たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

涙空

2010-07-12 01:44:12 | Weblog
 『だって、そんなことで、泣ける…?なんていうか、薄いでしょ。』
 「まぁ、僕も泣けんけど。K君は、人よりも、涙の敷居が高いんですな。」
 『いや、俺だって、こういう感じで、あんなんだったときに、泣きそうになったことはあるけど、、』
 「なんで、それと同じじゃん!」
 『えー、全然違うよ。だって、それまでの、想いのかけ方が、全然違うもん。』
 「んじゃぁ、やっぱり、涙の敷居が高いよね。だってさ、単純に、別れ、ってだけで、泣いちゃう人達もいるわけだよ?」

 涙は、ものすごい変化に対して、身体が耐えられなくなったときに、出てくる、生理現象だ。身体を、泣くことによって、順応させようとしているだけ。確かに、泣いたという事実によって、多少、本当に心を動かされているんだ!、っと知ることはできるけど、それ以上じゃない。だから、泣いたからと言って、無条件で助ける、なんてことは、しない。
 なーんて、理詰めな部分が、いけないんでしょうか?(笑)

 例えば、泣くという現象によって、自分に注意が向くっということを良く知ってしまっている状態であるなら、それは、ただの、我儘だ。そんなんじゃぁ、泣いたからって、そこから違う「自分」が待っているはず、なんて、ありえない。

 そうじゃなくって、心で描く理想と違いすぎる、っと思って涙することとか、日々踏ん張って生きる中で、地道に頑張っているのに何故か報われない、ってこととか、不幸を共感しまくってしまったときとか、なら、涙そのものに切なさを感じるし、きっと明日の糧にもできるだろう。
 (注:本当に不幸な時は、涙なんて出ません。だから、不幸を共感したとき、っという風にしました。)

 でも、最近、そんな理詰めに踊らされていたかな、って思い始めている。「泣かない」っと意地張る強い心がありまくるのも、あんまりイイもんじゃない、と思ってきた。
 意見の否定すら、言葉が持つ、そのものの威力によって、ホンモノが見えなくなりそうになるとき、やっぱり、泣きたくなっちゃうし、そういう時は、無理せず、「泣かない心」捨て、弱みを見せてもイイのかも。ホンモノなら。泣くまでは、行かないけどね。

 『そういう状態なら、マジで悩んでるけど、一番悩んでる、ってほどじゃないモノで、相手の器を見てみれば、いいじゃん!?マジで悩んでるんだから、嘘じゃないし、でも、一番悩んでるわけじゃない、みたいな。』
 「…!?捻くれてるよねー、わかるけど。笑」

 誰しも、涙の数だけ素敵になれるなら、しかも、それを誰かと共有したいと思ってるんなら、そんな巧いやり方、捨てちまった方がイイ。
 したら、涙は、弱さも全部流してくれるだろう。

 (GReeeeNの「あ、ども、おひさしぶりです。」の最後の曲。
 歌詞はそこまで好きじゃないけど、メロディそのものが持っている力が凄まじく強い。特に、転調してからの威力は、ピカイチです。
 この曲も、少しだけ、懐かしくなってきた気がしました。それだけ、今をしっかり刻む、っということが、ここ数年で、出来てきているんだと思います。)
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