帰京中、上野の国立西洋美術館でやっている「キュビズム展」を観た。
ピカソに代表される20世紀絵画のあのキュビズムだ。
展示は、キュビズムを代表するピカソとブラックから始まり、キュビズムにも接近したシャガールやモディリアーニを含み、デュシャンを経て最後はなんとル・コルビュジエ(西洋美術館の設計者)まで含む(右絵:ル・コルビュジエ「水差しとコップ」館内撮影)。
そもそもキュビズムは、後期印象派でもあるセザンヌが源流で、絵画を構成する形態が円や三角形からなるという彼が示した形態の抽象化(本質化)を、セザンヌ以上に大胆に具現した絵画運動で、具象的形態の解体(ゲシュタルト崩壊)とも取れる表現手法だ。
なので、これらの絵を観るときは、元は何の形態かを探り当てる態度になってしまう(=ピカソの絵をセザンヌ段階に戻す)。
そして元の形態が判明すれば、判った気になり、判明しないと「わからん」という感想になる。
今回の展示で私の誤解が判ったのは、キュビズムの絵は決して抽象画ではなく、具象画(の極北)であり、抽象画はキュビズムに続く次の発展形であること。
なぜなら、キュビズムの絵の題材はあくまで具象的な静物※・楽器・人物であるから。
※:静物画は卓上の果物などを描くものだが、キュビズムのそれは20世紀らしく新聞が加わり、解体した形態の中に新聞の文字だけが意味を備えた形態として存在感を放っている。
すなわち具象画/抽象画というのは、表現手法ではなく、絵の対象についてのものだ。
確かに、表現手法に当てはめると、幼児が描いたママの顔の絵も(写実性が全くないという点で)抽象画に分類されてしまう。
抽象画は、表題が「コンポジション」となるように(モンドリアンの絵が典型)、対象が抽象的なのだ。
ということなら、キュビズムの絵に具象的な形態を探る観方は間違ってはいないようだ。
ただこの観方は、画家があえて解体した形態を頭の中で再構成することだから、絵の表現を受け入れたことにはならない。
そこに新たなる美(表現)を見つける必要がある。
実は我々は、普通に具象的な風景の中に抽象的な形態・色彩の美を見出している(富士山の形態が典型的だし、写真を撮る際は、構図を形態の配置としてセザンヌ的に構成する)。
となると、あえてキュビズム的な表現にこだわる必要もなくなってくる(現代画家がピカソやブラックの後継者である必要はない)。
そのようなキュビズム運動の盛衰を概観できた。