無意識日記
宇多田光 word:i_
 

vanity  


『自分らはいつまでも平穏に生きられるという思い上がり』とはまた光が公言したセリフの中でもトップクラスにどぎつい感じがする。兎に角、"自分は関係ない"と思う人間に対して前からとても冷たい。それは『誰の為にもならない』という強い確信があるからである。何かが起こった時"誰にでも起こり得る事が今私に起こった"と捉えられず"どうして私が"と狼狽する場合、そこには全く必要のない負の感情が芽生える。運命への憎しみである。それと対局にある(逆っつーんだっけ裏っつーんだっけ)感情、"誰にでも起こり得る訳ではない事が今私に起こっている"事、即ち"有り難い"事に対する感情が光は最も強い。こないだ聖母たちのララバイを熱唱していたリツイートさん、いやRTさん(ますます誰だよ)もものまねというとすぐ"ありがとーっ!"と絶叫してしまう、まさに光のトレードマーク。"あたりめぇ"vs"ありがてぇ"とでも言おうか、光が"夢"
に対して冷たい言葉を言い放つ時、彼らがそれを当然であるかのように振る舞っている事を"まるで夢の中に居るみたいだね"という冷たい視線で見つめているのである。世界に対する視野の広さ。それは精度といってもいい。量子の"大きさ"には限界があるのだから、狭い世界だけを眺める時は解像度が落ちる。精神の繊細を維持する為には世界を外へ、広く見る事が何よりも肝要である。このまま狭い世界の裸の王様になりたくない、マネージャーなしでは何もできないおばさんになりたくない、という感情は、今迄一貫して冷たい視線を投げかけてきた"彼ら"に、今度は自分がなってしまう恐怖感から来たものではないか、という捉え方はなかなかに説得力がある。そう考えると、長い人生、光も今回だけでなく今後何度も人間活動に入る期間を設けてもいいかもしれない。然し一方で、この28歳というギリギリの年齢での自分の世界からの離脱はまさにたった一度きりのラストチャンスであることも強調しておきたい。今彼女がどんな活動をして
いるか知るよしもない、別に毎日ベッドに寝っ転がってチョコレートを食べててもいいんだけれど、時間だけは何だかんだで全員に平等である。死ぬまでは。人間一人々々何を無駄と捉えるかは千差万別百家争鳴だが、時間だけは皆無駄にしてはならない。Don't Waste Your Time, 初心に還って、くいのない人間活動生活を送って貰いたいものである。時間を無駄にすることは、誰の為にもならないのだから。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




照實さんのツイートは毎回実に興味深い。なんというか、すぐに頭を抱え込んで悩み始めてしまい思い詰める、まぁ直情に素直というかミュージシャンとして必要な過敏な感性を赤ちゃんになっても(60歳になって赤いちゃんちゃんこを着せられてもう一度0歳の赤ちゃんの時と同じ暦に戻ってきましたよ(還暦です)というたった今捏造した言い回し、のつもりがbabyに戻ってしまった件について:還暦だからそれでいいのか、うん)持ち合わせているのは頼もしいというべきかプロデューサー/マネージャーとしては頼りないというべきか、ともかく魅力的な人である。彼個人の音楽的な才能については未だ不透明な部分が多いものの、藤圭子と宇多田ヒカルという邦楽史上に燦然と輝く異形な女子歌手2人に挟まれてここまで来たのだからタダモノでないことは確かだろう。

昨日のツイートでも「政府が意見を一つに纏めて」と、多角的に情報収集をして何が確度の高い情報か見極めるのが前提となっているネット世代からすればキョトンとするような発言をしていたが、60~70年代の時代背景において(どこの国でかはしらないが、恐らく日本とアメリカのいずれかだろう)多感な学生時代を送り、多感なまま赤ちゃんになった彼にしてみればそれは自然な思考の誘導かもしれない。国というものの大きさ、絶対性は、海外旅行が制限されていたような中で宇宙飛行士を目指していた人からすると学生運動に参画していた人々以上に身につまされているだろう。いざという時は多大な権力をもつ国がそれ相応の責任をもて、ということだ。

更に、それに加え、なんだか人の言う事を信じる事も否定する事もできず不安なまんま疑っている感じもみてとれる。ザッピングして各チャンネルごとに煽られた不安感の蓄積が「なんとかしてよ、国」となったろうことは想像に難くない。そういえば報道をみすぎて精神的にまいってしまったミュージシャンもいらしたそうなので、照實さんの周囲の人はそういう症状が出ていないか注意を払う必要もあるだろう。

そして、そんな性格だからこそ(まぁ若い頃はもっと尖っていたんだろうけど)藤圭子と宇多田ヒカルに挟まれて生きてこれたんだろうなと思う。光に対する「我が子」な眼差しの優しさはフォロワーの皆さん全般が感じていることだろう。人の云う事を否定できない性格なのだ。訝しいと疑いつつもどこかで「もしかしたらそうなのかもしれない」という可能性にとらわれてしまう。なんだかんだで我の強そうな2人の女性に対して、それなりにいい聞き手なのではないだろうか。それが2人に対してだけでなくなっちゃったりしたら(以下憶測につき自粛)

彼の考え込む性格は、単体のミュージシャンとしては決して成功を導くものではない。しかし、エキセントリックなアーティストからすると突飛な発想を「もしかしたらそういうこともあるかもしれない」と受け止めてくれるプロデューサーが傍に居ることは何とも心強い。しかも、単なるイエスマンでなく、感受性が繊細な為やはりどこか訝しい。彼、宇多田照實という人は、才能と偏りのあるミュージシャンに出会えて初めて自分を大きく活かすことが出来たプロデューサー/マネージャー体質の人なのではないだろうか。それにしたって、それが妻(時々赤の他人)と娘(こちらはフルタイム)だってところが彼の異常性ではあるんだけどねぇ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ツイッターにおける作品性の欠如は本質的なものである。本来、小説や詩や歌や芝居の台詞の中に組み込まれるかもしれなかった名文句の数々がふぁぼられりついされて(※お気に入り登録やリツイートされて)拡散し薄まってゆく。勿論波と波が合わさってより大きな波になる事もあるが、それは拡散するが故に(特に時間軸上において)局所的であり、作品性を獲得する事がない。もう少し丁寧にいえば、140文字以下の文学としての作品性までしかここでは生まれ得ない。俳句や短歌ならその枠の中だな、と早合点してはいけない。そういった作品は今迄必ず句集や詩集、歌集といった体裁で提示されてきたのだ。作者が単独であれ複数であれ、そこには編者の世界観が如実に反映されていた。言い換えれば、編集や添削、統合や整理といった過程が内在的であったのだ。しかしツイッターは編集を完全に外部にもち、しかも改変はまだまだ市民権を得ていない(非公式RTの改変に警戒感がもたれている)。仮に今後市民権を得て周知されたとしても拡散性という本質は消え得ない。

でだ。勿論Togetter等のツイートまとめシステムはあるものの、それは度を過ぎればチャットの過去ログや往復書簡に近くなっていき、即ち旧来の仕組みに組み込まれ直されてゆく。結局、Blogやチャットの利点は見直され、今後はそれぞれの役割分担が明確になっていくだろう。特に日本では震災を契機にツイッターの知名度は格段に上がる。もしかしたら、有吉風にいえばバカにもう見つかっているのかもしれない。

光は、元々Message from Hikki という独自のシステムとメールフォームMail to Hikki をメインとしたHPを駆使してネットを利用してきた。当初は最先端だったこのシステムも今やアナクロな感覚が漂う。一方でしっかりストリーム&チャットやブログ、そして今回のツイッターとその時々のニーズの高まりに応えてシステムを臨時運用してきた。各種ブログは期間限定という約束通り、あるものは更新停止、あるものはアクセス不能、あるものはなんか途中…という風に。

さてではツイッターはどうすべきなのだろう。当初の予定通りしっかり期間がきたら終わるべきだろうか。先ほど述べたように、ツイッターへの"熱狂期"は(バカにみつかることで)収束に向かい、ブログやチャットのようにWebを効率的に利用する手段の一つとして相対化されていくことだろう。まぁ他のシステムと違い、twitter.comが存在し各クライアントを通じて…なんて話はまぁ他の人に任せておくとして、その相対化がどの程度のラインに落ち着くかが見極めどころである。

ファンの方はひとりも「やめてほしい」と考える人はいない。「やめるべきだ」というスジ論を唱える人であっても@utadahikaruがTLから消える事自体に万歳三唱する人は…検索以外ではここ読みに来ないわな…まぁつまりいらっしゃらないとみていいだろうとりあえず。なので、当初の約束をなかったことにするのは、感情的には反対されない。ひとこと、「これから呟きは不定期になります。ひょっとすると何ヶ月も呟かないかも」と書いておけばよい。RSS以前のメッセは確かにこちらからアクセスしなければ更新されているかどうかわからなかったからそういう言い方で気をもたせるのは心にヒッカカルものがあっただろうが、ツイッターというシステムは、ただ待っていれば発言が転がり込んでくる(これが拡散性という本質のキモ)所が大きい為、言い方はよくないが、みんな@utadahikaruがそこに在るという安心感によって、逆に“宇多田ヒカルのことを忘れていく”。勿論、最初っからライトファンはニュースにでも載らなければメッセを確認しにいくこともなかっただろうが、コアなファンとライトなファンの中間層(多分、これは意外に大きい)の“忘れ具合”は、ひょっとするとメッセを放置していた頃より甚だしくなるかもしれない。光としては、緩やかに人間活動に入っていく為には、Twitterアカウントをそのままで置いておくことが有利にはたらくことになるかもしれない、のだ。今迄の音沙汰なしではなかなか合点がいかなかった“No News Is A Good News”、便りのないのは良い便り、という頼りない慰めが、ほんの少しだけ説得力を増すかもしれない。Twitterの流れの速さ、拡散の大きさは、人のイメージを薄れさせる作用もある訳である。

まぁ尤も、ここを定期的に読んでいてくれるような向きにとっては、メッセだろうがツイッターだろうが毎日宇多田光欠乏症候群なのだから、音沙汰が24時間ないだけで狼狽し始めるんだろうなぁ、、、ホント、バカばっかw(<お前が言うなの大合唱♪)


コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )




昨日のツイートは『地メロの3度下のラインを丁寧にダビングしてます』に尽きると思う訳だが、やはりどんな時でもセンスオブユーモアは必要だ。想像を絶する大惨事に巻き込まれた人にすぐ笑ってもらおうったって至極難しいし、泣きたい時は泣けるだけ泣いとくべきだから泣くのだが、そういう絶望の中で笑って貰うのは"難しい"というだけで"不必要"とは違う。そういう人々だっていつかは心から笑いたいのだ。勿論、悲劇を忘れる必要もない。伊集院光が(なんか光違い)「笑いと悲しみって実はいっぺんに同居できるんじゃねーの?」と慧眼な事を言っていたけれど、どちらかの感情行動を竦ませることはない。ただ高いセンスがいつもより要求されるから難しい、というだけである。自粛ムードの中要らないと言われてしまうのは平時の「鍛えられていないセンスオブユーモア」であって、鍛え上げられたユーモアはそのムードさえ打ち破れるだろう。

光にとって(こちらは光違わくない)、こういう時に自分がどういう発言をすべきなのか、或いは表立っては何も考えずにほぼ本能的に発言しているのか、ちょっと具合がわからないが、普段から人より図抜けてシリアスで、それを補完するようにセンスオブユーモアを鍛えてきた人間としては、このシリアスな状況によってまた自らの心の制御を保つ為の笑いの要素を少しずつ何処かからか見つけてくるかと思ったり思わなかったり(どっちなんだ)。

57万ものフォロワーを抱えていて、その発言は大きな波のうねりとなって(という比喩を使うのすら一瞬躊躇ってしまうこの自粛ムード)各所に影響を及ぼすのだが、波は結局大海に飲み込まれ雲散霧消してしまう。その中で一定の方向性に爪痕を遺すのは容易ではない。これこそ光が当初ツイッターを拒否していた理由である所の"作品性の欠如"であり、だから非常時の機動力となりえるのだが、"作品性"から離れている今の光にとっては逆に立場上肌に馴染んでいるかもしれない。仄かな無力感を感じながら、ではあるけれど。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




小津の東京物語は何度観ても素晴らしい。ひとつのジャンルについて何が最高傑作かという問いに答えるのは容易な事ではないけれど、こと"映画"に関してはi_は一応、少ない本数しか観ていない中からとはいえ、この東京物語を挙げる事が出来るという点でこの作品は傑出しているといえる。これは洋邦古今東西、アニメ実写を問わず、だ。ときに文学的、ときに絵画的、ときに詩的、音楽的な演出の数々は映画という総合芸術の可能性を目一杯引き出している。活動写真というより活動絵画と呼びたくなるほどワンカットワンカットが丁寧に描かれていて(写真と絵画の優劣の話というより、それ位一枚のカットを仕上げるのに手間暇がかかっていそうという意味)、まるで2時間あまりかけて美術回廊を一回りしたような気分になれる。それほどにアーティスティックでありながら、1950年代当時の日本の通俗感を端正に織り込み、然も世界のいつのどこの人の共感も得られるであろう人間生活の機微を、洗練され尽くした台詞回しで淡々と、しかし
仄かに鮮やかに描いていく。芸術性と大衆性の行き着く先の交差点に、この作品はあるようにみえる。

みおわって、ふと思い出したのがGBHPVだった。光の初監督映像作品、とんでもないアイディアの密度を持ちながら押し付けがましくなくサラリとみせる技術、CGや大掛かりなセットを用いなくとも簡素な小道具の連なりで機微を描くセンスは、小津との作風における共通点というより"演出家としての志と実現への執念"という点で相通ずるものがあるな、とそう私に感じさせたからなのだろうか、自己分析は出来ていないが、もし光が2時間尺の映画を撮ることになったら凄いことになるんじゃないか、それとも、GBHPVはあクマで光が作詞作曲した歌が前提としてあったから成し遂げられたものであって、音楽がそもそもなければ映像を作る"とっかかり"がこの子にはないのだろうか、と様々な妄想が駆け巡る。もし仮に実際の映画の撮影に入ってしまえば何年もアウトプットのない時期が続いてしまうのが何とも痛いが(ファンてわがままだなー)、出来あがる作品は凄まじいものになっているかもしれないという期待はやはりある
のだった。まぁその前に、英語曲を書いてそのPVの演出をして、果たしてYoutubeで何回の再生回数が叩き出せるか、まずそっちの方が見たいかもしれないな。

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )




今日の光のツイートはまた政治家への不信感ありありな書き方でハラハラするぜな気分だが(あ、政府と民主党は別だぞ議院内閣制だから彼らがやってるってだけで立法府と行政府はちゃんと区別しないと)、i_は日本が昔から「経済は一流、政治は三流」とか揶揄されてきたのはそんなに悪い事ではないと思っている。政治とは物事の成功・成果から最も離れた営みのひとつであり、腐敗や裏切りは内在的、本質的なものだ。一億人前後の人間を擁しているからには才能溢れる人間も大量に居て、彼らが政治家を志していないからこそ政治が三流になるのである。その分、我々は世界でも有数の科学技術と医療体制と治安維持(いやそりゃ問題はいっぱいあるんだろうけどね、相対的な話)の恩恵を受けて生活できているのだ。現場の技術者や職人に才能が集まっている為上に立つ人に人材が残らないというトレードオフ。ならば政治は「余計なことをしない」のが一番なのだ。まぁ、光はそういうこと(余計なコトしないでね~)を願ってツイートしたん
だと思う。そりゃあれだけの大金(年収の大半?)を差し出したのだから彼女には言う権利はあるわいね。

そういう意味では、光のような多岐に渡る才能をもつ人間がこれまで音楽に専念してきてくれたのはとんでもない僥倖であったといえるだろう。職人は多いものの、こと文化的な側面においては日本という国には偏りが見られる。恐らく文化的な営みの中で最も才能が集まっているのは漫画とアニメの世界で、高畑宮崎や鳥山尾田といった現代の巨匠たちは歴史に名を残すだろう。中興の祖というか、中心である手塚の医大さ(いやそりゃ医学部だったけど)、もとい偉大さはいうまでもない。世界史の歴史の中にバッハやピカソやアインシュタインと共に名を刻むべきだろう。

一方、大衆音楽はというと些か心許なかった。そこに宇多田ヒカルである。この、ホモ・サピエンス史上最愛のメスが歌を唄ってくれる幸運。後続がなかなかついてこれてないのは突然変異的に質が高すぎる為であり致し方ない面もある。ひょっとするとホモ・サピエンスの次の種への端緒が光かもしれない、そんなことまで考えてしまう。

…日本だけの話のつもりがいつの間にか人類全体の話になってしまったのでこれ位にしとく。次回はGlobalizationの続き書かなきゃだし。で、そんなことはないとは思うが、くれぐれも「今の政治は不甲斐ないから私が」なんて思ってくれるな。才能が文化的な営みに(つまり生きていく為には必ずしも必要でない分野に)費やされる事こそが平和の証なのである。"そうも言ってられなくなる"時代が来ないよう、やっぱり民主党さんしっかりしてください。(どないやねん)


P.S. もう方々で言われてるだろうが、去年のM1のスリムクラブの2本のネタ、本当に予言的だったなぁ。見知らぬ人のお葬式、放射能、塔、土、民主党…

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




90年代初頭位からか、日本語でも「グローバル」という言葉がメディアで使われだした記憶があるが、Jpopに関していえば95年にその名もズバリ「globe」がデビューしたのが大きかった。ユーミンが100万、ドリカムが300万の壁を突破したあと400万に初めて乗せたのがglobeだった。しかし、その名とは裏腹に活動は日本主体に終始した。ヒカルが出てくる以前は、日本で如何にビッグだろうが海外進出は僕らの発想にのぼらなかったのだ。アジア圏での人気といっても結果論的な要素が強く、作品制作時点から世界規模を意識する事などそもそもなかったのである。それを考えるとやはりLOUDNESS以来の活躍を見せたUtaDAとDir En Greyは画期的だと感じる。それは、今挙げた三者とも英語圏のリスナーに届ける事を前提に制作に取り組んだからである。が、LOUDNESSもDir en greyもハード&へヴィロックのマーケットが元々あり、そこでの"世界共通語"として英語を使っている感覚が強かった。即ち
もし共通語がフランス語だったらフランス語で乗り込んでいただろうという事だ。(実際LOUDNESSはのちに英語ネイティヴなボーカリストを加入させるという荒業に出る) しかし、光の場合は違う。元々最初っから英語で歌って(インディ)デビューしているのだ。InternationalとかGlobalというのとは出発点が違うのである。(続く)

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




脳みそのサイクルなのか何なのか、何となくカラダが"次のUtaDAのアルバム"を欲している感じがしてきた。勿論今や光にはEMI下での宇多田ヒカル名義しかない訳で、たとえフル英語盤を制作するとしてもUtada Hikaru名義かHikaru Utada名義となる為もうUtaDAの3rdアルバムというのは存在しないのだが、純粋にEXODUSとTHIS IS THE ONE(ってフルでアルバムタイトル書くの久しぶり過ぎて一瞬"コレでよかったっけ?"と悩んでしまったw)を結んだ延長線上の音楽性を夢想し始めた、とそういう事だ。光の場合、言語と市場の選択は音楽性そのものを変化させる要因なので、EMIとの話し合いの中で英語曲の扱いがどうなっていくかは気になる所。たとえフル英語盤を作らせて貰えたとしても、日本での対策にもっと知恵を絞ろうとするだろうし、伝統的に英欧主体のレーベルなので今度は本格的な欧州ツアーも視野に入れてくるかもしれない。数年で大規模な急成長を遂げるアジアの国もありそうだ。も しかしたらそれは、日本市場の壊滅と裏表となって立ち表れている虞もある。それらあらゆる要素が、光のInternational志向と化学反応を起こすだろう。そう、International。UtaDAのアルバムに関しては私は幾度となく「もうひとつの母国で出すDomestic/国内アルバム」だと主張してきた(光自身がこの点を前面に押し出して強調したことはない…と思う)。EMIは、しかし、ブランチはあるとはいえ(それも昔の話なのかなー)アメリカのレコード会社ではないのだから、アメリカ国内盤という発想は構造上ほぼ不可能となるだろう。そうでなかったら元からユニバーサルと契約なんかしないからね。となると、今の光はアメリカで生まれ小学校の大半を過ごした自分の半生をかなり相対的にみているのかもしれない。スポーツでアメリカと日本が対戦しても躊躇いなく日本を応援しているし。まぁ、インターネットが発達した今は「国と国」という意味のInternationalより国境を取っ払った「ひとつのまぁるい星・地球」として のGlobalの方が好まれるのだが、まだ光はそこまで行けない…と私が思ってしまうのは何故なんだろう。来週はそこらへんを突っ込んで考えてみるとするか。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ツイッターのお陰で既に4月バカに食傷気味だが、最早嘘を吐いてひとを欺くというより如何にくだらない冗談を言い合えるかという所に主眼がいっているので、まぁ今これを読んで「嗚呼今日は4月バカだったのか」と気がついてしまった人も、いろんなくだらない冗談を笑い飛ばして今日一日過ごして(いて)くれたら、と。 『でも、いつでも本気』という表現を点で光が使ったのは、インタビューで幾らかの嘘を吐いて(一応註つけとくが、"うそをつく"場合"吐く"と書く。溜息をつく場合も同様に"吐く"である)きたことへの贖罪の意味もあると思うが、その後ろめたさとは裏腹にその嘘は光自身を、僕らを護ってきてくれている筈だ。人は真実を常に受け止められるほど強くはない。同じ事を知るにしても時期、時機というものがある。それを調整する為に嘘を吐く事に後ろめたさを感じる必要はない(必要はなくとも感じてしまうだろうけど)。重要なのは、十分に時間が経過した後に嘘を吐いた理由を説明したら納得して貰えるかどうか、だ。あの時こう言ったのはこれこれこういうことだったんだよとそこで初めて本当のことを言える、そういう機会。人によっては墓場までもっていってしまう事も多々あるだろう。光の発言に関しては、長くファンをやっていればいるほど「あの時はこう言っていたけど?」と思うことも増えてくると思う。勿論 、一貫性(consistency)に関していえば他の人々に較べても抜きん出ているので相対的にそういう事態の頻度は各段に少なくなるだろうが、全くないという事はないだろう。 そこで問題になるのが「人間活動の中身をのちのち(或いはリアルタイムで)語る必要はあるか」という点だ。音楽は作り続けるだろうけどアーティスト活動は休止する、というのだから主眼は作曲するか否かとかではなく、人前での活動、宇多田ヒカルという名を背負っての公的な活動、商業的な活動をしない、ということだからその文脈の中にのちのちの時機であっても人間活動の中身を披瀝する必要を感じてしまうのはよいのだろうか。今それを考えること自体がマズいかもしれない。「あとでこれなんて報告したらいいんだろう~」だなんて今の時点で悩み始めてしまうと人間活動の自由を奪ってしまう。ならば、今の所はひとまずその点は考えないようにして「殆ど引退してしまっている気分」で活動してくれればいいのではないか、だなんて新年度一発目の朝から書いてしまうのは縁起があんまりよくないですか、すみません。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


   次ページ »