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今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

瞑想のすゝめ:レベル3

2020年08月24日 | 心理学

瞑想のすゝめ:レベル2」の続き。

レベル3の瞑想は、心の新しいサブシステムを作動させる。
すなわち、心の新しい次元が開かれる。


心理学における既存の「二重過程モデル」(システム1,システム2)でいうと、通常の人間の心では、システム2が最高位である。
そのモデルを拡大した私の「心の多重過程モデル」によると、システム0が意識を可能にし、覚醒時に作動するシステム1は無自覚レベルの日常行動(条件づけ)をこなし、さらに高度なシステム2が綿密な意識活動(思考、表象)を可能にする。
システム2では、思考活動の主体として自我が発生し、自我が心の主人公となっている。
それによって適応的には高度化されて、システム2の知性が人類を繁栄させた。

ただ、システム2は万能ではなく、自覚できない不正確性が行動経済学によって、そして誤った信念が自己を苦しめていることが認知行動療法によって明らかにされた。
いずれも21世紀の心理学である。

だが、自我への執着や幻想的思考への拘泥が人間を苦しめていること、すなわちシステム2の副作用は、すでに2500年前に見透かされていた。
釈尊によって。
さらに釈尊は、身体を痛める苦行ではなく、静かな瞑想によって、システム2の限界を乗り越える道を自ら切り開いた。

実際、前稿で示したレベル2の瞑想で、自我に拘泥する状態の解除が可能となった。
純粋経験は、自我が未成立のシステム0レベルの体験への立ち戻りであり、存在の実感は、自我を可能にする深層への沈降である。
いずれも、システム2(自我)が素通りしてきた自己経験の根源部分である。
レベル2の瞑想によって、自我中心状態への揺さぶりができたら、いよいよレベル3の瞑想に進み、新境地を体験しよう。


やる瞑想は、マインドフルネス(ヴィパッサナー)瞑想でいい。
ただ、多重過程モデルの立場として、新しい境地である「システム3」を作動させることが目的となるので、少し手を加える。

これから作動するシステム3、すなわちマインドフルネス状態は、システム2が作動可能なら、誰でも作動できるのだが、日常生活ではまったく作動させる必要性がなく、また作動させる負荷が高いため、ほとんどの人は作動(経験)しないまま一生を終える。
べつにそれでも社会生活上は問題ないので、全員に必要とはならない。
そんな暇があるなら、システム2をフル稼働させていた方が生産性が高い、というのも確かだ。

ただ逆にシステム2をフル稼働させることでその限界に達したなら、さらに上の境地を切り開くことに価値がある。
日常の最高位であるシステム2の限界を乗り越えることができるから。
Google社で社員にマインドフルネス瞑想をさせているのも、そのためかもしれない。
ただ、理論的根拠が乏しい気がする。
それを整えるのが私の役目だ。

では実践に入ろう。
レベル3の瞑想は、瞑想している主体から離脱し、瞑想している自分を眺めることをする。
これは一種の二重自我状態で、瞑想している自己と、それを眺めている自己に分裂(乖離)する非日常体験だ。
自我に未経験の揺さぶりをかけるので、統合失調症や解離性障害など自我に脆弱性のある人は、実行を遠慮してほしい。

※多重人格などの乖離の病的状態。ただし解離は乖離能力を前提とする。その乖離をポジティブな方向で作動させたい。

「心の多重過程モデル」という理論的根拠にもとずく着実な方法なので、システム2(自我)がしっかりしている健常な人は、瞑想の目的となる状態が明確なので、ぜひトライしてほしい。

マインドフルネス瞑想をすればいいので、そちらの本を参考にしてかまわない。

瞑想状態に入ったら、瞑想している自分をそのままにして、それを後ろ(前からでも上からでもいい)から眺めている自分になる(幽体離脱をイメージしてもよい)。
それができたら、今度はその自分に眺められている瞑想している自分になる。
これを、繰り返すというより、同時に経験する
すなわち二重自我状態になる。
ただし、これは自我が単純にダブルになったのではない。

※この状態でもmuseのニューロ・フィードバックでは鳥が鳴くので、正しい瞑想 (calm)状態といえる。

この状態を心理学的に記述するにはやや込み入っていて、しかも読者には体験的理解がしにくいのだが、きちんと説明はできる。
理論的柱は、安永浩という精神医学者の「ファントム空間モデル」が前提で、それについては、私の論文を参照してもらうしかないが、

※「四重過程モデルにおける自己の多層性—マインドフルネス瞑想の心理学モデルとして—」椙山女学園大学大学研究論集49号(2018〕→ダウンロード

まずシステム2で自我が成立した段階に戻ると、自我はすでに自己認識ができるので、W.ジェームズが鋭く指摘したように、自我は主我( I )客我(me)に別れる。
客我は自己イメージやアイデンティティで、それの認識主体が主我である。
主我は自我の主体部分(主観作用、ノエシス)で、客体部分(ノエマ)が客我だ。
ここまではシステム2だから誰もが経験している。

上の瞑想での二重自我は、その主我が分離するのである(主我と客我の分離ではない!)。
ただし主我は真っ二つに分れるのではなく、
行動主体としての自我すなわち極自我と、観照機能だけの現象学的自極(いずれも安永浩の用語)に別れる。
瞑想している自分は極自我であり、それを背後から眺めている(瞑想はしていない)自分が自極だ※。

※この分離は、図らずも自我の失調によって非意図的に発生することがあり、私自身も運転中に事故りそうになった時に経験をしたことがある。また前稿(レベル2)で引用した「”瞑想難民”は解離に陥りやすい」というブラユキ師の指摘も、瞑想による自我の乖離で説明できる。

そもそもシステム2の自我は、フッサールの表現では「経験的自我」であり、行動主体・感情主体・思考主体である。
普段のシステム2では、主我と自極はいつもほぼ一致している。
安永氏の指摘では、もともとぴったり一致=同一ではないというから、分離は誰でもできるはず。

実は自極が主我(極自我)から分離可能であることを指摘したのは、安永浩より前に、フッサールがいた。
彼は、経験的自我から超越論的自我(超越論的主観性)を現象学の実践主体として抽出した。
すなわちフッサール自身が、経験的自我と超越論的自我とを分け、後者は自己の身体や人格に付属していないので、不死なのだとまで言ったらしい。
この理解しにくく悪評の超越論的自我という概念は、哲学的思考(システム2)を巡らすよりも、瞑想でレベル3に達すれば体験的に理解できる。

このように、自極が自我(主我)から分離することが、新たなシステム3の作動である。
そしてシステム2の主体である自我から解放された自極がシステム3の主体だ。

瞑想という、システム1の停止とシステム2の沈静状態になって初めて、この微妙な分離(システム2の一部からシステム3の作動)が可能となる。
それもあって、システム2では、おのれよりも高次のシステム3を理解するのは困難なのだ。

だが、いったんシステム3を作動できたら、システム2の瞑想主体(極自我)は、たとえば思考(マインド・ワンダリング)に陥ってもかまわない。
なぜならシステム3(自極)本体は思考に陥らず、それを眺めている側だから。

さらに、システム3自体は瞑想を必要としないので、瞑想をやめてもかまわない。
むしろ、非瞑想時にもシステム3を作動できるようにすることが望ましい(ただし解離の危険がある)。

マインドフルネスでも、「歩行瞑想」という名で、歩行中にシステム3を作動させる訓練がある。
システム1と2を使って道を間違えずに歩きながら、システム3で歩いている自分のたとえばあちこちの関節(足首、膝、股関節)をチェックする。
これで歩行姿勢の矯正ができる。
システム3は行動主体にはなれず、ただ観照するのみの単機能のサブ自己なのだが、人間の身体は、意識した部位がその焦点化によって反応するので(システム3→システム0のトップダウン経路)、矯正が実現するのだ。

上記した瞑想レベル3に至って、今まで最高位であった自我のさらに上に、システム3という新たな心のサブシステムが作動する。
これによって心は豊かなり、高次のバランスがとれる。
これを目的にするのがレベル3の瞑想だ。
→「瞑想のすゝめ:エピローグ」へ。