たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

無言の優しさ

2010-10-14 00:01:40 | Weblog
 自分のやり方についての欠点や問題点を、自らで発見し、改善して、向上しようとする人は、それだけで天才だ。俺は、これまで、そんな天才は見たこと無いし、もちろん俺自身も違う。
 だから、聞く耳を、持たなきゃいけない。でも、そうしなきゃと頭でわかっていても、本当の意味で、心からそれを受け入れることは、マジで難しい。相手が誰であっても、自らを少しだけでも否定される意見を心から受け入れるには、言う側の伝え方の術にも依るが、かなりの想いの容量が必要だ。

 っで、たいていの、僕ら一般人は、失敗してから、自分の方針を疑う。
 残酷な物理現象として具現化されてしまってから、やっと、「もしかして、俺の方法じゃダメなんじゃないかな?」って、心から思い始めるのだ。

 「K君、もう、そんなに言わなくても、良いじゃん。ダメになっちゃってるだから。」
 『ダメダメ。今、この失敗した直後にしか、言葉が身に染みないから。本当の意味で反省するのは、この瞬間だけだから。』
 【確かに。。】

 っと、厳しさと優しさは、表裏一体な部分がある。信頼関係があるからこそ意味がある言葉で、こういうのを誰でも言って良いわけではないと思うけどね。
 ただ、俺自身も、そうやって鍛えられてきたし、これからも、そうであって欲しい。っま、その前に、失敗しないように、聞く耳を持っていたいかな。

 失敗してしまってから、方針をどのように転換するかは決まりきっている。それは、まず、基礎に立ち返り、その系の教科書を読み直してみることだ。アカデミックな意味だけじゃなく、普通っぽさに関する教科書でも、受け答えに関する教科書でも、とにかく、一般的に流通されうる、無難な解答でチャレンジするに決まっている。だって、失敗した直後なんだから。

 これは、頭で解析した思考依存の行動とは、ちょっと違う。確かに教科書は思考と経験の産物だけど、教科書を使おうとしたことは、大事にしたい、慎重になりたい、って想いで、今までからしたら、すごくイレギュラーなことなんだし、感情依存。ここの解析を間違えてはいけない。
 だから、たとえ、思考ばかり使いすぎて、感情がおろそかになったせいで失敗した場合でも、感情をいかにして表現するかの教科書をそのまま実行するのが、失敗した直後は正解なのだと思う。

 こうやって、慣れない教科書を読んで、思考錯誤して、解答を提出し続ければ、どこかぎこちなくなってしまう。でもそれは当たり前のことで、その部分こそが、すごく語弊のある言い方かもしれないけど、人間らしい、ということなんだと思う。教科書使っていても、使おうって気持ちは感情依存なんだから。

 そういうことをし続けていた時の俺に対して、何も気がついてない演技を、俺の周りにいる、いた、人は、みーんな、してくれた(きっと、今も…?)。「無言の優しさ」というのは、こんな部分に定義されるんじゃないだろうか。
 皆さんの「無言の優しさ」によって、教科書をしっかり理解することが出来て、このベースがマスターできると同時に、オリジナリティーが発現し、もう1つ、ステップアップすることができる。

 俺も、こういう難しい時に、きちんと演技してあげられる人間になっていきたいと思う。
コメント (4)
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