たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

生き返る確率

2015-12-10 00:07:38 | Weblog
 人生は一回しかなく、短いんだから、今できる最善を常に行動していき、やりたいことをすぐに取り掛かってしまったほうが良い。

 よく言われることだけど、本当にそうかな?

 確かに、一つのこと始めるのか始めないのかという決定について、いつまでもノロノロしているのはもったいない気がするし、それをいざ始めてみて、自分にフィットしなかったときに、やめるという決定をするのにも、ノロノロしてるのはコスパが悪い気もする。それだけ年齢も重ねちゃうわけだし。
 一方、なんでもかんでもやってはみるんだけど、飽きるのが極端に早くて、何も長く続かない、ってのもどうかと思うわけでしょ?

 っというか、そもそも人生は本当に一回しか無いんだろうか?輪廻転生とかじゃなくて、あくまでサイエンティフィックに、本当に人生は一回きりだって、証明できる??決まり切ってる??

 必要な構成成分としての役者がすべてそろっていたときに、生命が出現する確率がどれくらいあるのか知らないけど、めちゃくちゃ少なかったとしても、圧倒的に長いスパンの時間がある。夜空を見上げれば、光でさえも、そのまさに長い時間を使わなければならないくらいに果てしなく空間は広がっている。人間が認知できないからといって(まぁ人間が認知できなくなった時点でサイエンスの話ではなくなってしまうが)、この時空間は存在しているわけだし、生命が創発するチャンスはいくらでもあるように考えるのが自然だ。
 だとすると、生命起源って、この宇宙にどれくらいの数、存在しているんだろう?これからどれくらいの数、存在しうるのであろうか?そう考えると、この人生は一回きりじゃないような気が、どうしてもしてきてしまう??どこかのタイミングで、まったく同じように、こうやってブログを書いている「たかはしけい」が出現しうるのかもしれない(出現したとして、それは俺なのか?という問題はあるのだけど)。

 そもそも、まったく新しい場所(星)でなくても、生き返る確率はゼロではないだろう。死というのは、その瞬間から平衡状態になってしまっているだけであって、そこから非平衡に戻っていく確率がないわけではない(人間が認知できる程度で考えると絶対にゼロなんだけど)。超絶的に待っていれば、可能性はある。ただ、その待っているべき時間が100億年とか、そんな短いタイムスケールなわきゃぁない、というだけである。

 量子力学のたとえ話で、机に手を思いっきりぶつけて、手がすり抜けてしまう可能性はゼロじゃない、ってのがある。あれを初めて聞いたとき、こう思ったんじゃないか?「宇宙はこれだけ長い時間を経過してきていて、これだけの空間を占有しているわけだから、宇宙史上、一回くらい、そういうこともあったんじゃないか?」ってね(前になんかで読んだことあるけど、それでも138億年とこの空間じゃ、足りないんじゃなかったかなぁ)。
 それと同じ要領で、、よーするに、俺らが認知できないだけで、死から復活する可能性がまったくのゼロというわけではないと思うのだ。

 いや、(それこそ光速でこれを書き足す必要があるが)だからって、誰も生き返ってないわけだし、私は生き返った人間だ!とか言う人はいないわけで(いたとしても確認もできないから怪しいわけで)、そう考えたところでまったくの無意味なわけだけど、、でも、この時、この瞬間の、この人生を完璧に覚えている状態で、死後、また、まったく新しい何かを始めることは、大いにありえることだと思う。もちろん、なーんにもない可能性も高いけど。

 だとしたときに、やっぱり、どちらにしても、、というよりも、余計に、今を大切に生きていく必要がある気がする。繋がってるかもしれないのだから。繋がっていないのだとすれば、たった一度きりなのだから。
 時に考えすぎて動けないこともあるだろう。時に無鉄砲になりすぎて何も考えていないこともあるだろう。それがその人の人生のなかで、それぞれ30年以上続き、後で後悔しようが、それで一生を終えることもありえるだろうが、少なくとも、そこに真剣さを欠いていてはいけない気がするのだ。

 常に「これでいいのか?後悔しないのか?」と悩み問い続けながら、行動したり思考したり、すること。短い一生の中で、それくらいしかできないのかもしれないね。
コメント
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