行”の意味について。
御岳山では滝行はパワー(験力、神通力)をつける的なニュアンスだったが、真言宗のこちらでは、そういう志向性を否定し、水行のような山中の修行は、非日常性に身を置く経験によって、日常の有り難さ(感謝の心)を認識するためだという。
修行の目的は、苦るしむことではなく、心の在り方の(実感を伴った)変質にあるというわけだ。
仏教では、神通力のようなパワーは方便に過ぎず、それを目的とすることは低レベルの状態に満足する事であり、目指すべきなのは”悟り”という心の在り方の進化にある。

そして修行によって得られる”ご利益”というのは、個人的欲望を満たすことではなく(それは方便)、感謝を新たに感じる事で幸福感が増す事だという。
実際、汗水垂らして山に登って痛感するのは、冷房の効いた部屋でアイスを食べる日常生活のありがたさだ。

修行は身体を痛めつけること・苦しむことが目的でないという言葉を僧侶から聞けて安心した。

さていよいよその行が始まる。
まず塩で口を清め、滝手前の不動堂で、僧侶の読経の中、行衣姿のわれわれが「南無大聖不動明王」という名号を皆で唱える(珍しそうに眺めている登山客の視線を感じながら)。

ここから行者以外立入禁止の行場に入り、下着と行衣だけに着替えて、まず行場のゴミを払い、指導僧の指導の元、バケツに入った塩を両手でつかんで、全身を清め(最後は地面の塩を足で踏んで足の裏も清める)、一人ずつ順次、名号を唱えながらバケツで水をかぶってから、滝の下に進む。

滝の前で、指導されるままに、不動明王たる滝に向って名号を三唱し、滝つぼの石の座に右手をかけて名号を唱え、滝の真下の石の座に座ると、頭から落水を浴びて、いっきに体が冷たくなる。
ここでも指導僧の読経と名号に合わせて、名号を唱えるのだが、水の冷たさと滝の水圧に負けそうになる。
そんな中、あえて両手で脚や胴に滝の霊(冷)水を行き渡らせる。
寒さと水の力に負けまいと、大声で名号を唱えるために、
自分の力を内側から絞り出す。

自分の内に備えている力、それこそが自分自身の真正なパワーである。
その内なるパワーを”仏性”というなら、
滝に打たれてなお力強く名号を唱える瞬間、”即身成仏”を実現しているといえまいか。
これが水行(滝行)の意義だと実感した。
水行は単なる苦行ではなかった。

滝に向って今一度名号を三唱し、指導僧に一礼して、水行を終える。
一部記述を省略したが、おおむね以上のような流れ。

乾いた服に着替え、濡れた行衣は洗濯機で脱水し、元の場所に戻す。

待合室には、自前の行衣、袋入りの塩と一合酒の瓶を持参している人がいた。
尋ねると、今から一人で水行をするという。
水行の作法は先達から教わったという。

薬王院では指導を受けないと、個人での水行は受付ない。
ならば、今回指導を受けた私は、今後は一人で水行してもいいのか。
でも一回の経験では所作は覚えきれない。

指導僧が戻ってきたので、これについて尋ねると、今回の指導は団体用なので、個人で水行をする場合は別の指導をするという。
自立して行をするには3回ほどの指導が必要らしい。

10時半から説明が始まって、11時から水行が始まり、すべて終ったのが13時半頃(参加者数によって時間が異なる)。
なので高尾山に登るのはやめにした(水浴びした後は汗をかきたくないし)。
今日の水行に満足して下山する。

以前紹介した加門七海氏の本(→記事)の中で、修験本宗宗務総長が言うには、山で修行したまま下界(俗世間)に戻ると、”聖なるケガレ”を持ち帰ることになるので、「精進落し」をすべきということだ。
それに従って、高尾山口駅の売店で、缶ビールとつまみを買って、水辺の公園のベンチに腰掛けて精進落しをした。



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