無意識日記
宇多田光 word:i_
 



このままだとIn The Flesh 2010の映像作品はお気に入りお蔵入りなのかなぁ、と不安になってきた。そんなに話し合う余地のある問題ではない。幾ら何でも完パケが出来ているのに一年も放置しないだろう。

行方の可能性としては2,3考えられる。単純に、担当者と連絡が取れないケースだ。メールで問い合わせをしても全然返事も梨の礫で、一向に話が進まない、という状態。或いは、同じような事だが、担当者が既に交代していて、現担当者にやる気がない場合。緊急の案件ではないのだからどんどん後回しになっていくのはある意味自然である。仮に配信限定としても、ひとつの作品を販売できる所まで漕ぎ着けるのは意外に面倒である。

そうでなければ、司法に話が行っている可能性が高い。こうなると何年掛かるかわからない。双方の主張に隔たりがあればある程、調停も和解も不調に終わり、泥沼化した裁判だけが残る。こういう時に"泥沼"って単語最初に使った奴ぁ誰なんだ出てきやがれ面白ぇじゃねえか。いやまそれはさておき。

今思い返してみると、Simple And CleanとSanctuaryをユニバーサルが"買い取った"のは何だったのかという懸念が生じてしまう。いや勿論、この3曲をUtaDAの曲として聴けた事は墓場まで持っていくべき人生において思い出深いエピソードであるのだ私にとっては。しかし、ディズニーという大きな相手に対しても交渉を成功させられた辣腕が、仮に今In The Flesh 2010 Videoの発売を阻んでいたとしたら皮肉な事である。昨日の友は今日の敵。ドラゴンボールの逆である。

勿論、実際はそうでなく、実はユニバーサル側もノリノリでとっくにGOサインは出してるんだけどLive Nationがゴネているという可能性だって有り得る。ただ、ゴネる理由を見つけ出すのは、ハッキリ行って難しい。何のメリットも考えつかない。

3つめ。何らかの理由で、光自身がリリースを控えるよう指示を出しているケースも、考えられる。ざねっちの普段のツイートが幾ら普段危なっかしいからといって、マネージャーの仕事に関する話についてはヘマはしないだろう。実父である為ついつい忘れられがちだが、日本一の女性ポップシンガーのプロデュースとマネージメントの両方をこなし続けて12年の猛者なのである。極めて優秀な人物である事は間違いない。

もし光が何らか関わっているとすれば、映像作品のリリース間隔だろうか。Wild Life DVDが発売されてまだ半年。人間活動の(現在のところでの見立ての)長さからすると、半年やそこらで次をリリースするよりは、と考えているケース。まぁそれなら素直に待てるんだが。

しかし、担当者不在や司法の場への突入となると、作品はずっと放置される可能性が高い。出来れば、光が帰ってくる前にリリースしておいて欲しいものである。

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光が復帰後音楽以外の活動の心構えは、特に用意しない事にしている。

ただでさえ、音楽だけでも予測不可能なのに、他の分野の事となるともうどこから手をつけていいかわからなくなるからだ。

久しぶりの大事なお知らせを読むと、「人間活動」と対比されている言葉は「アーティスト活動」である事がわかる。

たった今、宇多田ヒカルが人間活動に専念しているとすれば、それは逆に、戻る先としてアーティスト活動がしっかり在る事の裏返しに他ならない。

この2つを切り離すというか、両極としてみる態度をこうやって提示してきたからには、これは「今後もアーティスト活動を続けていきます」と宣言しているに等しいといえる。

そう考えると、この「人間活動」は結構な正念場でもある。こういったパースペクティヴを翻意するかどうか、最後の選択になるだろうからだ。

一通り人間活動に従事してみて、やっぱり戻るべき場所は(想定通り)アーティスト活動なんだという確信を深めれば、次の人間活動はそうそう必要ないだろう。次からは普通に「長期休暇」という体裁をとる筈である。

しかし、何事も、やってみなければわからない。人間活動を通じて、人間宇多田光に何かやるべき事が発見されたとすれば、大きく舵をそちらに向けるかもしれない。

そういう意味では、確かに不安な時期ではある。光の事を信用していないのではなく、光の決断を尊重しようとすると、どうしてもその不安と向き合わなければならない。

これは、僕らの中に、当たり前ながら、また光に歌を唄って欲しいという願望が在るからである。在る、というより、心がその願いで出来ているていった方がいいかもしれない。だから、この不安は、心自体がこわれる事への不安なのである。

他人の人生だ。気にしなければ、何でもない、そうできるなら、確かに容易い。信頼なり信用なりが裏切られる不安というより、培い組み上げてきた心のパズルを、もう一度バラバラにしていちから組み直し始めなければならない不安。そもそも、そんな難解なパズルにもう一度挑戦する気力は、果たしてこわれきった心に、まだ残っているのだろうか。

リスクは、大きい。他者の存在に依存した心の形成を経た者は、どうしても一蓮托生になる。自立していない精神から出る感情は、果たして愛情と呼べるかはわからない。然し、もうそうなっているのだ。そこから始める以外、仕方がない。

出来れば、願いが叶って欲しいし、恐らくそうはなるだろう。その事に対しては、不安はない。矛盾しているようだが。ありもしなさそうな事をわざわざ考えてみて、何を確認したかといえば、光を結局信じているということ。弱いからですよ。

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