無意識日記
宇多田光 word:i_
 



タイムラインが無理矢理にでも今日がWildLifeDVDの発売日である事を教えてくれる。こっちは届くのが明後日以降らしいのでのんびりいこうか。新宿だか渋谷だかも週末にゆっくり行ってこよう。本編は勿論だが、付録映像がどんな感じなのか気になるなー。

今更という感じだが、私はあんまり光のライブDVDが得意ではない。今日観れない負け惜しみじゃないぞ。唄ってる時の顔が画面に映っていると、どうしてもその都度の光の思考が流れ込んできてしまい素直に音楽を楽しめないのだ。いや、流れ込んでくるというのは思い込みであり錯覚であり妄想なんだけど、感覚としてはそういう感じだ。次のフレーズの前にこのタイミングでこれくらいの深さのブレスを入れて、とか次はファルセット、まだシャウトじゃない。そういやここでステージを右から左に移動するんだったか、やべ、背中汗半端ない、って今さん今間違えなかった!?(いやそういうのはなかった(笑))、みたいな風な思考回路に感情移入して2時間ライブDVDを観ると、疲れる。

という訳で特典映像のある程度リラックスした光を見れるのが楽しみなんだが、それでもまぁ仕事中の表情である事に変わりはない訳で、出来れば気の緩みまくったオフショット集がみたいなぁ…という欲望の行き着く先が昔書いた"2時間寝顔DVD" だったりするんだが、@utadahikaru宛に毎日奇妙なツイートを繰り返す輩に「貴様等、ブロックされるまで執拗に精神的に追いつめるツイートを飛ばし続けてやろうか」と思う度に「そういやこんな中途半端な奴らに較べれば俺の方がずっと徹底的に気持ち悪いんだった」と気付き直して思い踏みとどまるのだった。変態ぶりなら、負けない。いや某船大工さんには負けますが…。

ところで同日発売の小田和正さんの歌声がすばらしい。60超えてあのクリスタルボイスは反則だろう。枯れた、という感じのない、潤いのある、しみじみと落ち着いた、でも力強く優しい声。5大ドームツアーまで敢行するとか、ミュージシャンにとって60歳ってまだ中間地点なんじゃないかと思ってしまう。今の光では、どんなに頑張っても五つのドームを一度のツアーで満杯にするのは無理だろう。彼の場合、オフコース時代から培ってきたファンベースが半端ないんじゃないか。たくさんの若手とコラボし、アルバム収録曲の大半にタイアップがつくこの現役感。いや、光が32年後にこんな風に大活躍していてくれるだろうかとふと思ってしまった。まぁそんな事より今が大事なんですが。

で、なんだっけ。作詞と時代性、音楽と時代について書くつもりだったんだけど横道どころか全く違う道に来ちゃってる感。まぁいいか。小田さんなんだけど、サウンドに無駄がなく、歌と言葉を届ける事に集中する姿はやっぱりフォーク世代だなぁという感想。光は日本語フォークのニュアンスをさだまさしさんから学んだみたいだけど、はてさて英語のフォークのニュアンスは誰から学ぶのだろうか。やっぱりボブ・ディラン?


全く文章を纏める気もなく雨の夜は更けていきます―

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といいつつ、折角なので前回の続き。(どないやねん)

ミュージシャンがことばをはじめとした表現のイメージに大きく左右されやすいというのは、今回いろんなアクションを自発的に行ったり逆にニュースの見過ぎで(?)体調を崩したりしたことからもわかる。普通にいえば"感受性が強い"という言い方になるのだが、何をどう感受しているかによって結果は様々になる。それによって生まれた作品が、どんな層に訴えかけるかをみてみないことには、その評価は出来ないのだけど。

作詞にそれが反映される場合、当然ことばはイメージが重視される。例えば、"津波"ときいたときの日本人のイメージは今回また大きく変わった筈だ。インドネシアの時も強烈だったが、今回同じ国で同じように人が住んでいた街が流されていくのを映像でみせられたのはやはり違う。今迄"津波50cm"と聞いても何とも思わなかったのが恐怖を喚起するようになる…そういった効果がテレビにはある。ことばをどんどん左右していくのだ。

斯様にことばは時代や時機、地域性といった文脈に依存する。辞書的に定義された意味はできるだけことばを固定的に扱う方向に動き、解体され構造化されるが、ことばの印象は歴史・履歴に依存し、膨張と収縮を繰り返し、変化し続けていく。ことばの印象に正しいも間違いもなく、各人の物語にしたがって存在が規定し直され続けていくのである。

光は、そのことがよくよくわかった上で作詞を続けている。PHSもBlackberryもその時々のアイテムであり、その時の文脈でしか意味が通じない(その時の印象に左右される)のを覚悟の上で歌われている。今昔の歌を聞いても、その当時の風俗を喚起するという歴史的な意義はあっても、今の生活に直に響くようなものではない。その意味において光の書く歌詞は、制作された(リリースされた)タイミングで聞いてもらう事が肝要となる。いつも作詞を締め切りギリギリまで引っ張っているが、知ってか知らずか、その時点でいちばん新鮮なことばを封じ込める結果となっているのだ。

なので今。光の中にことばが生まれているのなら、すぐカタチにしてリリースする必要があるだろう。他の多くのアーティストたちはもうアクションを起こしている。配信という技術を利用して既に歌は人々の許に届いているし、CDも暫くすれば発売になってゆく。光がその流れの中に身を投じるか否かは、光の中から届けたいことばが生まれてくるかどうかを見極める必要がある。


しかし…、と話を続けると長すぎるので今回はこの辺で。

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せっかくなのでこのまま脇道に逸れていってしまおう。メディアバイアスの話なんかするつもりじゃなかったんだけどついでだついで。

放射能の恐怖に怯える人々に幾らデータを示して安全だと主張しても無駄である。彼らは実際は安全なんて欲してはいない。不安を解消したいだけなのだ。自分の中にリアルに存在している不安にどう対処すればいいのか教えて欲しいのであって、そのリアルさに一切触れないまま「貴方の不安は錯覚ですよ」と安全を主張しても、それは敵対的な行為である。こういう場合まず欲せられるのは"共感"。不安と恐怖に怯えている人々にとっては安全を声高に叫ぶ人より「危険です!」と言ってくれる人の方に共感する。自分の中にリアルに存在する感情が現実に根ざしたものであると言ってくれるからだ。このバイアスがある限り、丁寧に「直ちに健康に害を及ぼすレベルではない」と告げても「じゃあ暫く経ったら影響が出るんだな」という風に悪い方へ悪い方へ考える。これは「最悪の事態に備えて慎重に考えている」のでは、ない。悪い方へ考えた方が自分の中の感情に対して受容的だからである。その点を見過ごして字面どおり受け止めて「いや最悪の事態といってもこの程度
だしそうなる確率はとても低い」と返すのは更に逆効果。そのスパイラルは「嘘をついて騙すな」という身も蓋もない自己防衛に行き着く。こうなるともう話は進まない。

何故こんな事になるかというと、言葉に対する感受方針がまるで違うからである。安全だと主張する人たちは"放射能"ということばを意味として捉えている。α線β線γ線はそれぞれヘリウム原子核云々で各々の電離作用はこれ位でそれが遺伝子を傷つけてこれ位になると発ガン性をこれ位高めるという研究があるらしい…という風。そしてもう一方は"放射能"ということばをきいたとき、人生の中でことばの登場した文脈全体のイメージ、即ち個々の"印象"に基づいて反応する。似たようなことばに"エネルギー"があるだろう。一方は"物体にかけた力と移動距離の積分"と同じ次元をもつ量、という意味に基づいて考えるが、他方は"なんかみなぎってるヤツ"(かめはめ波みたいな)となにやら実体があるという風に捉えている。つまり、"放射能"ということばのもつイメージ、この60年間蓄積されてきたイメージの悪さがある以上、幾ら安全を叫んだ所で無駄なのである。

あ、今福島第一原発の周辺は危険ですよ。念の為。


で、その"ことばのイメージ"に人より大きく影響されるのがミュージシャン、特に作詞家で、っていう話になる予定だったんだけどまぁもうそんな話はしなくていいかな(^^ゞ

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照實さんが昨朝大事なことをしれっと呟くもんだから私も見落としていたのだが(RT等フォロー感謝)、2日前の「勿論、歌でも何かできないか、熟考しているところ」に引き続き「海外への出発も一ヶ月遅らせてます。休養中にも出来ることがあれば、とヒカルから。」と。何するんだろ。今回は史上稀に見る規模の災害だし、宇多田ヒカルという名を知らぬ国民の方が少数派という知名度の"国民的歌手"という社会的立場を鑑みれば何らかのアクションを起こす事に抵抗はないように思う。なので何をし始めようが私は出来る限り参加するつもり。

…なんだが。いや今回はそれでいい。そういう空気がもうあるから。異論はない。で、外野の気楽な人間だからこそ今言及しておくけど、今後はどうするの? いったい、どれくらいの規模の災害が起こったら"宇多田ヒカル"は動くんだろうか。名を出さず募金等の支援は今までもやってきただろうからそれはそれでいいんだが、名を出して歌がどうとかいう公の活動をするのに、何か基準めいたものはあるんだろうか。

今回の災害が"東北関東/東日本大震災"と呼ばれるたびに新潟中越地震の話を思い出す。当時県(知事)の方からメディアに対して「中越地震という名称では被害程度が軽んじられるから新潟大震災と呼んでくれ」と要請があった。結局全国規模ではそれは定着しなかったし、このケースにおいてその要請の実効性や妥当性について議論できる知識はないが、あらゆる規模の災害においてこの種の問題は起こり得るだろう。

今回の災害も、何故ここまでメディアが取り上げられるかというと、キー局である都内のテレビ局が揺れたからである。嘘でも冗談でもない。同じ規模でも、九州や北海道ではここまで報道されない。そして福島原発のお陰で東京電力の供給量に問題が起こった。本来なら東北と関東の問題なのだがキー局がそこにあったから全国ネット枠を占拠しているだけだ。特に電力に関しては、中越地震より中越沖地震の方が東電の原発に関係が深かったせいで報道の質・量が異なっていた。そういう、"中央とローカルが重複しているが故の歪み"を考慮に入れずに今後の災害に対する対応を決めていかないといけないように思う。


もちっと細かい議論をすべきなのだが今回はこれ位で。

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絵本を思い出すと、川を隔ててこちら側にくまちゃん、向こう岸に熊の親子が居る。一言で言ってしまえば、人間活動に従事するとはこの岸を越える事、或いは越えてそこで暫く過ごす事なのかもしれない。くまちゃんがいいようのない"怒り"に苛まれている間、親子はそうするのが当然、というか何の疑いもなく"普通に"振る舞っている。なぜか(線画ではあるけれど)リアルに描かれた熊。最近の光がKuma Changやクマンズのみならず野生の("Wikd Life"な)熊の話までしだすようになったのは、そうした"普通な"生活を視野に入れるようになったから(…か?)。16の時光は"音楽の制作中、私は怒ってばかり"と自嘲気味に書き記していたが、怒りの対岸は創作(のプレッシャー)とは無縁の世界。しかし、思い上がりとはまさにそれが普通で当たり前だと思う事なのだが、どうなんだろう。

光は今向こう岸に居るのか? そうとも思えない。対象がぬいぐるみだろうが生きている獣だろうがくまくまくまくまくまくま、だ。何も変わってはいないようにみえる。ただ、昨夜のTVで親子熊に反応したのは、きぐるみやぬいぐるみにはそれがないのだから、必然ともいえるし意外ともいえる。やっぱりよくわからない。

パンダの話もしとくか。私見だが、パンダには血の匂いがしない。笹ばっか食ってるからだろうか。熊もまぁ雑食なんだけど、鮭を引きちぎってこそ熊だよねー、と思う。魚へんに圭か。いや何でもない。神は血を好む。何かというとすぐ生け贄である。しかも、パンダを補食する生物もほぼ居らず、パンダ自体から血が流れるイメージもない。天変地異の回避を祈ったり来季の豊作を願ったりする相手としては、余りにこの血だらけの、血塗られた世界に対して"お客さん"過ぎるのだ。客寄せパンダとよくいうが、あの動物の場違い感は寧ろ彼らの方が客なんだと思わせる。法外なレンタル料とか、実に相応しい。神というより宇宙人だな。光が熊の神々しさを血生臭さに求めるかどうかはちょっと微妙だから、私の私見に同感してくれるかどうかはとても怪しい。

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やれやれ(笑)。(まぁ丁度タイトル制限字数に収まる6回にしてくれた事は評価しようw)。パンダの分類については長い年月の論争があり、昨夜のBS朝日の番組のようにクマ特集にしれっと顔を出している事に違和感を感じる私はかなり旧世代。もともと生物の分類は形態学を基礎としたもので遺伝子による解析が始まったのは…ってそんな話はいいですね。光は熊に惹かれる理由を知能知性好奇心にまず求めているが、それだけなら200種以上居る霊長類の多様性に触れる方がよっぽど面白い訳で、やはり鍵となるのは『「神」っぽいもの』な方だろう。これも八百万の神々のような多種多様でなく、どちらかといえば唯一神、或いは偶像も含めた崇拝対象としての存在感を指すのだろう。その為には勿論まず二足歩行が重要である。見上げる対象でないといけないからね(四足でも信仰の対象になりはしますが)。もうひとつ、食物連鎖の頂点である必要もある。神が何かに食われるのはやっぱり違うし、"向かう所敵なし"な雰
囲気も荘厳さに一役買う。そして私が一番重視しているのは顔が人間ぽくない事である。霊長類は確かに知的だが、顔面の構造が人間に似すぎていて親近感が勝ちすぎて崇高さをそぐきらいがある(ハヌマンラングールとか居るけどねー)。しかし熊は、二足歩行で人間によく似た所作を持ちながら顔の骨格が大きく異なり、そして大きい。推測だが、熊の頭部を人間が取得した場合、それを飾ると共に"頭からかぶった"のではないか。霊長類だと顔が近すぎて面白味が薄いが、熊をかぶると"何か違うものに変身できる"のだ。古代のシャーマンたちがそのように振る舞っていた事を妄想するのは楽しい。だから光は、くまをかぶったのである(ねこはかぶらない)。くまのきぐるみを着込んだというより、きぐるまれるならくまなのである。なにかおおきなものにかわりたいというきもちのあらわれをうけとめるにはそれはくまでなくてはならなかったのだ。熊崇拝・熊信仰の伝統に則り神の言葉を歌の言霊として現代に伝えるシャーマニズムの巫
女・歌姫宇多田ヒカル。まぁ、本人は例によって無意識的な選択・行動だろうけどね。

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↑「そういえば、くまちゃんは?」という空気を其処彼処に感じるので呟いてみた。光がKuma Changを表に出してこないのは、シンプルに「今そういう気分じゃない」からだとは思う。現実を直視する目線の為には、Kuma Changの視点を借りる訳にはいかないのである。どうしたって童話的な雰囲気が漂ってしまうからね。その空気を纏う事は多分正統派の不謹慎だ。で、それを突破する方法論は単純で、いつもと逆にすればよい。光がKuma Changに話し掛けるのではなく、Kuma Changの方から光を眺めて貰うのだ。単純は単純なのだが、至極難しい。たとえハラワタがワタで出来ていようが、彼がそこに居ると心の底から信じ切っていなければ無理だ。向こうからすれば水7割の奇妙な生き物。どれだけ自分自身を突き放してみられるか。何しろ、彼からみたら光の心はみえないのだ。光自身は当然光の心を知っている。一方で(<口癖だな~これ)、彼が外から眺める実体としての光がそこに居るのは自明な事だ。自分自身が彼から、彼の心から眺めたとき
、どうみえるのか。何がわかって、何がわからないのか。彼からすれば光は謎めいているのか、それとも常に愛情を注ぎ続けてくれる絶対的な存在なのか、それとも実はあんまり興味がないのか(今そこをカッコいい男子が通り過ぎたぞ!)、心理描写なんてされた事がないからわからない。はたまた、Kuma Changはワンピースのルフィのように思ったことは総て口に出してしまうのか。光はKuma Changの何をわかって、何を知っているのだろう。ただ、ひとつ忘れてはいけないこと。彼と光が戯れていた時に生まれた歌の名は"ぼくはくま"なのである。少なくともその時その瞬間に光は、くまだった。だから"ぼくは"と唄ったのだ。もしそのとき、くまちゃんが宇多田光を見つけていたら何と言ったのだろうか。歌の中で、くまはひたすら自己紹介に励む。エビフライやチョコレートやまくらさんがそこに居る。ママも居る、或いは居た事を知っている。しかし彼は、宇多田光を知っていたのだろうか。難しい。光は自分に対してどこまで他者に
、他人になれるのか。今の光は、「他人事ではない」と強く思っている。だから『思い上がり』という強い言葉が出てくるのだが、そのままでよいのだろうか。くまちゃんは、光が思っている以上に大きな存在なのかもしれない。きっと今日体重をはかったら3010gになっているんだ。更に増えた5gは喜びなのか悲しみなのか。どちらも同じだと言い切る孤独が他人事を許さない。それすらも許したとしてその向こうに何が待っているのか。私は知らない。あなたは、どうですか?

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Cup Noodle ! という訳で(イヤ若い人は知らんて)ウタダボットを眺めていると飄々としていて上昇欲などとは無縁に思える光だが、当然それだけではあんな卓越した創作物を生み出せる道理もない。勿論、「どうやったら(あんな)曲が作れるんですか?」との質問に対して「あんた自分が二本の足で立ててる理由説明できる?」と返す人なので(註:普段から自然にやってる事だしあらためてそう訊かれても答えようがない、の意)(あと、質問を質問で返すなァなのだが、実際は光はもっとちゃんと丁寧に答えているので念の為)、スタートラインから常人とは違うというのは間違いないのだが、それだけでは到底カバーしきれない歌詞や編曲の存在は、光の苦悩が消え去らない事の示唆になっている。何故そこまで苦労しなくちゃならんのかという問いには、負け嫌いだからだとか怒りの感情がどうとか仕事だからとか締め切りがあるからとか色々あるだろうけれど、結局の所は楽曲に対する愛情が深い事につきる。愛というだけでは漠然模糊として掴
み所がないが、愛情なら誰かに何かに注ぐイメージが湧き上がってくる。熱があるだけではただ皆魘されるだけだが情熱とする事でやはりこれも一点に注いだり傾けたり出来るようになる。愛や熱といったエネルギーとしてのポテンシャルに一定の方向性と"動き"を与える"情"。この1ヶ月のツイートからわかるように、光からは常に情が溢れ出ている。それは、存在だけではない行動を伴った何かでなければならないという実存的な(といっていいのか)価値観がずっと彼女にあるからだ。一方で、ガスになってこの星を覆い尽くしたいとまた愛や熱のようなただの"存在"に帰依したい願望があったりもする。ポテンシャルを育てなくては"動き"は生まれないし、動きがなくてはポテンシャルは何の価値も生まない。ただのポテンシャルが何かを生むのは人々の記憶と恐怖の感情の構造だろうけどこれ以上話をとっちらかしたくないので今朝はここまでで失礼っ。

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しみじみとSC2の新曲5曲の素晴らしさを改めて噛み締める。言葉を届ける強さに満ちた嵐の女神、日本語ハードロックソングの最高峰のひとつShow Me Love (Not A Dream)、和製ポップソングの終着点Goodbye Happiness、発想のオリジナリティが臨界点を超えている愛のアンセム、そしてバラードのお手本そのものといえるCan't Wait 'Till Christmasと、現時点で日本語ロック&ポップスでこれを上回るバランスと高品質は存在しないと言い切ってしまえる作品群だ。フォーク、ロック、ダンス、ケルト、シャンソン、ジャズ/フュージョンなどなどあらゆる要素を含みながら―それ自体は珍しい事ではない―、どの要素の達人たちにきいても唸ってしまう質の高さ―これがほぼ有り得ないのだ―を全方位に渡って維持している奇跡。いや努力なんだけど。なんといったらいいのか、ダウンタウンが出てきた時松本人志が「俺達の通ったあとは焼け野原しか残らない」と言っていたが、何かそれに近い、誰もがこのあとどうすりゃいいのというレベルに…とい
うのが本来の現実の筈なのだ。なのだが、光はちょっと行き過ぎてしまっている為、今やその溜め息すら誰も吐かない。15でデビューした当時から桑田佳祐から本物扱いされるわ坂本龍一からは「全部自分で作ってるならね」と皮肉を言われるわ(あれこれいつの発言だっけ?)で完全に別格扱いでそこから更に12年分全く手を抜かずに成長してきてしまったもんだから別格が別次元に、別次元が異次元になってしまった感じだ。もう宇多田ヒカルというブランドは宇宙のどこかからかインスタント且つコンスタントに奇跡を運んでくる究極の運び屋虹色バスみたいに思われている。何度も書いてきた気がするが、ライバルが欲しい。元々光が他人と勝負するより自分に負けたくない性格なので仮にライバルといえる実力の持ち主が現れても相手にしないかもしれないが、せめて新曲を出すたびに光に『その手があったか。先を越された。悔しい。』といわしめるような天才が出てきてくれないか。可能性があるとすれば、光の音楽を聞いて育った世代になるが、自分で自分
のライバルを育てるとか何の神話か漫画の展開かと思ってしまう。うーん、こういうのも孤独のひとつだよねぇ…。

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今光は何してるんだろうか。云う必要もないし訊く気もないけれど、毎日従事すべきものや夢中になれるものがないと気ばかり焦って精神衛生上余り宜しくなさそうかな、とな。普通に働ける人は普通に働いて募金で復興支援を、とフレーズが繰り返されているけれど、アーティストとしての活動というのは長期のリフレッシュもサイクルのうちのひとつであり、光の場合それが今12年分の蓄積による反動で無期限になっている訳で、しかしそういった観念はテレビに出ずっぱりで歌も唄っているアイドル達を横目に眺める週休2日制のオトナたちに理解してもらうのはやはり些か困難ではないかと思えてくる。あのレベルの創作を続ける、しかも(少なくとも作り手視点では)一切の捨て曲なしとなると一体その分をいつどこにどう捨ててきたんだろうか。どういう事かというとアイディアというのは無数の取るに足らないものの屍を苗床に芽を出すものであって、考慮に入れられて捨てられてゆくあれやこれやが多いほどいい。それでも更にその殆どが徒労に終わる訳で、光の
あの密度は必要な捨てる行為を宇宙の外に行っているとしか考えられない。TheBealesだって4人がかりでも曲のクオリティにバラつきがあってそれでも10年しかもたなくてうち後半はLIVE活動を引退していたくらいなのに女手ひとつでこれだけの楽曲群を育ててきたのだからアーティスト活動を控える時期が来るのは当然…なのだが、代わりに行われる"人間活動"の、その内容によっては現況にそぐわないこともあるだろうな。海外で何かを、となると誰かに嗅ぎつかれたら"国外待避"とか言われちゃうんだよ…まぁ気にしなきゃいいんだけど光本人が必要以上に気にしてるかもしれない感は否めない。帰れる家があるだけで、なんて考え始めてたら何も身動きとれなくなっていくし、一方で自分の名を冠した作品が今月来月にリリースされる、なんていう今の時期は腓返りを起こしそうな心境なんじゃないかなぁ。

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ちゃんとkajibowからツイートしてるのにIDをhikki_staffに書き換えて非公式RTしたらメンションチェックした梶さん一瞬青ざめるだろうなぁ、と思うのでそんな悪戯してはいけませんよ。

…いや真面目な話非公式RTって何なのと思う。本来なら"公式QT"が整備されて然るべきだろう。140字の制限があるから、と言われそうだが日本語ツイッターなんて1バイト文字も2バイト文字も1文字として数えてる位だから280字のツイートを実装するなんて訳もないのではないだろうか。

勿論コピペツイート(非公式RTの事)は減らないだろうが受け手が判断できる機会を与え得るのはいいことだと思う。まぁ元ツイートが消えたら"公式QT"も消えちゃうことになるのでそこがややこしいんだが。

脱線した。今日も光のツイートがあって安堵したという話。光が「被災地の人たち」と書くだけで、ほんの僅かではあろうが現地の人たちは癒やされるんでないかと思う。ファンは勿論のこと、ヒカルの名前は知っているという程度の人も「有名人に気にかけて貰っている」というのは、小さな希望のひとつになり得る筈だ。ただ、世の災禍は311のみではない訳で、どこまで踏み込むべきかの見極めはとても難しい。人名の羅列された画像ツイートをRTした時は思い切った事を、と思ったがあれは緊急時ならではか。本来ならマネージメントと相談・協議の上線引き具合を事前に取り決めとくのがいいとは思うのだが現況では光がマネージャー氏に「落ち着け父よ」と助言する事になりそうでは、ある。

光宛のツイートの中には拡散希望のみならず「そ、そんな頼み方されたら断りづらいよ」というものもあり、PCの前で「ごめんよ~」と呟きながらマウスホイールを中指でグリグリしている光の姿が思い浮かんでしまうのだが、まぁ多分ツイートを始めて半年&総ツイート数950以上なのだからある程度の自前ガイドラインは頭の中にできていると…思いたい。『勘で』という返答が返ってきそうなのでそんな質問をするのは怖いわさ。


(…いかんな。色々考えてたら当たり障りのない内容になってしまった。でもまぁ、いいか…。)

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そろそろWildLifeDVDの発売が迫ってきた。流通も生産も大分落ち着いてきたし、ここまで来れば発売再延期はないだろう。災害があったお陰で益々昨年12月の"まるで夢の中に居るみたい"度が上がった気がする。ある意味、遠くなった。今の災害の余韻も、近しい人を亡くしたり街を流されたりした人以外は徐々に、いや急速に消え去っていくだろうが今暫くはこの雰囲気だろうから、DVDを観た時に画面に映る全員(光もバンドメンバーも観客も)が"この後災害が起こるのを知らない"事に妙な距離感、疎外感を覚えるかもしれない。理不尽ではあるが、幸せな時間は幸せな人間にしか共有できない。今自分が不幸だと、人にも不幸になって貰いたいと思ってしまう。ただ、貴方が素直に幸せになりたい、幸せでありたい、幸せであって欲しいと願い祈れるのであれば、その感情の共有欲求・志向も別の所に向かい得るだろう。もしセットリストに"誰がの願いが叶うころ"があったのならば、また繋がり具合は違っていたかも
しれない。テイク5や虹色バスの童話感が夢想的な興趣を増しているし、円形のステージもその"舞台裏の(見え)なさ"が幻想美に拍車をかける。今という時期にこのライヴの映像を観ること、観れる事の幸福感を共有することには、各自少し工夫が要るかもしれない。観てる途中で余震が来たり緊急地震速報が鳴ったりしたら、その世界に戻るのはむつかしいかもなぁ。

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何でもBEST CONCEPTUAL部門と特別賞を獲得したんだとか。めでたい。本来賞の授与は(最近のノーベル平和賞のように)今後の活動に弾みをつける為に行われるものであって、無期限活動休止中の人を表彰するモチベーションは難しい所だが、功労賞的なニュアンスもあったのだろうか。模様を目撃していないから何ともいえないが。その上、有名過ぎる音楽家による初監督作品という希有で異様な立ち位置。また過去のMUSIC VIDEOを前提とした作風をどう評価するかも難しい。その点は宇多田光監督も非常に心得ていて、GBHPVの公開は過去のMV全部と同時同所公開だった。その点も踏まえると、GBHPVを核としたUTUBE全体を指して"Best Conceptual"なのかもしれない。そんな事を考えると、MUSIC VIDEO/Promotion Videoって何なのだろうという疑問が湧いてきてしまう。元々80年代初頭にアメリカでMTVの出現と共に盛り上がった世界であって、その"全国ネットの音楽映像専門チャンネル"という機構
なしには有り得ない手法だった。その為、そんなものを持たなかった日本ではMV/PVというものの立ち位置が今いちハッキリしてこなかった。確定した"居場所"といえたのは、寧ろDVDが普及して以降の初回限定版特典としての位置づけだったろう。光の場合は寧ろMV/PVを単体のDVDシングルで売るなどしてきたが、今回はSC2の付録といういわば市場の王道手法でGBHPVを提供してきた。然しメインは何といってもUTUBEであり、特典DVDを所持している向きもこちらでGBHPVを日頃見る機会の方が多いのではないだろうか。この、アーティストの歴史を網羅したサイト全体と、そのコンセプトを内在したGBHPVを核にするという構造全体でもってプロモーション媒体として完結している訳で、従来の"PV"という概念を大きく超えるものとなっている。再三繰り返すが、アーティストのオフィシャルTube自体は多くはないにしても珍しいものではない。しかし、そのコンセプト自体を一曲に封入して看板とするよ
うな自覚的構築はコンセプトとして独創的過ぎる。選者の本当の意図はわからないが、コンセプチュアルと特別賞という組み合わせは、何から何まで規格外のUTUBE feat. GBHPVに対しては至極相応しいものなのではないだろうか。

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光の英語はネイティヴであるが故に、英語で歌う事はDomesticな行為となる。寧ろ、光がInternational,Globalな感覚を持ったとすれば世界中の様々な国からMailが来る事ではなかっただろうか。それまで何の接点もないと思っていた、いや存在すら知らなかった国からのListen-to-Utada-Callは流石に光も面食らった筈である。まぁどこの国に居て何語を話していようがそれ自体で光の態度が変わる事はないだろうが、開いていないチャンネルを開けてくれる事には感謝していると思う。

で。注目したいのは彼らの多くがインターネット経由で宇多田ヒカルの楽曲を愛してくれているという事実だ。露骨な言い方をすれば、プロモーション費用をかけて日米英欧亜と世界各地で発売されたUtaDAのアルバムよりも、「日本でいちばん凄いヤツ」という事でネット経由で宇多田ヒカルの日本語曲に親しんでいった人の方が多そうだ、という事だ。

一方、勿論見逃してはならないのがKINGDOM HEARTSだ。光とPassionのみならず、Simple And CleanとSanctuaryで英語を披露していること、こちらはとても大きいと思う。いずれも、ゲームの認知度に日本語歌手宇多田ヒカルの知名度が掛け算されて、その上(比較的)耳馴染みのいい英語で歌われる曲だからだ。現時点で地球規模にウタダの名を轟かせているいちばんの原因は、やはりこの2曲にあるだろう。

そしてしかし、でも結局いちばんの必殺技はFirst Loveである。日本を含めどの国でもこの曲の人気は図抜けて高い。何故お前らは日本語の歌を唄えるんだとInTheFleshの映像が発売された暁にはみんなでツッコむことにしよう。日本でいつも聞ける"あの悲鳴"(ピアノのイントロが流れてきた時のキャー)は、感触をやや違えつつも日本以外の場所でも聞けるのである。

何だか筆が定まらないが、要するに光は今の所音楽的な面で特別Globalな意識を盛り込んでいる風ではないという事だ。周りが光をGlobalに仕立て上げているのである。当の本人はというと、どこまでも1対1の関係を崩さない。これは、どこまでも行ける(或いは、どこにも行かない)のである。もし宇宙人がやってきても光は歌を唄う事が出来るだろう。彼らが単一の意識を持つ何かである限り。その方法論があるから、光はスケールに依存しないのだ。

でもでもでも。再三再四指摘してきた通り、光は市場が定まらないとプロフェッショナルな音楽を作れない。今まで作ってこなかったというべきか。その点に於いてこの「1対1の多様な集合体」はそれ自体の変化に伴って光の音楽を成長させる生命のようなものなのだ。地球規模、という時の大きさの感覚より、この多様性の抽象的な集合体のイメージが、空間的な広がりではなく、個々の許容量の成長を軸にして光の音楽を進化させていくこのダイナミズム。問題はその時に常に「多対1」となってしまう罠に光がいつも曝されてしまう事なのだが話が複雑に成りすぎてしまうのでまた次回。

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元々邦楽は殆ど聴かない、という立ち位置からキャリアを始めた光だが、市場の雰囲気を掴む為、という仕事上の動機で触れる事は多々あったかもしれない。人によっては、その時の流行りに左右されたくないという理由で制作中はインプットを排する場合もあるが、これからの光は邦楽市場に対してどういう態度で臨むだろう。肩の力を抜いて、まぁラジオから流れてくるのとかをちょこちょこ耳にするくらい、となるのかそもそもテレビもラジオもつけない生活になるのか、他国に行くなら日本のことはたまにネットニュースで知る程度になるのか。市場の動向というのは一度目を離すとなかなか流れを掴み直せないもので、となるとそういった"空白期間"をどう埋めるか、方法論を探ってみたいところではある。然し、そういった喧騒から離れて外から眺める経験に大きくメリットがあるのなら、無理に空白期間を埋める必要もないか。世の中にはテレビで取り上げられないだけで、強力なファンベースを基盤にして力強く何十年も活動している例が数多ある。かつてテレビに出
ていた人でも、ファンクラブの維持によって昔よりも強くなっている人も居る。一度メディアに取り上げられて名を売った後は、固定ファンを相手に流行に左右される事なく歌を歌い続けられるのだ。一方、光の場合ご存知のようにファンクラブを持つつもりがサラサラなく、常に楽曲ごと、アルバムごとに勝負を挑んでくるものだから、これ以上なく名が売れているのに常に市場の動向に左右され続け得る。勿論、Popミュージシャンとしてのアティテュードを変化させて自分のやりたい事をやるって感じでもいいのだが、復帰後にそうなっているとはどうしても思えない。空白の期間の活かし方をどうするか、今から楽しみだ。尤も、それまでこの国の市場が保っているか、そっちの方が不安なのですが…。

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