たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

マシのワナ

2015-12-13 03:55:51 | Weblog
 法よりも常識や普通が優先されてしまう集団は終焉の直前であることは間違いないだろう。
 何かの権威や狡さを維持するために閉鎖的な集団であることを望み、立場を守るためなら法律を破ることも仕方ないと思い込もうとする態度は、マクロからの要請を一切無視しているし、そのマクロからの要請こそが法律であるのだから(もちろん、基本的には法はその国でしか成り立たないが、その国内でその国の法律を守るというのは人類全体の常識である)、それを破ることを正当化しだす集団に未来はない。そういう集団からは、問題を具現化してくれた哀れな人材に表面的なお礼を言って、走って逃げる他ない。

 法を破り、明らかな不正行為や時代遅れを権威のために容認するような集団はどうせ消えゆくのだから、それについてギロンしても仕方ない。問題は、こういう集団になってしまう前に、どんなシグナルが発生しているか?ということだ。

 あいつらよりはマシだ、っということに自分たちの存在意義を持ってくるような集団的態度は、その集団の存続にとって、危険なシグナルであることは間違いないと思う。色々あるとは思うが、少なくとも一つには、こう言えると思う。
 他の同じような集団よりはマシ、とか、他の何々を観てみろ!もっとひどいんだぞ!、というようなことを繰り返すことで、さらに改善できるポイントに対して怠惰な態度をとり続けていくと、やる気のある優秀な人間からその集団を去っていき、しまいには大義名分がある人間と自らの立場を守るための人間しか残らない、士気の低い集団になってしまうと思うのだ。そうすると自分たちで掲げていたはずの本質的な問いを置き去りにして、細かいどうでもいいことに終始しだし、トートロジーや本質的な問いとの接合不足を当然のことと見做してしまう。さらには、その掲げている目標を馬鹿正直に信じていた者に対して、純粋すぎる、とか、そんなこと本気にしてたの?あれは予算のためだよ、とか、それを考えてもわかるわけがないじゃないか、というような無難な大人の意地の悪い笑い声を不気味に放ち、それとともに終焉に近い集団へと転移してしまう率が高まるのだと思う。

 確かに、マシだ!、と思うことで、自分の精神状態を守りながら、前に進んでいかなくちゃいけないときは、あるにはあるだろう。
 だが、それは最低最悪の状態のときにだけ許される態度であり、昔の成功をマンネリ化させることを正当化していく集団に、どれだけの意味と価値があるというのだ?と士気の高かった人間は思うだろう。もしかしたら、~よりマシだ!、と言ってる対象以下に成り下がっている可能性すらある。

 平均場の中に入り込み、そこで無難に専門バカになっているほうが、明日の保証があるように思えるのは錯覚である。大切なのは、皆から有能だと思ってもらえる、この場所特有の無難な振る舞いとは何か?と考えることではなく、何をもってして目標を達成するための有能さを得られるのか?と、本質的にきちんと考え続けることだ。
 特に自然科学の研究なら、敵は誰かではない。敵は自然現象なのだから。理系の敵は理系、から脱却しなければ、新しいものづくりはできないのだ。この際、最初から士気が低いくだらない研究テーマなど捨て去ってしまったほうが良い。くだらないテーマであっても与えられているのだから、とりあえずは、それを論文にまとめるために頑張るのだ!というような、まるで本当に興味を持っているかのようなフリをして、研究ゴッコしてる怠惰な行為に対して、真面目にコツコツ取り組んで、とか、研究者として論文を「書く」ために、とか、体裁と耳障りの良い言葉で誤魔化して遊んでいる時間は、非常にもったいない。そして、おそらくは、環境と他人を適切に変えないと状況はカワラナイ。

 「でも、どうでもいいじゃないですか、たかはしさんの本来的な興味とは、まったくもって関係ないことなんですから」
 『いや、そうでもないよ。大きい流れを考えると、案外、あの子を一番傷つけているのは、、俺がどうでもいいと思っていた、目の前にいる怠惰な相手なのかもしれないね』
 「じゃぁ、どんな手を使っても?」
 『当然、そこまでは思わない。法を超えてそれをやってしまうアイツよりは、俺は、いくらか、マシだよ』

 っま、集団じゃなくて個人だから、いっか(笑)。
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