たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

必殺技と守破離

2016-05-01 03:28:38 | Weblog
 必殺技は極たまに出すからこそ必殺技なのであり、常に必殺技を出していては、敵に見透かされてしまうのは必至だ。
 そして、必殺技を常習化してしまうと、それが通じる世界でしか生きなくなってしまう。その必殺技が通じない相手に対して様々な大義名分をつけて遠ざけていくことで、現実を見ないようにしてしまうことは簡単だからだ。

 自分の必殺技がものすごいことであることを正当化するために、誰かにそれを伝授するときに1回では原理的に無理な伝え方を繰り返すことで権威化したり、些細な部分の伝統にものすごく厳しくなったりしてしまうようになる。
 この国で、「守破離」の「破離」を全く行わないことを善しとするようになってしまったのは、いったいいつからなのだろう?自分がやっていることなんて大したことない、という感覚を自覚的に持ってこそ、新しいモノを創れる。それを忘れてはいけないと思うのだ。それが新しい場所に赴くんなら尚更だ。

 "「空気」が出来上がる前に、論理を構築し、「空気」を自ら創ってしまえ"
 ただし…から始まる部分を、確かに俺は、教え忘れていたのかもしれないね。

 どんなにすごい必殺技でも、自分自身のために使っていたら、それが"たま"であったとしても、衰えてしまう。それが、世間にアジャストするための自分自身のため、なら余計にね。
 必ず誰かのために使え、とは言わないけれど、手法そのものだけで、そもそも手法を習った使い手自身に、私利私欲の心を持って臨んでも、返し技で返されてしまうだけ。それはすぐに系の崩壊につながってしまうのだ。

 でも、こういう世にいう失敗が、必ずしも悪いわけではない。
 偶然に上手く行ってしまうよりも、必然的に失敗するほうが、最終的には上手く行く。それが心から思えない人は、きっと、浪人することもなく、留年することもなく、警察に捕まったこともなく、無職になったこともなく、ありきたりな人生を無機質に周囲の価値観に反応することだけで生きてきてしまったのだろう。
 痛みを知ることは本当の意味での優しさを得ること。だからこそ人生は原理的に失敗できない。

 だとしたら、俺は、長い間、何を目的に、ここまで頑張ってきたのだろう?あなたの(いる世界の)何を変えようとして、あなたの何を守ろうとしてきたのだろう?
 どんなに時間が経ってもカワラナイ運命の中で、俺がどうにかしなくちゃ、という気持ちと、このほうがいいだろう、という冷静さが交差する。どんなに時間が経ってもカワラナイ現実の中で、安心した、という情熱と、でもなんで?、という客観性が交互にやってくる。

 その答えが具現化しつつあるとき、、本来の自分自身に戻る日が近いのかもしれない。長い年月が嘯いてしまう予感がする。
 まぁ、自然科学から学んだ必殺技は、別に、消えてしまうわけではないのだから、どんなところにでも安心して飛び込んでいけばいいのだけど。