たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

御伽噺が具現化して

2020-11-19 00:52:05 | Weblog
 きっと、最初に目的にしたことなんて御伽噺でしかなくて、いつしか忘れゆくもの。
 だからこそ、目的を見失ってしまったウェブページの更新頻度は必然的に下がるものだ。

 ありふれた青春の誘惑を横目に、もっともっとありふれているこの世界の理についての理解を、目の前で選び続けた日々の自分に、今になって初めて言える言葉は、感謝でしかない。それは、きれいで精緻でシンプルなのに、たいていの人からみると、汚く粗笨で複雑になってしまう。だからこそ、100人いれば100人が振り返る誘惑を無視して、よりユニバーサルな理解を求め続けた日々は、切なくて、楽しくて、有意義で、儚げなのだと思う。
 忘れてはいけないのは、多くの人にとってありふれていた光景を、俺自身もどっぷりと味わせてもらえたこと。だから、このなんとも特異な世界に身を置いても、”通常の重要さ”を損なうことがない。そして、それは、非常に有益なアイディアを届けてくれる。

 そう、あの瞬間に、もうすでに確かに死んでいるのだ。一度死なねば、客観的に視点を高めて物事をとらえることはできない。
 終わったら死んでも、、って、俺が言ったんじゃない。刹那のホンモノは、一過性だからこそ価値があり、それ自体はこの現実世界には即さない。

 あの頃、俺は、自分自身に勇気がないからいけないんだ、と思っていたところがある。勇気がないから、やれば硬い勉学に励むことで、周囲から決別できる、と。
 でも、今になって、その解釈は結局、違っていたんじゃないかと思う。手っ取り早さをホンモノだと決めつけて、何もかもを求めてしまっている自分を直観的に恐れて、それよりも他の事柄に最適化することを決めたんだと、そう思うのだ。そして、それは結果として、今現在の確かな財産になっている。稀有で尊敬すべき相手に本当の意味で最適化したからこそ、今現在、周囲に確かな信頼関係を育むことができているんじゃないかと思うのだ。

 命を運ぶ現象は、常に見たくない現実を突きつける。階段で何をしていたか、俺が見逃していないわけないよね。その瞬間に、心にある何かが急速に崩壊していき、気持ちが外に向かって行ってしまった。
 それまでの自分が「このような状態の自分にはなりたくない」と思っていた、そんな自分にどんどんなっていく。どんどん、どうでも良くなっていく。その一方で、ユニバーサルに成り立つ事柄が俺を魅了し続けた。

 一過性のホンモノに価値がないわけではない。それは綺麗な思い出として存在し続ける。
 けれど、運命のヒトと運命によって結ばれるヒトが違うように、結晶化して安定してしまえば、そこから先は、俺自身がどう思うか?が重要になり、他の誰がどう思うかはどうでも良くなってしまう。

 その意味で、15年経って、いまやっと、目的が完全にクリアになったのかもしれないね。
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