今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

夢:表象と自我の分離現象

2022年04月04日 | 心理学

夢=非合理的という偏見」の記事で、夢を見させる主体は何なのか、が問題になった。
これを私の「心の多重過程モデル」で説明したいのだが、理論を元に現象を整合的に説明するという理論側に偏した記述をするより、まず現象をきちんと捉え、それを論理的に説明(理論化)する、という手順を踏みたい。
※心の多重過程モデル:”心”を以下のサブシステムからなる高次システムとみなす私のモデル
システム0:覚醒/睡眠・情動など生理的に反応する活動。生きている間作動し続ける。
システム1:条件づけなどによる直感(無自覚)的反応。身体運動時に作動。通常の”心”はここから。
システム2:思考・表象による意識活動。通常の”心”はここまで(二重過程モデル)。
システム3以降は本記事の問題には関係ないので省略。

そこで、夢という意識現象を、現実との対比だけでなく、空想との関係も考慮し、さらには、覚醒と睡眠、夢見との移行段階の諸現象(開眼夢夢うつつ半睡)を材料に、捉え直してみる。

【夢になる瞬間】
覚醒から夢見に至る境界領域に着目し、意識的なイメージ表象が夢になる瞬間を捉えてみよう。
①知覚(像)が夢に転換する瞬間
居眠り時、”夢うつつ”状態になると、知覚像(たとえば本の文字面)が、それとは無関係な映像や音に切替わる。
同じ居眠りでも、開眼したまま夢を見る”開眼夢”状態(経験者は少ない)では、眼前の現実の風景に夢の像が重なる。
両者に共通するのは、夢の映像は、覚醒時のイメージ表象(想像)と違って、現実の知覚に匹敵する精細度があるため、そのリアリティ(現実感)に吸い込まれるが、静止画的で短時間で終わり、すぐ覚醒に戻ることである。

②空想が夢に転換する瞬間
こちらは毎晩の入眠時に経験できるかもしれない。
寝床について照明を消し、目を閉じ、感情的に興奮しない静謐な情景(人物がいてもよい)をイメージ表象(想像)する。
だんだん眠くなっていくと、イメージ表象が消えて睡眠に入ることの方が多いが、時折、そのイメージ(たとえば人物)が(自我の制御を離れて)自律運動を始める場合がある。
これが想像が夢に転換した瞬間だ。

以上の①②は、寝入りばなの浅い睡眠時に経験するもので、この転換過程だけで終わり、転換後に夢がさらに進展することはない(この経験に驚いて目が覚めてしまう)。
すなわち、夢イメージは、ダイナミックさも内容もないため、記憶に残らない。

この夢を見ている時、自我は夢をただ見ている(眺めている)にすぎず、夢の中で行動しない。
そのためこの種の夢は、ほとんどの夢理論で無視されているが、一方で「ノンレム睡眠で見る夢」と位置づけられて、それ以上の言及はない。
この浅い睡眠時のストーリー性のない夢を”夢1”としておく。

【自我を巻き込む夢】
たとえば朝目覚める直前に見る夢は、劇的なストーリー展開があり、自我(夢主)がそのストーリーに積極的に関与している(ストーリーの主人公になっている)。
巷間の夢理論が題材としている夢で、このような夢を”夢2”としよう。

ということで、私は夢を上の夢1と夢2の二種類に分類する(夢1を含めることが私の特徴)。

まず、夢1と夢2の共通性、すなわち夢の”本質”を捉えてみる。
夢(夢1と夢2の総称)は、ともに覚醒時の自我の能動的なイメージ表象(想像)とは異なり、自我の制御外で発生する。
自我が構成したのではないという意味で自動的な表象現象である。
ここが夢理解の出発点である。
また、現実と見まがうほどの高精細な表象である点も、覚醒時のイメージ表象と異なる。
たとえば、覚醒時にある楽曲をイメージ表象しても、それは音としては鳴っていない(比喩的な表現だが、頭の中で記憶の再生として鳴っているのであり、耳元でリアルな音として鳴っているのではない)。
ところが、夢となると、音が(耳元で)鳴り(聞こえ)、それまで聞こえていた環境音をマスクする。
こう断言できるのも、覚醒とダブっている過程の夢1の経験をしっかりとらえることで、その精細度を知覚像と比較できたためである。

自我が能動的に表象するのではなく、自我の意図とは無関係にリアルな精細度で表象され、自我はそれに受動的に対応するしかない。
これが夢である。

次に夢1と夢2の相違点に注目する。
夢1で経験される表象は、精細度が高くても、短時間でストーリー展開がなく、意味に乏しい。自我はそれを眺め聞くだけである。
夢2はストーリー展開があり、夢主を巻き込み、夢主は夢の中で思考し、会話し、行動し、さまざまな感情を経験する。
すなわち夢1は知覚対象としての距離にあるが、夢2は夢主を巻き込んで相互作用する近さにある。

この違いは、それぞれを構成する主体が異なるためといえる。
夢1は知覚像の記憶をもとにした(不正確な)再生ともいえ、それだけならシステム1で可能。
夢2は現実体験に基づかない物語化であるため、システム2の創造能力を必要とする(システム1では無理)。
動物も睡眠中に夢を見て不思議ではないが、システム2が発達した人類の見る夢(夢2)と、システム1中心の他の動物の見る夢(夢1)に違いがあるはず。

夢が自我と分離した表象現象というなら、分離した非自我は何か。
夢1ではシステム1という元より自我とは別の心のサブシステム(無自覚領域)が主体といえる。
夢2はシステム2における自我(夢を見る側)と物語作成機能が分離したものと見なさざるをえない→すなわち意識作用と意識対象とが分離する。

イメージ表象の自我からの分離(乖離)は、夢1から、入眠時でも簡単に起きることがわかる。
すなわちイメージ表象能力は、元より自我の制御から外れることが可能なのである。
これは絵画作家や文学者が、「筆がひとりでに動く」というように、創作活動中に時々経験されることかもしれない。
あるいはわれわれ読者が小説を読みふけっている時、文字情報を処理しているという意識がなくなり、映画を観ているように小説内容が映像化されるのは、紙上の文字列が自動的に(自我の関与を素通りして)イメージ表象化されていためである(自我はイメージ映像を鑑賞している)。
早い話、われわれは”幻覚”を経験する能力が備わっているのである。

言い換えれば、自我はシステム2を構成するその一部であって、システム2のすべてではない。
ましてや意識や心のすべてではない(自我はそう思っているかもしれないが)。
たとえば自我と表象とを分離するのは、システム2自身ではなく、システム2の作動を可能(不能)にする、より根源的な層であるシステム1(知覚・行動の主体)かシステム0(生命活動の主体)であろう。
われわれは自我の意思で夢のオンオフを制御できないからだ。

そもそも心の作動の制御は、システム2の一部でしかない自我だけでは無理で、心全体(システム0~)で分担するものである。
言い換えれば、心の作動の責任を、システム2の自我にだけ押し付けるのは、自我にとって酷である。

話が夢から自我に逸れてしまったので戻そう。
夢という現象を、特定のパターンに押し込めることなく、その多彩さを含めてきちんと受け止める事から始めると、その説明はそう簡単にはいかないものとなる。
考えれば考えるほど、夢は不思議な現象だ。

自我中心ではなく、心全体(システム0~)を見渡す視点から、夢(夢2+夢1)という不思議な意識現象を捉え直してみたい。