ある社会心理学書の共著者の一人として原稿執筆を進めている。
そこで編集側から指示されたのは、編集の方針として、
被験者という語を「実験対象者」に変更すること。
私自身は原稿にその単語を使わなかったので影響はないが、釈然としないものが残る。
なぜ「被験者」は使えないのだろう。
そのからくりはこうだ。
被験者は訳語で、その原語はsubject。
この原語は歴史的に「臣下」という意味があり、実験者の下位者というニュアンスがあるため、
アメリカで控えることになった。
それを受けたということ。
つまり、使用がふさわしくないのは、subjectという英語であって
(”主観”とか”主題”という意味のsubjectもダメなのか)、
被験者という日本語ではない。
被験者は実験者に対する用語として、つまり日本語レベルの関係内で誕生したのであり、
subjestの直訳ではない。
つまりsubjestという単語とは意訳という間接的つながりしかない。
だから、「被験者」という単語に不適切性がない限り、
被験者に対応する英語が変更されただけ、とすれば問題はないはず。
逆の例として、「精神分裂病」という表現はきついので「統合失調症」に日本語は変更したが、
schizophrenia(英語)という原語はそのまま。
ただ、いままで被験者の一員のフリをした実験者側の人間を、「サクラ」と称していたが、
これを「実験協力者」と称することにした方針は適切だと思う。
サクラは学術用語ではなく、的屋・香具師世界の符牒だから。
ちなみに読者の中には、ここで使った”的屋・香具師”の語に反応したい人もいるだろう。
ただ一般論的に言わせてもらうと、タリバン的な過剰で教条主義的な”正義感”に対してさえ、
その”正義”の名に屈服同調する風潮(その一翼となって”正義”をふりかざす輩)には危惧の念を禁じえない。
安直な”正義”ほど、怪しげで危険なものはないのだ。
「文句をつけられるのが嫌だから従う」という事なかれ主義は、
その”正義”を増長させるだけ。
ちなみに心理学の世界では「障害」はそのまま使われている。
そこで編集側から指示されたのは、編集の方針として、
被験者という語を「実験対象者」に変更すること。
私自身は原稿にその単語を使わなかったので影響はないが、釈然としないものが残る。
なぜ「被験者」は使えないのだろう。
そのからくりはこうだ。
被験者は訳語で、その原語はsubject。
この原語は歴史的に「臣下」という意味があり、実験者の下位者というニュアンスがあるため、
アメリカで控えることになった。
それを受けたということ。
つまり、使用がふさわしくないのは、subjectという英語であって
(”主観”とか”主題”という意味のsubjectもダメなのか)、
被験者という日本語ではない。
被験者は実験者に対する用語として、つまり日本語レベルの関係内で誕生したのであり、
subjestの直訳ではない。
つまりsubjestという単語とは意訳という間接的つながりしかない。
だから、「被験者」という単語に不適切性がない限り、
被験者に対応する英語が変更されただけ、とすれば問題はないはず。
逆の例として、「精神分裂病」という表現はきついので「統合失調症」に日本語は変更したが、
schizophrenia(英語)という原語はそのまま。
ただ、いままで被験者の一員のフリをした実験者側の人間を、「サクラ」と称していたが、
これを「実験協力者」と称することにした方針は適切だと思う。
サクラは学術用語ではなく、的屋・香具師世界の符牒だから。
ちなみに読者の中には、ここで使った”的屋・香具師”の語に反応したい人もいるだろう。
ただ一般論的に言わせてもらうと、タリバン的な過剰で教条主義的な”正義感”に対してさえ、
その”正義”の名に屈服同調する風潮(その一翼となって”正義”をふりかざす輩)には危惧の念を禁じえない。
安直な”正義”ほど、怪しげで危険なものはないのだ。
「文句をつけられるのが嫌だから従う」という事なかれ主義は、
その”正義”を増長させるだけ。
ちなみに心理学の世界では「障害」はそのまま使われている。