福田アジオ『歴史探索の手法 -岩船地蔵を追って』(ちくま新書、2006年5月)
著者は長年、岩船地蔵という小舟に乗ったお地蔵さんの調査を重ねるうちに、享保四年からごく短期間のあいだに関東地方から中部地方にかけて、農村から農村へと岩船地蔵の信仰が伝播し、信仰が伝わった各村に地蔵像が建てられたこと、そして江戸時代にはある時に突如として特定の神仏の信仰や神社仏閣へのお参りが流行するという現象がしばしば見られるが、岩船地蔵も享保年間のごく一時期に流行した「流行神仏」の一種であったことを明らかにします。
岩船地蔵が流行しはじめた享保四年という年に何かあったことは確かなんでしょうが、岩船地蔵が流行するようになった事情は、享保年間には米の不作が続いており、社会的不安が広がっていたからだろうというような曖昧な理由しか見出せず、結局のところ分からずじまいとなります。
地蔵像そのものや、岩船地蔵に関わる文書の調査といった歴史学からのアプローチが行き詰まったなら、民俗学的なアプローチはどうだということで、各地の岩船地蔵にまつわる民話を調べてみたところ、それらの民話には享保四年の享の字すら見出せず、岩船地蔵の化身が農作業に苦しむ農民を助けたとか、洪水に苦しむ村の人々が地蔵を拝むようになったら洪水がおきなくなったというような由来話ばかりで、しかもこれらは享保年間よりずっと後になってから作られたものです。
しかし現在では、岩船地蔵を信仰する人々にとっては後からできた由来話の方が大きな意味を持っており、岩船地蔵が享保四年の前後に建てられたということ自体知られていないという状況になっています。そこで著者は歴史学と民俗学の二つの手法が組み立てる歴史像は必ずしも一致しないのだという重大な結論をくだし、享保四年の謎は将来の課題として持ち越されることとなります。
この結論自体には私も色々考えさせられるものがありましたが、この本のオビに「実在の地蔵、文字資料をたどっていくと、江戸時代のある年の驚くべき事実が明らかに。」というコピーがあるのはどうかと思います。これだと、この本の中で享保四年の謎が綺麗に解き明かされているような印象を受けますよね。これはいくらなんでもどうかと…… かくいう私も、「岩船地蔵の流行の陰にはどんな大事件が隠されていたのか!?」と、オビのコピーに騙されてこの本を購入したクチなんですが……(^^;)
著者は長年、岩船地蔵という小舟に乗ったお地蔵さんの調査を重ねるうちに、享保四年からごく短期間のあいだに関東地方から中部地方にかけて、農村から農村へと岩船地蔵の信仰が伝播し、信仰が伝わった各村に地蔵像が建てられたこと、そして江戸時代にはある時に突如として特定の神仏の信仰や神社仏閣へのお参りが流行するという現象がしばしば見られるが、岩船地蔵も享保年間のごく一時期に流行した「流行神仏」の一種であったことを明らかにします。
岩船地蔵が流行しはじめた享保四年という年に何かあったことは確かなんでしょうが、岩船地蔵が流行するようになった事情は、享保年間には米の不作が続いており、社会的不安が広がっていたからだろうというような曖昧な理由しか見出せず、結局のところ分からずじまいとなります。
地蔵像そのものや、岩船地蔵に関わる文書の調査といった歴史学からのアプローチが行き詰まったなら、民俗学的なアプローチはどうだということで、各地の岩船地蔵にまつわる民話を調べてみたところ、それらの民話には享保四年の享の字すら見出せず、岩船地蔵の化身が農作業に苦しむ農民を助けたとか、洪水に苦しむ村の人々が地蔵を拝むようになったら洪水がおきなくなったというような由来話ばかりで、しかもこれらは享保年間よりずっと後になってから作られたものです。
しかし現在では、岩船地蔵を信仰する人々にとっては後からできた由来話の方が大きな意味を持っており、岩船地蔵が享保四年の前後に建てられたということ自体知られていないという状況になっています。そこで著者は歴史学と民俗学の二つの手法が組み立てる歴史像は必ずしも一致しないのだという重大な結論をくだし、享保四年の謎は将来の課題として持ち越されることとなります。
この結論自体には私も色々考えさせられるものがありましたが、この本のオビに「実在の地蔵、文字資料をたどっていくと、江戸時代のある年の驚くべき事実が明らかに。」というコピーがあるのはどうかと思います。これだと、この本の中で享保四年の謎が綺麗に解き明かされているような印象を受けますよね。これはいくらなんでもどうかと…… かくいう私も、「岩船地蔵の流行の陰にはどんな大事件が隠されていたのか!?」と、オビのコピーに騙されてこの本を購入したクチなんですが……(^^;)