今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

私にとっての構造主義

2009年11月04日 | 雑感
私が2番目に入った大学で最初に接近したのは文化人類学。
その頃はレヴィ=ストロースが来日して、ネコも杓子も構造主義だった。

結果、私は、個々の人間にまったく興味を示さない文化人類学が大嫌いになり、
心理学に転向した。
われわれが今まで思っていた実体は単なる関係項で、関係こそが真の実体であるとする構造主義は、
心理学の出発点である「自我」の存在を否定する。
この関係主義的思考は実は確固とした自我にこだわらない日本人には受入れられやすい
(たとえば和辻哲郎の倫理学)。

だがその心理学は行動主義全盛というもっと悲惨な状況だった。
行動主義か精神分析かという低次元の選択肢しかなかった心理学から
思想的におさらばして、現象学に進んだ。

ところが、ビンスワンガーなどの精神医学的現象学のインチキ性
(恣意的意味づけ)に失望。

意味現象の源泉をソシュールの記号学に求め、バルトの軽快な分析に酔った。
その流れで”構造”という見えない枠組みを見透かすことの快感を知った。
ただそれを心理学にはまったく使わず(ラカンの思弁には興味なし)、
作法の分析に使った。

私が「作法学」という、既存の歴史民俗学的作法研究とは相異なる発想の学を作れたのも、
構造論的思考を学んだからだ
(直接にはグレマスの『構造意味論』を応用)。

というわけで、「構造主義」は、用途を限定すれば、充分使えると確信している。
大切なのは、構造”主義”という(実体を方法論的に無視しているだけなのに、
無視したものを「存在しない」と思い誤る非科学的)イデオロギーではなく、
構造的思考という(可視と不可視=実体と非実体のネガポジ関係を逆転してみる)
「1つのものの見方」だ。

…なんか「ニューアカ」っぽい衒学的文章になってしまった。