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無意識日記
宇多田光 word:i_
 



Wild Lifeで演奏されていない楽曲でセットリストを組んでみた。



01. This Is Love
02. Movin' On Without You
03. 甘いワナ~Paint It Black~
04. Distance
05. 幸せになろう
06. Give Me A Reason
07. Eternally
08. Addicted To You
09. Heart Station
10. For You
11. Deep River
12. Be My Last
13. WINGS
14. Gentle Beast Interlude
15. Celebrate
16. One Night Magic
17. Kiss & Cry
18. Another Chance
19. 嘘みたいなI Love You
20. Making Love
21. Keep Trying
Encore
22. Fight The Blues
23. Can You Keep A Secret
24. Wait & See~リスク~



…凄い。何これ。Wild Lifeのセットリストに勝るとも劣らないどころか、本編後半の盛り上がりときたら。目に浮かぶようだ。これだけの曲を残しているとは。想像はしていたけど実際に並べてみると本当に凄かった。なんという作曲力か。


しかもアナタ、この上UtaDAの2枚のアルバムからもうひとコンサート開けるのですよ。全く並外れたアーティストパワーである。

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光の曲の中には、ただリリースされるだけでなく、曲自体がドラマティックな変遷を辿るものがある。2つのミックス両方を前面に押し出したAddicted To You、アルバムに収録される頃にはリミックスされていたはやとちり、1stのInterludeから発展して楽曲になった言葉にならない気持ち、そして2ndアルバムのタイトル曲でありながらかたちをかえて3rdアルバムの要の位置に配される事になったDISTANCE&FINAL DISTANCE。日本語の光と英語のSimple And Clean。そのS&Cとメロディーを共有する嘘みたいなI Love You。同じくメロディーを共有しあったHotel LobbyとKiss & Cry。そして、先にBallard Versionが発表されるという変則的な展開を見せたFlavor Of Life。宇多田ヒカル史上最強のEPを構成したPrisoner Of Love & its Quiet Version。自らのデビュー曲の名をもう一度持ち出したAutomatic Part 2。これだけある。ひとつの曲を書きっ放しにするだけでなく、またこだわり抜いて新しく生まれ変わらせる。光の、妥協しない強靭な精神力の賜物といえる。

しかし、中でも最もドラマティックに変化したのは、いや、今でも変化・進化し続けている曲といえばPassionだろう。Single VersionにAfter The Battle、Opening VersionにOrchestral Version、更には英語版のSanctuaryがOpeningとEndingの2種類ある。その上、LIVE Versionが3種類、United VersionとIn The Flesh FusionとWild Life Passionも存在するのだ。何とその数現時点で9種類。フルアルバムが構成できる数である。

LIVEバージョンは他の曲にもあるじゃないかと指摘されるかもしれない。しかしそれもせいぜい編曲面での差異である。PassionのLIVEバージョンを個別に数え上げる必要があるのはなぜかといえば、総て曲構成から組み立て直しているからだ。

United Versionは、静かに、まるでafter the battleのように始まる。メロディーをひとまとまり唄い上げたあとそこからSingle Versionに突入する。いわば、after the battleとSingle VersionのUnitedである。

In The Flesh Fusionは、日本語で歌い始めて英語のSanctuaryに繋げてゆく。Passion(Single Version)とSanctuary(Orening)の融合、Fusionである。

Wild Life Passionは中間部のヘヴィパートを経由しつつ、年賀状パートもきっちり歌う、Single VersionとOpening Versionの合体だ。

3通り、総て異なる構成なのだ。

LIVEでの位置付けも非常に重要だ。UTADA UNITED 2006ではオープニングを飾っているし、Wild Lifeでは本編20曲中Eclipseの次の10曲目、いわば中興の祖である。In The Flesh 2010では日本語曲と英語曲の両方を唄うUtaDAのLIVE Styleの象徴的楽曲となった。実際、今日は日本語の曲も唄いますといって最初に唄ったのがPassionだったのだから。

この扱いをみると、今のところ宇多田ヒカル&Utadaのアーティスト活動の大きな流れの中で中心となっている楽曲はこのPassion/Sanctuaryであるという事ができるだろう。この進化は一旦ここで区切りとなるか、復帰後もまた某かの変化が見られるのか。光のアーティストシップのパースペクティヴは、この曲がどうなっていくかでかなり把握する事が出来るようになるのではないだろうか。

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今まででベストのライブはWild Lifeである。

と言い切ってしまいたくなるのは、選曲が最も素晴らしいからだ。6枚のアルバムからの選りすぐりなのだから。これが、キャリアを積み重ねる事の強みである。

幾らか様々なコンサートを見てきたが、昔書いたように「勝負は会場に着く前に半分決まっている」のだ。どれだけ聴衆に馴染み深い楽曲を携えているか。少々演奏が素晴らしかろうがサウンドがクリアだろうが、"皆が知っている"事にはかなわない。

人がいちどきに頭に入れられる情報量には限りがある。その為、多くの曲を認知してもらうには必ず膨大な時間が必要になる。コンサートを成功させ、よりよいものにしていくには、何年も、何十年もかけて聴衆と記憶を共有していかなくてはならない。

その意味で、長いアーティスト活動休止期間は、2つの効果が考えられる。ひとつは、忘れられる事。毎日大量の情報に晒されている我々は、目の前に現れるものへの対応に手一杯で、現れないものに思いを馳せる時間はなかなかとれない。そうこうしているうちに存在が忘れられていき、コンサートでイントロが流れた時に「はて?聴いたことあけど?」と一瞬出遅れるようになる。

もうひとつは、物足りなくなる事。渇望の喚起、いわば感情の換気である。毎年のようにコンサートを開いているとルーティンワークになっていき、新鮮味が薄れ、どの公演がどんなだったかの区別がつかなくなってゆく。それを防ぐ為にも、たまには長い雲隠れをし、ひとの空腹感を醸成できるのも、休止期間の特徴だろう。

ヒカルの場合、このバランスが妙である。一部の曲は国民的スタンダードになってしまっていて、例えばこれから何年インターバルがあいていようとFirst Loveのイントロで人が盛り上がらない事はないだろう。忘れられるのも、なかなか難しい。

渇望感についてだが、これはもう今までも観たいのに観れなかった人を沢山輩出しているので、なんというか休むまでもない。これ以上引っ張るのはサディスティックですらある。コンサートをよりよくする為に必要、というレベルでは最早ない。

なんというか、宇多田ヒカルは知名度がありすぎて、あまり一般的な常識はあてはまらない。自ら築き上げきた名曲群と、圧倒的な認知度。コンサートをグレイトに仕上げる為の要素は揃いすぎる程揃っている。

もし可能なら、復帰後数年経過した時に「復帰後のみの選曲」でライブをやってみてもらってもいいかもしれないが、やはり旧曲をやった方が盛り上がるだろう。その意味で、選曲はどんどんまだまだよくなっていくだろうが、選曲の自由度は下がってゆく。選択肢となる曲数は増えていくのに、である。妙なジレンマだなぁもう。

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光が帰ってきた時の"音楽的準備"は如何程のものだろうか。

有り余るようなアイデアを携えて次から次へと曲を繰り出してくるか、それとも空っぽの真っ白けで茫漠自失な状態からスタートするか。意外に思われるかもしれないが、よい曲が出来るのは多分後者の状態だ。

アイデアは、蓄積するとよくない。確かに、とっておいたアイデアが後から花開くのはよくある事だがそれは最初のチャンスを逃している事と同義である。そこを一旦逃すと、次に陽の目をみるのは2年後だったり5年後だったりする。アイデアは生き物であって、足がとてつもなく早い。というか、我々はそれを常に一瞬しか通れないのである。その一瞬を掴めるか否か。作曲というのはこうみえてアクションゲームなのだ。

光に限らず、名曲が生まれる時はスムーズだ。5日だ2時間だ10分だと様々なパターンがあるが、要は掴んで離さなかったものの勝ちである。女神の前髪だ。幾ら理論を知っていようが楽器が巧みに弾けようが、それは直接関係ない。鼻歌が歌えればいいのだから。

だから、曲は作れる時は驚く程作れる。全盛期の小室哲哉のように質量共に圧倒する事が可能であり、書けなくなると全く書けない。

光の場合は、人間活動中であるといっても曲作りを止めている訳ではない。何を好き好んでIvoryIIを長時間かけてインストールする必要があるか。しかし、ここでアイデアを"ストック"してしまうと、作曲家としての勘が鈍る虞がある。未来に保証なんてない方がいいのだ。

こんな事は釈迦に説法だろうと分かっていても書きたくなってしまうのは、今の光から出ているアイデアの行方が気になるからだ。我々はもしかしたら、今の時期に光が書く曲を一度も聴く事がないかもしれない。

何しろ、いちばん効果的なのは貯めまくって棄てる事だ。何も守ってくれるものがない状態に自分を置く。それが出来る人間は強い。集中力が違う。

ただ一方で光は、手をつけたアイデアを必ず完成させる事でも有名である(コアコアなファンの間では)。その音楽の慈しみっぷりが、ひたすら音楽に愛される所以でもある。

二つの事柄は明らかに矛盾している。棄てる事と絶対に見捨てない事。この矛盾を止揚できる者がクリエイターなのだろう。

よく焦らないものだ、と思う。これで引退するならわかるのだが、無時限とはいえいつかは帰ってくるのだから同じように自転車が漕げるかどうか、不安にならないのだろうか。

今まで、どんな過酷な状況下でも必ず名曲を残してきた自信と自負が確固としてないと、こうやって離れる事など出来ない。或いは、こいつはそうやって自分の中に不安が生まれるのさえ楽しんでしまおうと思っているのだろうか。自信と過信の縁取り、その危うさ。神経が磨り減るような細かな細かな違いを乗り越えてゆく、その生き方を、心底羨ましく思う。

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"年齢なんてただの数字"とは言うけれど、本当に何の関係もないのならわざわざこんな事口に出して言う必要もないわけで。過度に気にし過ぎたらいかんよ、という意味だと捉えるのが妥当な所だ。

光はデビュー当時「15歳なのに」と言われまくった。なのにあんなに歌が上手い、あんな詞や曲が書ける、と。

だが歴史を紐解いてみると、歌が上手いヤツはもう最初っから上手いのである。それこそ、年齢なんて関係ない。スティーヴィー・ワンダーもマイケル・ジャクソンも、ローティーンの頃から才能を発揮していた。

寧ろ、年齢を重ねれば歌が上手くなるという幻想の方が間違いだ。確かに、声楽科に進むような人々は幼い頃から進級していくに従って技術と体力を習得していくだろうが、それはひとつには"教えられる範囲で"でありまた"そもそも上手くないと次のステージに進めない"からでもある。半分は"ゲームをする前から勝負は決まっている"のだ。

なぜこうなるかといえば、能動的な能力は時間をかけて習得していかねばならないのに対し、受動的な能力は幼少時に確立してしまえる確率が高いからだ。要は"耳のよさ"である。

ちょっと毛色の違う例を出してみる。福原愛は3歳の頃から天才少女として囃されてきたが、彼女が最初から特別だったのは"眼"である。まだ台から顔だけが出ているような頃の試合を見た事があるが、リーチが足りない為に届かない球にも眼だけはしっかり追い付いていた。後年なんとか身長が伸び(それでもちっちゃいんだけど)今や世界Top10ランカーだが、眼に関していえばそれはもうちっちゃな頃から世界トップクラスだったのだ。

ミュージシャンも同じで、まず何よりも大切なのは、能動的な表現技術ではなく受動的な、"いい音"を細やかに聞き分ける耳なのであって、これは年齢と関係がない、というか寧ろ若い頃の方が瑞々しい。スポーツ選手が"まず眼から衰える"とよくいうが、これはカラダの各部より早く眼が衰えるというより、どこかが衰えるとして、眼の影響が最も顕著に出る、という意味ではあるだろうけども。

光の場合も、小さい頃から耳のよさが格別で、そこに母親譲りの"喉をコントロールする能力"が加わった為、すぐに歌の実力を発揮できた。クラシックの声楽家は体力的に成熟するまでは完成とまではいかないが、ソウルシンガーの場合マイクロフォンの存在が前提な為、体力的な壁はさほど高くない。細かな節回しを聞き分けれる能力の方が大事で、これは耳さえよければ経験に大きく依拠せずとも獲得可能なのである。

裏を返せば、これから30台を迎える光の耳は、物理的機構として悪くなる可能性はあっても飛躍的によくなる可能性は殆どないだろう。実際、これ位の年齢から高域(10kHz台)の音は聞き取り難くなってくる。猫よけ超音波まで捉えていた光の耳も、そんな風に煩わしされる心配がなくなっていくかもしれない。

そこをこれまでの経験でどうカバーしていくか。シンガーとしての実力は、耳が衰えてからが真骨頂といえるのではないだろうか。

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もう4年半も前の事なのでどうでもいいっちゃいいんだが、やっぱり気になる。離婚した頃から、いやその前、恐らく光が「私達もうダメだろうなぁ」と悟った頃から、光の発言が控えめになっていった風な印象があるのだ。

具体的に言えば、なんだろう、希望を語らなくなった気がする。若気の至りといってしまえばそれまでだが、例えば米国の中東侵攻に対する強い反対表明のような口調が影を潜めているというか。従軍慰安婦問題に触れたりとその後も危なっかしいのには変わりないのだが、こう、他者に発破をかける事が少なくなったというか。

なんというか、矢吹丈が力石徹と死別した後暫く相手のテンプル(temple;こめかみ)をパンチ出来なくなったような、そんな感じを思い出すのだ。

それは、結婚して離婚した、という個人的なプロセスそのものより、結婚も離婚も世間に発表して注目を浴びまくった事に起因しているように思われる。男女が出会い、愛を育み、そして道を分かつ、という過程自体は今までも光は経験しているだろう。Automatic, Movin' On Without You, First Loveの3部作は、その経験を歌詞に取り入れたものだ。今回だけ別という事が、あるだろうか。

ここは、確かに難しい。結婚した位だから特別な恋愛だったのか、それとも今までとさほど変わらなかったのか。BLUEにおける『もう恋愛なんてしたくない』という叫びは、どこまで光の本音だったのか。

『もう何年前の話だい とらわれたままだね』
『あんたに何がわかるんだい』

………うーん。

Message from Hikkiを見てまず私が驚き、そして羨み妬み最も愛した部分は光が思いを「臆せず口に出している」事だった。誰もが思っていてもなかなか外に向かって発言できないような事を、何百万人という好奇の目に晒されながら軽やかに書き綴る度胸、勇気。こりゃ凄い、敵わないと思った。

今も、そりゃ普通からすりゃ結構思い切った事も言うケースもあるにはあるが、随分と口が重くなった。大人になって自分の発言の影響力を自覚し、責任感を…なんてのは既に15の時に備わっていた。光は最初っから責任をもって自分の発言を綴ってきていたのだ。「わかってなかった」とはとても思えない。

この"口の重くなった"理由を前の結婚離婚に求めるのは確かに無理がある。それ以降も順調に(かどうかは知らないが)恋愛生活を重ねてきているのだから。それでもやはり、口は重いままだ。何か、他に理由があるのだろうか。あの勢いよく飛び出してくる周りをヒヤヒヤさせるような、そしてだからこそ痛快極まりないああいった発言の数々は、2003年までの限定的なものだったのだろうか。

大人になったんだねぇ、で片付けたくない気持ちが、僕の心にはなぜかある。別に問題発言を面白がる趣味はない。平和なら平和な方がいい。ただ、長いメッセージを書いてる時のあの伝わってくる"楽しさ"みたいなものは、近年やはり薄れていた気がする。かといって、メッセがつまらなくなった訳じゃないから自分でも奇妙な感情だなと思うが、恐らく、要するに、「今ならもっと面白い事書けんじゃね?」と光に期待している訳か。まぁそれならひとに期待をかける前に自分が毎日面白い事を書かないと…ってこういう事を考えちゃうのが、きっと余計なんですねぇ。もっとお互い肩の荷をおろして気楽に発言する方が、いいんぢゃねーか。

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ネット世界の特質である"自由"をどれ位犠牲にすべきか。まだまだ始まったばかりの営みで何かを考えるのは容易ではないが、ひろゆきが似た事を言っていたが「Twitterでひとの画像を流用しながら他人の著作権肖像権侵害を指摘する」可笑しさみたいなものが普通になりつつあるのをみるにつけ、確かにこれなら実社会(情報より物質主体で営まれてる方という意味)と同様に何らかの法制度がないと危ういのかな、とも思えてくる。

といっても、国際網であるインターネットに法を適用するには最終的には地球規模の法体系が必要とされ、これはとても現実的ではない。法の有効性は実力行使の一元管理("暴力装置"って奴だね)が必須であり、その為には超強力な国際警察(このたび声優が交代するとっつぁんの所属するような所)を設置せねばならないが、果たしてそんか事が可能かどうか。

そもそも、ネット上のトラブルで暴力装置が発動するようなものがそうそうあるのだろうか。物質の世界では、ここにあるものがそっちにあるようにする為にはここからなくならなければならない。"とりあい"の世界である。が、情報はそっちにあるためにここからなくなる必要はない。ここにあるものはそっちにもありえるしどこにもありえる。問題なのは、ここからそっちに"写す"ときに対価を求めるかどうかだ。

これに関しては、特に日本ではガラパゴス携帯が主流だった為、携帯電話の特定性の高さを利用した商いが成り立った。この、ガラケー世代で最も儲けたコンテンツのひとつが、Flavor Of Lifeであろう。

裏を返せば、早くもガラケーからスマートフォンに主流を移す今となっては、ああいう儲け方はもう二度と出来ないかもしれないという事だ。ネットに関する強力な国際法体系が整備されない限り。

つまり、宇多田ヒカルはCD世代において(ひとつのコンテンツで)最も沢山の枚数を売り、更にガラケー世代の配信においても最も沢山売ったアーティストになった訳である。

次の世代のシステム、メディアがどんなものになるかはわからない。まずは、こけでも何度も指摘しているように、100MBクラスの無線ブロードバンドが安価で整備されるか否かが鍵となる。これは各メーカーの頑張りというより行政府の意向の問題になっているので歴史的な必然が成就する期待は余りない。それだけ恣意的なのである。

こういう移行期にヒカルが居ないのは、勿論一義的にはただの偶然であるが、歴史的にみれば後に必然的であったようにみえるようになるかもしれない。果たして、3世代メディアにわたって最高売上が達成できるか。これは日本という枠組みにおいての話なので、その枠自体の存続も含め、どういう展開が待っているかは予測がつかない。

いずれにせよ"演奏会"という形態は、動画配信がいくら配備されようがなくならないだろうから、TheBeatlesのようにライブ活動から引退しないように、出来るだけ応援したい所存では、あります。そこは、ずっと変わりそうもない。

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「自分のケツは自分で拭く」、だったかWildLifeDVD/BDで光は"自分の始末は自分でつける"事が出来るようにと語っていた。それにしても男前な台詞だな、光の中のおっさんが火を噴いたな、と思ったが彼女の場合老人も子供も男も女も総て内面に揃えている(だから幅広い層から支持され得る)のだから、そのうちのおっさんパートが出てきただけだな。まぁそれはさておき。

でだ。まぁ恐らくそこんところは人間活動を通じてしっかり身に付けてくる事だろう。ここでは"更にその先"を提案しておきたい。「自分で蒔いた種は自分で刈り取る」だ。

ケツを拭くのと異なる事は、蒔いた種は必ずしも自分でそのあと面倒をみて育てる訳ではない、という点だ。種蒔きだけして後は放置、いつのまにか育っていたという事もありうる。ケツを拭くのは自分がうんこしたからで(お食事中の人すみません)、原因もハッキリしているから自分の責任を自分でとる事に躊躇いはないが、種蒔きの場合はちょっと違う。

蒔いた種は、自分の当初の意図どおりに育つとは限らないのだ。ナスを育ていたつもりがトマトの実をつけるかもしれない。

自分で蒔いた種は自分で刈り取る、とはそんな自らの意図を超えて巻き起こる事象に対してすら責任をもつ、という事なので、並々ならぬ決意と実力が必要である。

ケツ拭きは、バラ撒いちゃった種をそのまま漏れなく拾い直す感じ、刈り取るのはそこに「余所で育ってから」というニュアンスが加わる。

宇多田ヒカルは、今まで多くの人に感動と影響を与えてきた。なかには、コンサート中にプロポーズした人や、子供にひかると名付けた人まである。有名になるって大変である。

この影響力を考えると、10年や20年時間が経過したところで「宇多田ヒカルの歌が聴きたい」という人間は絶滅しない。寧ろ伝説が肥大化して増えている虞すらあるのだ。もはやこれは取り返しがつかない。

蒔いた種は既に多すぎ、そこから育った草花は刈り取るには更に手に負えない。もうヒカルの責任云々という次元ではない。

そんな事にかかずらっていると、光は宇多田光としての人生を総て犠牲にする事になる。それでも足りないのだ。余りそちらの道に踏み込むのは、いい方策とはいえないだろう。

それでも、出来る範囲でいいから、歌い続けてくれたらな、と思う。デビューしてからそろそろ13年、これだけ長いと、蒔いた種の育ち方は尋常じゃない。様々な場所様々な時間に、ヒカルの歌は流れてきたのだ。みんなの思い出と結びついて、ひとつの歌の価値はどこまでも大きくなっていく。

今日、私は20年来待ち望んだ歌声にとうとう会ってきた。ひとりの音楽家について数千回のコラムを書いてしまう位にこの分野に興味を持てたのも、偏にその歌声と楽曲に魅了されて、この道に足を踏み込んでしまったからだ。観る前はそうなるとは思ってなかったが、その歌手と作曲者が仲良く肩を寄せ合っているのをみてどうにも涙が止まらなかった。自分が泣くと予想していない時に泣くと「こんな時にどんな顔したらいいかわからないわ」になって顔が歪んで恥ずかしくなったので取り敢えず照れ笑いしておいた。そうか、「笑えばいいと思うよ」なのか。

兎に角、思い出と結びついた音楽というのは送り手にとっても受け手にとっても、想像以上に強力なのだ。それはとても侮れないなと痛感した1日だった。

もしかしたら、ヒカルがデビュー20年目にして初めてナマのコンサートに行けるようになる人も在るかもしれない。人の人生は様々なのだ。そういう人が生きている中で、ヒカルが「もう歌わない」となっていたら、と思うと先程の「宇多田光の人生を生きる事」への賛同の気持ちが、どうしても揺らいでしまう。

やってみたら、簡単な事なのだ。ステージに立ってただ唄うだけである。別に初めてやる事じゃないし、ある程度はできるだろう。

喩えるなら、田舎に里帰りするようなものだ。そんなのいつだって出来る簡単な事だ。それだけで、親を喜ばせる事ができる。やればいいじゃないか。

でも、その為に光の生活、光の人生が犠牲になるのもなぁとまた悩む。結論は今夜は出ない。しかし、20年越しに歌声を聴かせる事の威力は、当人も予想できなかったほど強力な出来事なのだ。せっかくなので、それだけは書いておきたかった。20年経って、まだ歌っててもいいと思えるのなら、歌っていた方がいい。まだ歴史は13年。これからも先は長いよ。

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UTUBEの経過。First LoveとGoodbye Happinessが連日10000回超えで1位と2位を分け合っている。最初は新曲だからという事で回数を伸ばしていたように思っていたが、ここまで長期的に回数が高止まりしている事を考えると、もしかしたら"新しい宇多田ヒカルのリードナンバー"になりつつあるのかもしれない、と考えたくなる。

しかし、これも即断は禁物。年単位であっても、UTUBEにおいてはやや新しめの曲がまず回数を伸ばし、あとから旧曲が追い掛けてくるという展開を見せているからだ。

例えば、Top10に居たHeart Stationも光に追い抜かれ、さらにはWait & See ~リスク~も最近の回数の伸びはHeart Stationよりも上だ。近いうちに累計でも追い抜くだろう。何だかんだで、相対的に最近の曲の方が最初は注目を浴びていたのだ。

しかし、そうも言ってられないのがPrisoner Of Loveだ。累計では依然GBHを除けば唯一の300万回超え、今のデイリーではFirst LoveとGBHの二強にやや水をあけらるながらも食い下がっている感じだ。このままのペースで推移してもFirst Loveが追いつく為には更にまる一年はかかる計算になりそうだ。しかも、First Loveと双璧を成す(と私が勝手に思っていた、かな今となっては)Flavor Of Lifeよりも現時点でのデイリー数値が上なのだ。タイトルが相互いに韻を踏んでいたり、同じくドラマの主題歌として登場したPoLは、もともとFoLの姉妹曲というイメージを持っていたのだが、今や寧ろあとから登場した妹分の方が人気を集めている。PV自体の面白味の差もあるだろうが、こういう"二番煎じ"の方がより支持されるってとんでもないアーティストパワーである。

一方、ちょっといい解釈の思いつかない現象もある。この秋、SAKURAドロップスが回数を伸ばしているのだ。このまま行くと近いうちに累計でCOLORSを追い抜く計算だ。シングルの年間ヒットという事では1位のキャンシー、2位のオートマとトラベ、3位のカラーズが四大ヒットなのだが、SAKURAは現在デイリーにおいてこの4曲より上の第5位に位置づけられている。春から夏にかけてこの人気ならわかるのだが。今のところ原因は謎である。いや勿論曲のよさに較べて一般的には4大ヒットより有名でないのが再発見されつつある、というのなら喜ばない限りなんですが。

それにしても、面白いチャートである。シングル売上枚数やダウンロードユニット数だけではわからないある種の人気バロメータとして独特の風合いがある。まだまだ続けて注視していきたいが、なかなか"1日も欠かさずに正確に集計"が、できないんだよねぇ…。なのでこれはデータの解析というより、私の眺めた風景だという風に解釈しておいてください。

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来月だっけ、松本人志のMHKがNHKで放送される。昨年の同番組を見て、「うまい具合に芸が熟してきてるな~」と思った。昔のように爆笑はとりにこないが、何かしんみりとニヤリとクスリとさせるような匙加減。昔の笑いの取り方がど真ん中に100マイルの球を投げて空振りを取りに来ていたとするなら、今はストライクゾーンを掠めるようにスローカーブを投げて審判を唸らせるような、そんな違い。笑いとは何か、という"ふち"の部分を探り探り擽っているような感覚だ。

芸が熟す、とはどういう状態だろうか。シンプルにいえば、その人の芸の"型"と内容が1対1になる事である。やる事に過不足が殆どないのだ。その為、その付近の型不足や型過多、内容不足や内容過多がいったりきたりして人の心を擽るのである。はっきり言って、地味である。いちばん落ち着いた状態だから(とはいえ小さな揺らぎは上記の通り常にあるのだが)。

こうなる前に、人は型、形式と中身、内容の食い違い、ズレに常に葛藤を抱える事となる。俗に言う"青い"状況だ。芸に賭けるリビドーは内面に漲っているのだがその表現形式がみつからない。ひとから型を教わったり、自ら型を探り、編み出してみたり。そういった葛藤が実を結び、やがて熟すのである。

芸が熟したら、今度は枯れ始める。まぁ大体60~70歳を過ぎたあたりだろうか。瑞々しい内容、中身はもうなくなってしまっているが、自らが築き上げた"型"の威力で芸が成り立つ。ここらへんになってくると存在が怪物じみてくる。最早その人はそこから居なくなりかけ始めているのに型だけが踊り、作品を成す。言わば理想的な死んで行き方だ。松本人志も、あと20年くらい経てばそんな感じになっているかもしれない。映画となるとまた別だけど。

そんな一般論に思いを馳せていると、ふとヒカルの事が心配になる。彼女には決まった"型"がない。この道をずっと進み、歌が熟しきった後、どうやって枯れていくのだろうか。人は、その段階にくるまでの蓄積によって形式を構築するのだが、ヒカルの場合常に新しい型を生み出し続けているので、芸としてのありようが何か違う印象を受ける。老いた時に、何か依って立てる型はどこかにあるだろうか。

time will tellやPassionが教えてくれたのは、ヒカルにとって時間とは流れるものではなく、そこにただ"在る"ものだという事だ。ならば未来も過去と同じように見通せているのかというとまた違って、無限に分岐していき、時には離合集散する未来の時空のありようが"いちどきに"みえているのであって、それはどのような過去との結び付きで世間でいわれている"時の流れ"にまで落ち着くかはわからない。目の前のケーキの全容は今確かによく見えていて、今から人がこのうちのどれか、イチゴの部分かクリームの部分かスポンジの部分か、どれを最初に食べるかまではわからないが、その可能性自体はケーキ全体として把握している、そんな感じなのだ。

ヒカルは、老いた自分の未来も過去の幼い自分も、総動員して音楽に取り組んでいる。ケーキは食べ残すかもしれないが、イチゴが乗ってるかどうかといった事はわかる、見えているのだ。となると、熟す自分や枯れる自分も見えているに違いない。

ひょっとすると、ヒカルの芸は老いないのかもしれない。若々しく瑞々しいまま、このままひたすらに世界が広がっていくのかもしれない。未来の自分まで動員して曲を作るのであれば、ありうべき"型"は既に、もう目の前にあって、それに我々は気がついていないのかもしれない。或いは、このままずっと気がつかないままなら、永遠にヒカルの音楽は若々しいままで、もしかしたら僕らは、ヒカルの芸が熟れて枯れていったとしても、そのことにすら気がつかないかもしれない。それは幸せなことかもしれないが、ヒカルにとっては究極の孤独である。そんな未来まで、果たして光は見えているのだろうか。

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さてさて、レニークラヴィッツ、オリアンティ、フリー&チャドとバンドを組んだとして、どんなサウンドが相応しいだろうか。そういや前回キーボードはデレクシェリニアンがいいといったが、別にマット・ローディのまんまでもいいんじゃないかと考え直した。まぁ、どっちでもいいんだけど。

取り敢えず今のヒカルのレパートリーでいちばんロックしているのはShow Me Loveだ。クレジットをみるとそのマットが名を連ねているからまるまるヒカルの編曲という訳ではなさそうだが、オーソドックスなハードロックのツボを心得た作曲術は既に身についているようだ。

ただ、この曲は日本語の響きが独創的で、英語の歌詞を載せるとなると少し毛色の違うサウンドになるかもしれない。

ポイントは、どこまでポップかつキャッチーなメロディーを挟み込むかという事だ。Led Zeppelinをみればわかる通り、ハードロックとしてより激しく、よりエモーショナルにとアプローチを極めていけばいくほど、例えば調和のとれたハーモニーとかコーラスワークとかからは離れて、フィーリング主体の、感覚優先の演奏になってゆる。ヒカルがそれをどこまで許すのか。

Show Me Loveではエモーショナルなヴォーカルとキャッチーなコーラスワークがほぼ別個に、対比的に存在していて、なんとなく発想が"コアなソウルをチャート向けにアレンジしてみました"風な古典的な手法になっていた。基本的にはこの路線がいいが、歌えるギタリストを従えるからにはこの対比を男女で行えばかなりフックが強くなるように思う。

曲ごとに楽曲の主導権を両ギタリストで分け合うのがいい。AEROSMITHだってMR.BIGだって、コアなぶるーずロックとポップソングを交互に演奏して、それで成功している。オリアンティを迎えよう、と妄想するのは、レニーとヒカルの組み合わせだと濃い楽曲ばかりになって聴き手が置いてきぼりになるのではないかと考えるからだ。まぁ例えば、路線は全く異なるがWonder'Boutみたいな曲がずらっと並ぶだろうな、という話。

さてこれだけでは既存のグループと変わらない。ヒカルが歌うってだけで特別だけどそれはまぁ置くとして。ここでフリー&チャドのリズム隊である。ファンクの素養をもつ2人の軽快にも成り得る演奏が、ギターロックの暑苦しさを中和させるだろう。インタープレイからディストーションが消える。フュージョンというほどオサレ路線にならず、うら寂しい情感すら漂わせるレッチリのバラード系の楽曲の聴き易さがオーソドックスなハードロックと合体すれば、ヒカルに求められるとっつきやすさをロックバンドの枠組みの中で表現できるのではないか。

だいたいイメージはこんな感じであるが、これをプロデュースできる人間を見つけるのがたぶんいちばん難しい。ヒカルが更に年齢を重ねて貫禄が出来てきてからでいいかもしれないな…一応リーダーになるんだし。以上、妄想いったん終了っ。

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ヒカルが何らかのグループ・プロジェクトを組むとしたらどんなメンバーがいいだろうか。ここでソウル/R&B路線の3人組、とか言い始めてもi_はわからないので、素直にロックバンドを考る事にする。ソウル・グループはどなたか得意な方に任せよう。

シンガーソングライターがロックバンドを組むとなるとまず椎名林檎の東京事変が思い浮かぶ。ヒカルとほぼ同期だし。あんな感じでメンバーを集めてみよう…と思ったけど日本人知らないや。海外の人主体で。

素直に行くぞ。まずギタリストはレニー・クラヴィッツだろう。昔からヒカルのフェイヴァリットだし、スタイル的にもハマりそうだ。ギターだけでなくあの声もあるから、ヒカルと男女ダブルヴォーカルなんかもいい。

同じくギタリストでは、ex-POISON,ex-MR.BIGのリッチー・コッツェンもどうだろうか。MR.BIGに居た頃は、あのスーパーギターヒーローXのポール・ギルバートの書いたラインを難なく弾きこなし、一方であのエリック・マーティン(MR.VOCALISTという"日本人女性の曲を洋楽男性シンガーが唄ったら"企画でヒカルのFirst Loveを唄った人だ)の美声と見事なハーモニーを奏でてしまう(一部には"エリックよりリッチーの方がヴォーカリストとしては上だ"という意見もあるらしい)のだから申し分ない。レニーに断られるなら彼だろう。

ギタリストが1人だけだと面白くない。ここは全く毛色の違ったギターをもう1人入れよう。かのマイケル・ジャクソンのバンドに在籍していた女性ギタリスト、そう、オリアンティはどうだろうか。レニーやリッチーとは対極の、スムーズな技巧を(いい意味で)ひけらかすスタイルはよい対照を描くだろう。レニーやリッチーがブルーズ・ロック寄りの曲を書きそうなので、彼女にはどポップなアイディアを持ち寄って貰ってヒカルと2人で盛り上がって欲しい。男子ばっかより女子が居た方がヒカルもやりやすいだろうし。

さてリズム隊である。ベーシストはレッチリのフリーがいいだろう。実は彼は、あのThe Mars Voltaの1st Albumでも弾いている。ジョン・セオドアと強力タッグを組んだ彼なら、ヒカルも納得だろう。ただ、彼のラインは少々動きすぎるので、今までのヒカルのベースをシンプルに削ぎ落とす曲スタイルとは相容れないだろうが、まぁそこはロックバンドを組むのだから新しい局面を期待する。

となるとドラマーは、そのセオドアか、或いはフリーのパートナーであるチャドスミスか。チャドは今ちょうどチキンフットのアルバム(ex-VAN HALENのサミー・ヘイガーらとのオールスターバンド)がリリースになったばかりだが、ジョー・サトリアーニのギターを引き立てる微妙なニュアンスのプレイが実にいい。ここはリズム隊は、レッチリの2人をそのまま引っ張ってくるという事でいいかもしれない。

ヒカルがバンドを組む場合、ロックとはいえやはりキーボードは必要だ。しかし、上記の超豪華メンバーに更に鍵盤の魔術師的な人を入れてしまうと収拾がつかないので、ここはex-ALICE COOPER,ex-DREAM THEATERのデレク・シェリニアンに頼もう。彼なら高額のギャラさえ払えばどんなプレイだってしてくれる。夢劇場に居た位だから技術はトップクラスだし。そういやオリアンティってアリス・クーパーん所に居るんだっけ。あれ誰かと間違ってるかな。

さて、これだけ豪華なメンバーを集めてはてさてどんな音楽を奏でるか。考えるのが楽しそうだが時間が来たので今回はこの辺で、ちゃお~。

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朝からざねっちが天然ぶりを発揮している。理系なんだから惑星と衛星の用語の違い位把握しといてくれよ…せっかく昨日のエントリーで持ち上げておいたのになぁ。

とはいえ、惑星も衛星も、重力下の天体が楕円軌道を描く事自体は事実であって、言ってる事が間違ってる訳ではないことは、彼の名誉の為にも付言しておかなければならないだろう。

惑星とは恒星の周りを回る天体で、衛星は惑星の周りを回る天体、人間の運命を巡って輪り続けるのはピングドラムである。相対性理論ってなかなかブレイクしないよね。(バンド名ね)

なぜ惑星を惑星と呼び衛星を衛星と呼ぶか。字の通り惑星は"惑う星"、他の恒星たちが一定の軌道を天球面上で保持し続けるのに対して、同じ(太陽の)惑星である地球から他の惑星(水金火木土天海)を眺めた場合は軌道がフラフラしてまるで天球上を惑っている事からその名がついた。衛星は、これも字の通り、衛生が生命をまもる事であるように、衛兵がずっと人や建物を守り続けるように、頼りなく惑い続ける惑星をまもる役割だという事だ。

我々は宇多田ヒカルという恒星の周りを巡る惑星や衛星のようなものだ。そこからやって来る光を浴びる事で生きている。特に私なんかがその典型で、彼女の名前がなければこのブログのアクセス数は10分の1以下になるだろう。特に卑下している訳ではなく、地球が太陽の光を前提に生きているのと同様、僕(ら)も光の存在を前提に生きている、ただそれだけの事だ。いわば、今の時期はその光が遮られている日蝕、Eclipseの時だといえる。ここを過ぎれば、Passion溢れる歌がまた聞こえてくるだろう。

その日蝕を生み出した、光を遮る衛星、月の正体とはいったい何なのであろうか。恐らくそれは、普段は道に戸惑い続ける我々を、そっと観衛り続けている衛星のような存在だろう。それが、周期的に我々と光の間に立ちふさがって、光をほんの少しばかりの間遮るのだ。普段衛ってくれている存在が与える試練、Wild Lifeのテーマじゃないけれど、こういう時こそ自立的、自律的な行動、言動が求められるのだろうと思うのだった。

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このままだとIn The Flesh 2010の映像作品はお気に入りお蔵入りなのかなぁ、と不安になってきた。そんなに話し合う余地のある問題ではない。幾ら何でも完パケが出来ているのに一年も放置しないだろう。

行方の可能性としては2,3考えられる。単純に、担当者と連絡が取れないケースだ。メールで問い合わせをしても全然返事も梨の礫で、一向に話が進まない、という状態。或いは、同じような事だが、担当者が既に交代していて、現担当者にやる気がない場合。緊急の案件ではないのだからどんどん後回しになっていくのはある意味自然である。仮に配信限定としても、ひとつの作品を販売できる所まで漕ぎ着けるのは意外に面倒である。

そうでなければ、司法に話が行っている可能性が高い。こうなると何年掛かるかわからない。双方の主張に隔たりがあればある程、調停も和解も不調に終わり、泥沼化した裁判だけが残る。こういう時に"泥沼"って単語最初に使った奴ぁ誰なんだ出てきやがれ面白ぇじゃねえか。いやまそれはさておき。

今思い返してみると、Simple And CleanとSanctuaryをユニバーサルが"買い取った"のは何だったのかという懸念が生じてしまう。いや勿論、この3曲をUtaDAの曲として聴けた事は墓場まで持っていくべき人生において思い出深いエピソードであるのだ私にとっては。しかし、ディズニーという大きな相手に対しても交渉を成功させられた辣腕が、仮に今In The Flesh 2010 Videoの発売を阻んでいたとしたら皮肉な事である。昨日の友は今日の敵。ドラゴンボールの逆である。

勿論、実際はそうでなく、実はユニバーサル側もノリノリでとっくにGOサインは出してるんだけどLive Nationがゴネているという可能性だって有り得る。ただ、ゴネる理由を見つけ出すのは、ハッキリ行って難しい。何のメリットも考えつかない。

3つめ。何らかの理由で、光自身がリリースを控えるよう指示を出しているケースも、考えられる。ざねっちの普段のツイートが幾ら普段危なっかしいからといって、マネージャーの仕事に関する話についてはヘマはしないだろう。実父である為ついつい忘れられがちだが、日本一の女性ポップシンガーのプロデュースとマネージメントの両方をこなし続けて12年の猛者なのである。極めて優秀な人物である事は間違いない。

もし光が何らか関わっているとすれば、映像作品のリリース間隔だろうか。Wild Life DVDが発売されてまだ半年。人間活動の(現在のところでの見立ての)長さからすると、半年やそこらで次をリリースするよりは、と考えているケース。まぁそれなら素直に待てるんだが。

しかし、担当者不在や司法の場への突入となると、作品はずっと放置される可能性が高い。出来れば、光が帰ってくる前にリリースしておいて欲しいものである。

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光が復帰後音楽以外の活動の心構えは、特に用意しない事にしている。

ただでさえ、音楽だけでも予測不可能なのに、他の分野の事となるともうどこから手をつけていいかわからなくなるからだ。

久しぶりの大事なお知らせを読むと、「人間活動」と対比されている言葉は「アーティスト活動」である事がわかる。

たった今、宇多田ヒカルが人間活動に専念しているとすれば、それは逆に、戻る先としてアーティスト活動がしっかり在る事の裏返しに他ならない。

この2つを切り離すというか、両極としてみる態度をこうやって提示してきたからには、これは「今後もアーティスト活動を続けていきます」と宣言しているに等しいといえる。

そう考えると、この「人間活動」は結構な正念場でもある。こういったパースペクティヴを翻意するかどうか、最後の選択になるだろうからだ。

一通り人間活動に従事してみて、やっぱり戻るべき場所は(想定通り)アーティスト活動なんだという確信を深めれば、次の人間活動はそうそう必要ないだろう。次からは普通に「長期休暇」という体裁をとる筈である。

しかし、何事も、やってみなければわからない。人間活動を通じて、人間宇多田光に何かやるべき事が発見されたとすれば、大きく舵をそちらに向けるかもしれない。

そういう意味では、確かに不安な時期ではある。光の事を信用していないのではなく、光の決断を尊重しようとすると、どうしてもその不安と向き合わなければならない。

これは、僕らの中に、当たり前ながら、また光に歌を唄って欲しいという願望が在るからである。在る、というより、心がその願いで出来ているていった方がいいかもしれない。だから、この不安は、心自体がこわれる事への不安なのである。

他人の人生だ。気にしなければ、何でもない、そうできるなら、確かに容易い。信頼なり信用なりが裏切られる不安というより、培い組み上げてきた心のパズルを、もう一度バラバラにしていちから組み直し始めなければならない不安。そもそも、そんな難解なパズルにもう一度挑戦する気力は、果たしてこわれきった心に、まだ残っているのだろうか。

リスクは、大きい。他者の存在に依存した心の形成を経た者は、どうしても一蓮托生になる。自立していない精神から出る感情は、果たして愛情と呼べるかはわからない。然し、もうそうなっているのだ。そこから始める以外、仕方がない。

出来れば、願いが叶って欲しいし、恐らくそうはなるだろう。その事に対しては、不安はない。矛盾しているようだが。ありもしなさそうな事をわざわざ考えてみて、何を確認したかといえば、光を結局信じているということ。弱いからですよ。

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