たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

"ジャッジしたがり"による多様性否定の問題点

2020-02-03 01:24:17 | Weblog
 世の中には、すぐにジャッジしたがる人がやたらに多いことが、可視化されてしまってから久しい。
 社会で生きていくためには、多くの選択を迫られるゆえ、ジャッジすることそのものは仕方がない。しかも、ネット社会ではすぐにオープンな世界に繋がっているため、選択肢は無限にあるように思えてきてしまう。
 しかしながら、それゆえに「手っ取り早いThreshold」を設定しやすくなってしまい、それに最適化することこそが上手に生きていくことだという価値基準になりやすい。それは、我々の社会に多くの不利益を齎すと思うのだが、多くの人はそんな危機感は感じていないようだ。

 例えば、就活や婚活に代表される「カツ」系を考えればわかりやすいと思うのだが、すぐに「手っ取り早いThreshold」をみんながみんな取りがちになってしまう。それは、年収や学歴などの比較的定量化しやすいものから、コミュ力やルックスなどの曖昧な価値基準まで様々であるが、大学受験を経験していれば明らかなように、いくら相手から選ばれても「最終的に一つしか選択できない」のに、自分が引く手数多であるかどうかの指標を目指しがちになってしまい、手段が目的化しやすい状況になってしまっている。
 その状態も長くなると、自身は選ぶ側であり同時に選ばれる側でもあるという大前提を完全に忘れてしまい、自身を”他者をジャッジすることができる側である”と無理矢理に前提にして選択しようとすることで、ジャッジされることそのものへの恐怖心がより高まってしまう。すると、みんながみんな「相手からジャッジされる前に素早くジャッジしよう」という悪手をとるようになってしまう。
 俺の率直な実感だが、昨今、老いも若きも、この「相手からジャッジされる前に素早くジャッジしよう」に最適化している人はものすごく多く、少数の人がその戦場に参加しないように身を潜めている(同じくジャッジされることが怖い)。

 俺らは、ジャッジすることに慣れていないし、ジャッジされることにも慣れていない。だから、相手を簡単に「神!」と言ってしまったり、簡単に「クズ!」と言ってしまったりする(←それはお前だろw)。
 崇拝する際にも見下す際にも過剰であり、その定量化がまったくできていないことが目に余る。少なくともTwitterでは、だいたい60点くらいかしら、という冷静な判断がされることは殆どないのだ。それは、自身がジャッジされることが怖く、その選択に対しての説明責任をいちいち求められ(てい)る(気がする)ために、誰の目にもわかりやすい判定基準を選択せざるを得ない。

 「え?なんで、あんな男と付き合ってるの?」
 「なんでそんな企業に勤めているの?」

 自己の内在が肥大化しすぎてしまったところに、”世間からの声”は届き続けるため、どんな選択にも億劫に感じてしまうようになるのだ。

 だからこそ、みんな「手っ取り早いThreshold」を簡単に達成できるような選択を求める。短期的に考えて、わざわざ説明責任が発生するような選択を取るメリットがないのだ。
 昨今、整形にしても美顔アプリにしても大流行りである。それは、「何も知らない他者にとって、最もわかりやすい」評価である"見た目"が、ものすごく重視されていることを示唆している。写真を”盛る”ことはSNSで日々行われているし、”真実”はもはや誰も知りたがらない。真実を暴こうとする人は叛逆者扱いである。
 ネット上では嘘をつく人も多い。ネット社会とリアルな社会は連続的に繋がっているから、リアルな社会でも”盛る”ことを厭わない人はどんどん多くなっている。理系の世界ですら、きちんと事実や実験結果を話そうとする人をコミュ障扱いし、「上手に矮小化しつつ、上手に盛れば、上の世代の先生たちに気に入られるのに、”そういうこと”を知らないなんて、バカ」という評価になりつつあることに、ずっと危機感を感じているが、そのことが上手にアカデミアに伝わった試しはない。みんな、見たいものしか見たがらないからね。

 時代は進んでしまったら戻らないことが常。価値観は、後戻りすることは決してないから、この価値観の行き着く先で未来を考えねばならない。
 世界(というか、中国だけどw)に目をむければ、もはや、DNAから編集してしまおうという取り組みすらある。CRISPR-Cas9ベイビーは、賢さも運動神経もルックスも、すべてをコントロールすることが(原理上は)可能だろう。ルックスに対して整形やアプリで修正したり、賢さに対して学歴等を偽ってズルをすることは、まぁそれも人生であるかもねと笑える部分もあるが、ゲノムから根本に「私が私でなくなる」という状況になりえてしまうのだ。
 それもこれも、みんながみんな、他者からのジャッジを恐れるあまり、ジャッジしたがりになり、「相手からジャッジされる前に素早くジャッジしよう」に最適化している結果である。

 じゃあ、マイナーな属性でいることは否定され続けてしまうのだろうか?みんなが好きなものを本当に心から好きな人は良いが、自分が好きなものが偶然少数派の選択だったら、我慢しなきゃいけないことは仕方がないことなのだろうか。そんなはずはないよね。だって、社会には、少数だけど必要なことは沢山ある。そもそも、必要じゃないと承認されないという前提もおかしいが。
 俺は、博士課程の不遇さを、”普通の選択”をとった友達に話すと、たいてい「でも、それは君が選んだことだからね」と上から目線で言われることが多い。みんながみんな、説明責任があまり生じない選択をして、説明責任が生じるような選択をした人に対しては"個人の自己責任"に帰着させ続けていたら、しっぺ返しがくるはずだ。

 いや、もう、しっぺ返しは沢山あったんだけどね。みんな、自分には直接関係ないや、って自分勝手に無視しているだけで。
 例えば、相模原の障害者施設殺傷事件はその末に起きたと理解しているけど、みんなあんまり問題視しようとしていないよね。マイナーであることが個人の趣味や興味や進路などのレベルであればまだ良いけれど、社会には生まれながらにしてマイナーな属性であることを強いられている人も沢山いるわけで(いわゆる”家庭の事情”なども共通に考えられると思う)、そういう人たちの人権や”生きやすさ”が、どんどん保障されなくなっていないだろうか?

 こう考えると、CRISPR-Cas9ベイビーみたいなものが、法的にも肯定化されてしまう日は近いと思う。
 きっと、「それでも多様性は担保されるよ」と、楽観視する人も多いだろうと思う。その解釈をすることは、まさに”ラク”だからね。けれど、確実に、人類としての標準偏差σは小さくなるわけで、何かの摂動に対してフラジャイルになるってことなんだけど、地球人類として、それで良いのかなぁと思う。

 やっぱり多数決というか、”みんなの意見”みたいなやつを絶対視する民主主義って、ある種の限界に来つつあるんじゃないかと思うんですよ、最近。
 そもそも、民主主義の社会のなかで、「多様性を認め合おう」って言いまくってるの、おかしい話やん。それは、”みんなのジャッジ”が可視化されていないから言える、空虚な理想論だと思うんですよね。

 かといって、民主主義以上のシステムが、実現できるかどうかどころか、理論構築すらされていないわけでして、、なかなかに厳しい時代だなぁと思うわけです。
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