無意識日記
宇多田光 word:i_
 



『About Me』の対訳の中でもとりわけ変わり種なのが

『Whatever you gave me
 I'm gonna try to give you something new
 Not something you've already chewed』

の部分の訳し方の変化だ。それぞれこうなっている。

S:
「あなたから何かを受け取ったら
 何か新しいものでお返ししたい
 過去に経験したものではなくて」

U:
『あなたから何か受け取ったら
 新鮮なお返しをしたい
 もう咀嚼したことが
 あるようなものじゃなくて』

そう、この唐突な『咀嚼』よな。噛み砕く意味の言葉がこうして現れた時の違和感が、凄かった。

確かに、原文は『something you've already chewed』なのだから、『もう咀嚼したことがあるようなもの』はほぼ直訳に近い。だから本来なら何の問題もないといえばない。なお"chew"は「噛む」という動詞で、チューインガム/chewing gum のチューである。

これをSでは「過去に経験したもの」と意訳してくれている。そう、対訳文としてはこちらの方が遥かに意味がわかりやすいのだ。前文からスムーズに読める。

それを敢えてヒカルは今回の新訳で、意訳せずに直訳的に訳した。何故なのか。

それは、前回の無意識日記にヒントがある。ここの歌詞の前段は前回取り上げた

『もう一服呑む前に
 その痛みについて考えてみて
 あなたにとって良い作用も
 あるかもしれないから』

の部分なのだ。薬を口に含むと思しき描写を受けてからの『chewed』なので、ここは咀嚼、つまり口の中で噛み砕くことを明示しないといけない。Sではここの繋がりがなくなってしまっているのだ。痛みを抑える薬を口にすることの話と、何か新しく咀嚼しなければならない経験を与える話が、歌詞の上で繋がっている事を、今回ヒカルはアピールしたかったのだと思われる。 

……ただ、ね? どうして「咀嚼」っていう漢語を使ったんだろうね? 「自分でよく理解すること」の意味の言い回しなら、普通は「噛み砕いてわかりやすく理解できたもの」みたいな言い方の方がより伝わりやすい。咀嚼って言われるより「わかりやすく噛み砕いて説明する」って言う言い方の方がわかりやすいでしょ? どうしてヒカルは「もう噛み砕いてみたことのあるもの」とかいう風に訳さなかったんだろう? そこだけは、ちょっと引っ掛かったまんまなのです私も。ヒカルさん、いつの日か、わかりやすく噛み砕いて説明してくれませんか、ね?(笑)

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




『About Me』の歌詞の題材が、当時婚姻関係にあったヒカルと紀里谷さんの二人ではなく、或いは、だけではなく、藤圭子&宇多田照實コンビのことを(も)歌っている説について前に駆け足で通り過ぎてしまった為、ここらでちらっと触れておきたい。

その説の根拠のひとつはこの箇所だ。

『もう一服呑む前に
 その痛みについて考えてみて
 あなたにとって良い作用も
 あるかもしれないから』

元の英語では『一服呑む』の部分は『you take another dose』なのでこれは薬剤か薬物のことだ。なるほど、何らかの症状を抑えるために圭子さんが服用する様子というのは想像がつく。紀里谷さんのイメージでもない。なので、そういう連想がはたらくのもわかるなぁ。

でも今回、LSAS2022で『About Me』を歌ったことで、私は別のことを考えていた。『BADモード』のこの一節だ。

『Here's a Diazepam
 We can take each half of』

Diazepam/ジアゼパムは薬品の名称で、抗不安薬として用いられるそうな。それが手許にあるよ、半分こしようね、という歌詞である。

これは『About Me』の歌詞とは対照的だ。『About Me』ではお薬で抑えようとしている『痛み』のもつ大切さを説いている。これは後にヒカルがインスタライブで唱える「元々持ってる痛みが、誰かといることで感じずにいられる」という言に於ける『痛み』と同じように思える。

一方『BADモード』では、2人で半分ずつ痛みを和らげようとジアゼパムを、お薬を服用する。それは、裏を返せば、痛みを半分こしているのだとも捉えられる。その痛みは孤独から来るものだから、孤独の感覚を分かち合おう、わかり合おうという常なる宇多田ヒカルの世界観を象徴する歌詞になっているのだなと。虹色バスで言う『Everybody feels the same』な部分だね。

もし『BADモード』で描かれたこの風景が、最近のことだけではなく、薬品名や相手が違っていたとしても、ずっと変わらないヒカルの人との接し方なのだとすれば、今引用している『About Me』の歌詞のこの一節も、圭子さん照實さんに限らない、昔からあるヒカルのやり方の事なのかもしれないなと。孤独から来る痛みや不安と、それを和らげるお薬と。自分の歌はそのどちらにでもなるのだと、よくよく知っているのかもしれないね。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )