無意識日記
宇多田光 word:i_
 



クマを光が絶賛するのは「光の名無くてもイイ」程に曲自体が独立な生命力あるからだが、となるとFoLで光がBV好むのは「私の手離れても曲が生命力を失わない」証明となったからか。i_はBVにみえた光らしさ打ち消す方向性に戸惑い(らしさ出たOVに安堵し)、巷はBVにヒカルらしさ戻ってきたと称賛した。まさに3者3様だが、打たれ強さに歓んだ人打たれた事に迷った人はいいとして3ッ目だ。一旦「昔に戻った」と大歓迎したからには次曲も昔風を期待する。タイアップなら尚更だ。光は引き続きi_考える所の"光らしさ"押し殺し作曲してる事になるのだが、そんな事あるのかなぁ?


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「ミラーが映し出す幻を」等光の曲にはタイアップ匂わす詞が時折出てくる。創作に妥協許さない光が歌の世界観壊すリスク負って迄やるべき事かと思われるかもしれないが、以前指摘した様に光は依頼なければ曲をリリースしない(「クマ除く」w)。逆にいえばタイアップ・依頼あって初めて我々が手にするような完成形の音源を仕上げる動機が生まれるのだ。音をCDにし巷に送り出す形にする労力は自分で聴くだけの為より遥かに大きいからね。上記の様に詞に関連単語挿入するのは妥協というより寧ろタイアップも又曲の完成に貢献したとの事実を謝辞として反映させた結果なんだと思う。


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