『理系科目の試験で、一番やっちゃいけないことは、解けるかどうか微妙な問題を解くことに夢中になりすぎて、解ける問題を解けなくなっちゃうこと。試験が終わったときに、「あー、これ、本当は解けたのにーー!」ってーのは、すごく反省しないと。だから、できる問題からやれ!じゃなくって、できる問題を、全部探して、それを全部、前半に解き切ってしまえ!!
んで、後半、つまりちょっと考えただけじゃわからなかった問題については、持っている限りのカードを試してみること。どんどん発想を出して、多角的にアプローチすること。
それが、絶対に失敗しない、後悔しない、特に時間が無い時の、試験の受け方です。』
でも、その基本的なカードを持ってなさ過ぎな生徒さんが、多いこと多いこと。青チャートとか教科書に載ってる基本例題が機械的に完璧に解けることは、最低条件だ。
それは、別に、俺自身にも言えて、プログラミングをやってて、先輩に、
「なんで、そんなめんどくさいやり方するのー??」
ってよく言われる。その答えは決まりきってる。
『始めたばっかで、手持ちのカードが少ないからですよ。』
ってね。早く、カードを手に入れ切らないとっ。
そして、ある大親友の一人から(笑)、「K君は、渡したばっかのカードでも、使えるようになるの、早いっていうか、渡してすぐ使えるよね。それは才能だと思う。」っと褒められたことがある。確かに、それ、自信ある。俺の中では、インプットされたモノ、イコール、アウトプットできるモノだ。
この、俺が言ってる、試験の受け方は、非常に冷酷だ。できるだけ心を介在させないで、ただ、できることを探しまくり、確率的に点数が高くなるように、理路整然に、セオリー通りに対応することを、推薦している。どれだけ、心を介在させないか、ってのが、自然科学をやるときの基本なわけだから、っま、当たり前か。
だけど、心(感情)が、まったく関係していないわけではない。っていうか、この系の、中心は、『絶対に失敗したくない、後悔したくない、できるだけ今の力をすべて出し切りたい、合格したい』っという感情であり、心については、この想いのみを大切にして、その周りに、頭で考えた思考を飾り付けて、守り、感情の欲求に応えるため、自己実現を目指す。
冷酷っというと、コンピュータを想像しがちだけど、コンピュータは、目的が感情ですらない。ただ単に、物理現象の結果だけを必死で追い求めるものだ。人間でいうとこの、冷酷ってーのは、そうではなくって、あるたった一つの感情を、何よりも優先させ、あとは、感情を注入せず、思考のみを使うということ。
だから、このページでも、俺は冷酷をロボットと表現し続けているが、厳密に言うと、あれは違う。一つの感情に想いをかけすぎることを、冷酷と定義するのが良い。
そういう意味で、究極的な思考と、たった1つの思いつめた感情は、非常に近くて、自分自身のことですら、どっちなのか、見分けがつかなくなる。
一部、いや俺が知っている限り、たった2人は、この理路整然な冷酷さを、すべての事象に対して、いつも実行しているようだが、多くの人の場合、このようになってしまう時は、非常に重要な時か、ホンモノだと感じている時(「ホンモノの時」ではない)、そして、自分自身に対して時間的な焦りを感じている時だ。
前の2つは別として、何かの系において、自分自身について賞味期限を感じている時の、冷酷さは、見ていられないほど、醜い。重要度が高いからこそのセオリー依存なら、まだ、わかる(それも本当はいけない、ってことを、いろんな記事で書いてきた。重要度が高いからこそ、頭と心を対等に使わなきゃなのだ)。だけど、賞味期限を感じていることに行動が依ってしまい、冷酷になるのは、ある重要な点について、諦めきってしまっているから、すごく残酷な結果を生みやすい。
もちろん、時間依存性は大切だ。時間経過につれて、リスクが高くなったり、価値が得られなくなったりすることもあるだろう。それを、冷酷に、いや、冷静に、知っておくのは、とても大切なこと。
しかし、時間依存性を考えることと、自分自身の賞味期限を感じとって、その想いを深く信用することは、まったく異質のモノだ。
これは、自分だけじゃなくって、自分よりも立場の低い人達に関しても、可能性を少なくするという点で、影響を及ぼす。
あまりにも抽象的に話をしてきたので、ひとつだけ具体的な例で、はっきり言っておこう。
例えば、自分の具体的な夢を、まだ存在してもいない、自分の子供に託すのは、愚の骨頂。自分自身にとっても、まだ存在しない子供にとっても、可能性を殺すことと同値。
可能性の塊である子供を1つのことに束縛させてはいけないし、自分自身も、それじゃぁきっと、納得できない。当たり前のことだけど、自分の夢は、自分で直接掴みに行けやっ。
賞味期限切れが近いことを感じとったとしても、そこまでして、何が何でも、になっちゃダメ。だって、賞味期限なんて関係なしに、時間依存性のないモノこそが、ホンモノなんだから。
ホンモノを掴みたいことは、みんな一緒でしょ?理屈で考えたって、それは、間違ったアプローチなんだよ。
だから、大丈夫。自分の賞味期限なんて、考えなくって、良い。感じとっても、気にしなくて、イイ。
何か見えない真実を見つめたいとき、直接証明法を使うと、上手くいかない。それでは、決して見ることができない真実や予見は、掴みにいけない。
そうじゃなくって、いくつかの種類の事実を仮定し、その仮定を、そのまま系にあてはめてみる。それを、仮定を変えて繰り返し、自己矛盾がないモノが発見されたら、それが真実。
これが、真実や予見をインプットするときのポイント。
だけど、アウトプットについては、こんなに冷酷じゃ、ダメだ。
もっともっと、感情で動く瞬間が必要になる。感情と思考、両方を対等に使う必要がある瞬間も、多くなる。試験みたいなときは、理路整然なのが優秀って評価になるけど、そうじゃないケースのが、日常では多いんだからさ。
試験で例えるなら、点数を1点でももぎ取ろうとしてる人よりも、むしろ、周りが見えなくなっちゃうくらい、偶然取り組んだ、目の前の問題に、ついつい一生懸命になっちゃう人のほうが、俺は好きだな。
それこそ、インプットについてだって、もっとラフでもイイかも。特に、手持ちのカードが少ないときにはね。
例えば、
『次の電車が来るまでに、この曲が終わったら、、、うまくいくっ!』
とぉーかねっ。
んで、後半、つまりちょっと考えただけじゃわからなかった問題については、持っている限りのカードを試してみること。どんどん発想を出して、多角的にアプローチすること。
それが、絶対に失敗しない、後悔しない、特に時間が無い時の、試験の受け方です。』
でも、その基本的なカードを持ってなさ過ぎな生徒さんが、多いこと多いこと。青チャートとか教科書に載ってる基本例題が機械的に完璧に解けることは、最低条件だ。
それは、別に、俺自身にも言えて、プログラミングをやってて、先輩に、
「なんで、そんなめんどくさいやり方するのー??」
ってよく言われる。その答えは決まりきってる。
『始めたばっかで、手持ちのカードが少ないからですよ。』
ってね。早く、カードを手に入れ切らないとっ。
そして、ある大親友の一人から(笑)、「K君は、渡したばっかのカードでも、使えるようになるの、早いっていうか、渡してすぐ使えるよね。それは才能だと思う。」っと褒められたことがある。確かに、それ、自信ある。俺の中では、インプットされたモノ、イコール、アウトプットできるモノだ。
この、俺が言ってる、試験の受け方は、非常に冷酷だ。できるだけ心を介在させないで、ただ、できることを探しまくり、確率的に点数が高くなるように、理路整然に、セオリー通りに対応することを、推薦している。どれだけ、心を介在させないか、ってのが、自然科学をやるときの基本なわけだから、っま、当たり前か。
だけど、心(感情)が、まったく関係していないわけではない。っていうか、この系の、中心は、『絶対に失敗したくない、後悔したくない、できるだけ今の力をすべて出し切りたい、合格したい』っという感情であり、心については、この想いのみを大切にして、その周りに、頭で考えた思考を飾り付けて、守り、感情の欲求に応えるため、自己実現を目指す。
冷酷っというと、コンピュータを想像しがちだけど、コンピュータは、目的が感情ですらない。ただ単に、物理現象の結果だけを必死で追い求めるものだ。人間でいうとこの、冷酷ってーのは、そうではなくって、あるたった一つの感情を、何よりも優先させ、あとは、感情を注入せず、思考のみを使うということ。
だから、このページでも、俺は冷酷をロボットと表現し続けているが、厳密に言うと、あれは違う。一つの感情に想いをかけすぎることを、冷酷と定義するのが良い。
そういう意味で、究極的な思考と、たった1つの思いつめた感情は、非常に近くて、自分自身のことですら、どっちなのか、見分けがつかなくなる。
一部、いや俺が知っている限り、たった2人は、この理路整然な冷酷さを、すべての事象に対して、いつも実行しているようだが、多くの人の場合、このようになってしまう時は、非常に重要な時か、ホンモノだと感じている時(「ホンモノの時」ではない)、そして、自分自身に対して時間的な焦りを感じている時だ。
前の2つは別として、何かの系において、自分自身について賞味期限を感じている時の、冷酷さは、見ていられないほど、醜い。重要度が高いからこそのセオリー依存なら、まだ、わかる(それも本当はいけない、ってことを、いろんな記事で書いてきた。重要度が高いからこそ、頭と心を対等に使わなきゃなのだ)。だけど、賞味期限を感じていることに行動が依ってしまい、冷酷になるのは、ある重要な点について、諦めきってしまっているから、すごく残酷な結果を生みやすい。
もちろん、時間依存性は大切だ。時間経過につれて、リスクが高くなったり、価値が得られなくなったりすることもあるだろう。それを、冷酷に、いや、冷静に、知っておくのは、とても大切なこと。
しかし、時間依存性を考えることと、自分自身の賞味期限を感じとって、その想いを深く信用することは、まったく異質のモノだ。
これは、自分だけじゃなくって、自分よりも立場の低い人達に関しても、可能性を少なくするという点で、影響を及ぼす。
あまりにも抽象的に話をしてきたので、ひとつだけ具体的な例で、はっきり言っておこう。
例えば、自分の具体的な夢を、まだ存在してもいない、自分の子供に託すのは、愚の骨頂。自分自身にとっても、まだ存在しない子供にとっても、可能性を殺すことと同値。
可能性の塊である子供を1つのことに束縛させてはいけないし、自分自身も、それじゃぁきっと、納得できない。当たり前のことだけど、自分の夢は、自分で直接掴みに行けやっ。
賞味期限切れが近いことを感じとったとしても、そこまでして、何が何でも、になっちゃダメ。だって、賞味期限なんて関係なしに、時間依存性のないモノこそが、ホンモノなんだから。
ホンモノを掴みたいことは、みんな一緒でしょ?理屈で考えたって、それは、間違ったアプローチなんだよ。
だから、大丈夫。自分の賞味期限なんて、考えなくって、良い。感じとっても、気にしなくて、イイ。
何か見えない真実を見つめたいとき、直接証明法を使うと、上手くいかない。それでは、決して見ることができない真実や予見は、掴みにいけない。
そうじゃなくって、いくつかの種類の事実を仮定し、その仮定を、そのまま系にあてはめてみる。それを、仮定を変えて繰り返し、自己矛盾がないモノが発見されたら、それが真実。
これが、真実や予見をインプットするときのポイント。
だけど、アウトプットについては、こんなに冷酷じゃ、ダメだ。
もっともっと、感情で動く瞬間が必要になる。感情と思考、両方を対等に使う必要がある瞬間も、多くなる。試験みたいなときは、理路整然なのが優秀って評価になるけど、そうじゃないケースのが、日常では多いんだからさ。
試験で例えるなら、点数を1点でももぎ取ろうとしてる人よりも、むしろ、周りが見えなくなっちゃうくらい、偶然取り組んだ、目の前の問題に、ついつい一生懸命になっちゃう人のほうが、俺は好きだな。
それこそ、インプットについてだって、もっとラフでもイイかも。特に、手持ちのカードが少ないときにはね。
例えば、
『次の電車が来るまでに、この曲が終わったら、、、うまくいくっ!』
とぉーかねっ。