たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

誰からも認められるということ

2011-09-17 00:15:50 | Weblog
 まったく同じことを、行動として、したとしても、誰かと俺で、違うような感じになることがイヤだって、よく思ってきた。
 それは、誰かだったら許されるのに、俺だったら許されないみたいなシーンが多いからだって思ってたけど、、最近は逆のことも多くて、それはそれで全然イヤだなって思う。

 雰囲気でオッケー、言ってることやってることも物理的にオッケー、になれたらラクなんだけど、なかなかそれは難しいね。

 ただ、このヒト依存性で変わってしまう感じ(個体差がある)は、何をしたか、何を言ったか、だけで判断してしまうよりは、人間らしいからマシだ。
 評価というものをランキング化するならば、

 4流の評価は、物理的に、何をしたか、何を言ったかだけで判断してしまう評価。
 3流の評価は、自分の偏愛をかなり含め、どのヒトが、物理的に、何をしたか、何を言ったかで判断してしまう評価。
 2流の評価は、1~2ヶ月ほどのタイムスケールでのその人の気持ちや習慣を考慮した上で、物理的に何をしたか、何を言ったかを判断する評価。
 1流の評価は、最低ラインの物理的な言動さえ超えていれば、かなり短いタイムスケールでのその人の気持ちのみを評価対象とし、しかも、集団の地位や名誉などを守ることは考慮せず、その評価をすることによって、被評価者の物理的かつ精神的な向上を期待できうるような評価。

 だと思っている。
 一流になれているかどうかはわからないけど、少なくとも、このように頑張って評価したいと思っている。この部分の凄さや素晴らしさを知らないのは、いくら物理的に正しくても、何も意味は無いんじゃないかな。完全なロボットとして生きるなら別だけどね。

 いつか、もっともっと力をつけて、そして、力があるにもかかわらず、一流の評価をし続けられるように、頑張らないといけない。

 それが、雰囲気でオッケー、言ってることもやっていることも物理的にオッケー、ということだと思う。
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