たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

不都合な真実

2015-12-19 03:38:48 | Weblog
 それを知れば絶対に不幸になってしまうと頭でわかっていたとしても、「不幸かもしれないけど事実なのだから」という理由で「事実を見つめる」という選択をとることは一見極めてとても難しく感じる。
 だが多くの人は極限状態で、この選択を自然ととってしまう。それは、研究者として、とか、理系として、などというトリビアルなことではなく、人というのは、幸福よりも真実を選択してしまう生き物だと思うのだ。

 だから、どうせ不幸になるってわかっているから事実は見ない、という風な帰結を選ぶよりも、まずは観てみることが大事だと俺は思う。なぜなら、どうせ、あなたはその事実を観ることを最終的には選んでしまうのだから。その最終的なことが、2年後なのか、3年後なのか、10年後なのか、100年後なのかはわからないが、結局のところ、事実を観るということに変わりはない。

 そのなかでも、まずは練習として、物理学の教科書を見つめることを、俺はオススメする(これは当然すべての人に対して)。なぜなら、それが一番確かな、古典力学からずっと積みあがっている既存の事実だからである。書店で教科書で売ってるような物理の内容は、原理的に誰でも理解できるはずである(教科書に間違いがなければ)。
 だから、どんなに難しい事柄に見えたとしても、天才じゃなくても、既存の理論は理解できるのだ(そうでなくては既存とは呼べない)。もちろん、だからといって、前々から言っているように、高校数学や高校理科が完璧じゃない状態で、いきなり(どんなに既存の理論だからとはいえ)平衡統計力学を学ぼうと思ったらちんぷんかんぷんだが、正しい順序を辿れば必ず理解できる。
 そして、それら事実を観ることについて理解できなかった時に簡単に諦めず、理解できないことをとっておきながら、前に進むことに意味がある。それを要所要所で思い出し、置いてきてしまった無理解を迎えに行く。俺はこれを繰り返しまくって、だからこそ、思考力のレベルが(拙いながらも)今の状態を保てているのだと思う。また、(原理的には理解できるのかもしれないが、様々な理由によって)自分の現状では理解できない、と事実を見つめることも、一度しかない人生、大変に意義のあることだと思う。

 だが、その素晴らしさを若いうちに体験しようとしなかった人たちがこの世にはたくさんいて、でも民主制によって枚挙的な事柄を研究として遂行することが正当化されてしまっているから、本当に重要な自然科学の研究は遂行されずにいる。それは、とてももったいないことだと俺は思う。

 そう、、その、不都合な真実は、貴女を傷つけて、毎日泣かせ続けてきたのだろう。その不幸を俺は観ないようにすることはできない。事実だから。あれから色んな景色を観て、あの頃よりも問題点は遥かによくわかっているつもりだが、、それでも具体的にどうしようもない、ちゃんと助けられていない現状は、俺自身が俺の能力に対して反省すべき点だと思う。
 だが、俺が1人ひとりの心に新たな価値観を具現的に照らしだすことによって、根源的に敵を減らしていくことはできる。世界を変える、システムを変える、というのは、即ち、1人ひとりの価値観を変えるということ。別に貴女が変わる必要はない。俺がその環境を変えるべきなのだ。

 「私はそれに何年待たされるわけ?」
 俺はこの事実から目を曝して見続けなくてはいけない。そして変えるために、圧倒的な思考力をこれからも身に着け続ける義務がある。
 短絡的な結果を得るために自分を甘やかして作業を繰り返しているだけじゃぁ、、それじゃぁ原理的に守れないのだから。
コメント
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