たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

俺の価値

2015-03-11 00:57:46 | Weblog
 みんな勘違いしているが、、俺がABCグループ理論というスクールカーストの一般化を提唱している本当の理由は、こういう価値基準を否定するような事象をめちゃくちゃ望んでいるためなのである。

 社会にはあらゆる普遍的な価値基準がある。学歴、職歴、年収、業績、年齢、ルックス、、それに加えるべきものが、ノリの良さを指標にした、ABCグループというだけである。一般社会ではこのような普遍的価値基準を強要してくる。
 いかに、○○があるか?、ないか?そういう息苦しさを感じながら、自分が本当に好きな人、好きなモノ、好きな事象を選びにくくなってしまっている。

 俺は、これまで、諦めてこなかった。自分の好きだけを貫いていく気概でいるし、それが社会的にどんなに蔑められるようなものであったとしても、俺が好きなのだから、絶対に評価されるべきである、絶対により良くなる要素を持っている、絶対に達成されるはずであり、俺個人が超個人的な価値基準と俺の"好き"だけで特定していく、という立場をこれまでずっととってきている。

 だからこそ、こういう俺固有の価値基準で"好き"を選んで、実際にアプライして、無反応であるということが、もっとも傷つく。

 しかもさらに、自分のプライドや体裁を守るためのウソを、さらに誤魔化すための無反応という決定を下している臭いを感じると最悪だ。その虚栄心を重要視していきたいのなら、それなりの努力をして結果を出せばイイだけじゃないか。それを捨ててまで頑張っているところを俺が評価しているにも拘らず、一般の価値基準を持ちだして虚妄し、それゆえ外界との接触を必要以上に遮断することを意義づけるならば、すべてを捨ててアジャストすればいいのである。

 そして、そんな矛盾を抱えているくせに、より一般的な評価を得られている俺を上から勝手に評価する。
 「たかはしくんは、言い方がきつすぎる」「どうしてそういうことをわざわざ言うの?」「正しいことがいつも正しいの?」

 あんまりバカにしないでくださいよ?
 俺はもっと価値のある人間だ!!、と、つい、心の中で強く唱えてしまう。そして、そんな自分に嫌悪感でいっぱいになる。でも、俺の固有の考え方とやり方と価値基準を、実際にきちんと求めてくれる誰かに対して、もっともっと提供したくなる、そんな自分の気持ちは心地良い。

 それは、、確かに、、悲しい帰結かもしれない。所詮、俺も、一般的なマジョリティーの評価としての自分をレゾンデートルにおいてしまうのだから。

 しかし、、そうしないと、辛すぎて、俺が生きていけないのだ。

 そして、辛すぎるこの状態を課すあなたを、果たして、このまま好きでいて良いのか、と疑問でいっぱいになる。

 とにかく生き続けるために、と、求めてくれる誰かを突き放すのなら最悪かもしれないが、俺の場合は、実際に具体的に求められてはいない。"本当は","心のどこかでは","表現できないだけ"等は、すべてはプロバビリティの話であり、すべては解釈と期待の域を出ないストーリーであり、それだけのために俺だけが頑張るのはいくらなんでも滑稽すぎるわけで、滑稽なだけならまだ良いけど、生きられないほど辛いわけだから、だって実際には求められてはいないんだもん、ということを大義名分に、完全に決別していくことを、俺は正当化できる。

 だとすれば、すべてのトスと、いつも最終的には出現する"引き離さない"感についてを、お互いに、心裡留保として帰結させるのであっても、誤魔化しは一切なく、真っ直ぐさは確実に残るのである。

 そして、俺にとって有難いことに、俺個人の勝手な評価を見直しさえすれば、確実に存在してくれている求めてくれる人に対してきちんと向き合って、今できることをすることができる。しかも、おそらくは、一般社会の普遍的価値観による評価も高いとなるならば、どうしても、そのスイッチを押す以外に、俺には術がない。

 その見直した俺固有の評価基準が、一般的な普遍的評価基準からすると、やはり圧倒的なオリジナリティがあり、より良い方向に向き、それが誰よりも大好きなあなたにとっても、より良くあって欲しい、と願うことが、最後の最後、今できること、かもしれないよね。
コメント
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