感情を言葉で定義することは、難しいどころか、できない。
だって、たった1つの要素である「楽しい」っていう類いの感情のみを固定して表現するんだって、不可能だ。
「楽しい」の極みの点から「つまらない」の極みの点まで、座標軸をとったとしたら、離散的にではなく、連続的に、すべての点を、感情は取りうる。それらすべてに、名前をつけることは不可能。っていうか、無限個だし。
さらに、感情は「楽しい」軸上を、揺らぎでプロットされる。超曖昧な標準偏差つきで記述されるのだ。ものすごく幅広い揺らぎであり、さらに残念なことに、個人によって、その定義と範囲が違う。
加えて、「楽しい」類いだけの感情を、つまり1次元的に、もつことは、ほとんど無い。
感情豊かな人でなかったとしても、「楽しい」し、でも「哀しい」という感情は、いくらでもあるだろう。これで、2次元だ。「喜」ばしいし、ちょっと「怒」っていて、やや「哀」しくもあり、最終的には、「楽」しい。これで、4次元空間。
人間の感情は、もっともっと、複雑で、喜怒哀楽の4つの基底ベクトルくらいで表現できるなら数式化できるかもだが、そんな単純な人間はいない。もっと複雑ないくつもの基底で表現されるはずだ。
この点、感情は、量子力学の体系と似ている。感情は、揺らぎをもっていて、無限次元空間で、記述される(量力は、粒子を無限次元の複素ヒルベルト空間内で波という揺らぎで扱う)。
ということは、あなたが、自分の感情を単純な言葉によって表現、つまり「今、すごく、楽しいよっ」などと言ったなら、それは、たとえ本当の気持ちを素直に表現したつもりでも、ものすごく複雑で大切なあなたの感情を、非常に簡略化し、あなたの中の「楽しい」という座標に収束させていることになる。しかも、聞いてくれている相手の「楽しい」の定義は違う。こりゃ、すれ違いになるに、決まっている。
自分の感情を相手に伝えているときは、まだ良い。相手の感情を、頑張って感じ取り、それを発言した場合では、最悪なケースが起きそうなことは、予想がつくだろう。
だから、気をつけないといけない。言葉は、全然、便利じゃない。言葉は、感情の複雑さの前には、無力なのである。
相手の感情を簡単に決めつけてはいけないし、それと同じように、大切な瞬間に、めんどくさがって、自分の感情を簡単な言葉で表現してはいけない。どうしても、それをしないといけない状況の場合には、非常にデリケートにならなきゃなのだ。
感情自身、そのものも、非常に難しい。理屈がないから、ギロンにならないところが、難しい。
俺もそうだけど、嫌悪なモノはいつだって、どういう理由があったって、誰の関連だって、嫌悪だし、どうしてそれを嫌悪に思うの?っと聞かれたところで、答えられない。過去のトラウマ?なんとかだから…、いろいろ言えるけど、それは違う。ただ、単純に、嫌悪っ。同様に、好き、切ない、苦しい、笑える、ぜーんぶ、理由はない。
わかりにくいかな?例えばね、今、これを読んでいるあなたが、もし数学や理科に嫌悪を感じているとしたら、この文章に対して、嫌悪感でいっぱいだと思う(笑)。いくら、定義なんだから簡単、とか、ただの言葉じゃん、ただの式、記号だよぅー、っと言っても、嫌悪感があるなら、そんな簡単な問題じゃない。それは仕方ない。でも、限りなく正確に伝えたいので、この路線でいきます。
(数学という言語は、「正確さ」における、世界一の言語です。)
さて、そんな難しい感情だけど、見抜く方法は、ある。というよりも、本当の感情を隠そうとすると、見抜かれやすい。
どんなに言葉を上手く使って誤魔化したつもりでも、感情、本当はどう想っているのか(「思う」ではないことに注意)、っていうのは、必ず、言葉や行動の端々にあらわれる。必ず、言葉のちょっとした使い方、ほんの些細な言い回しや、行動の僅かな仕草に、本当の想いがでてしまうもんだ。
そこを、何も意識せず、見抜いてくるのは、かなりの切れ者か、感情の豊かさが半端無く高い証拠だと思う。
俺は、重要シーンでしか、意識することができない。研究室訪問のときに、使いまくったから、ちょっとは、慣れたけどね。
それにしても、「言葉」は不思議。それ自身では、何もできないのに、重なると、本物の感情が見えてくる。本来のその人が、見えてくる。
「言葉」や、それの行動バージョンである「演技」を、本来の自分を偽り、誤魔化すためのモノだと、勘違いしてはいけない。そんな使い方は、むしろ、逆効果で、見る人が見れば、誤魔化された部分が露呈するだけだし、誰でも、なんとなく感じ取ることができる。
「言葉」や「演技」は、自分自身を、限りなく正確に、みんなが知っている1つの形式として、相手に伝えるための、ツールであることを、忘れないで。
そう考え、心から想えたなら、「言葉」や「演技」ほど、価値のあるモノは無い。
「言葉」と「演技」は、使い方さえ間違えなければ、本当に、大切なモノだと思う。
さぁ、本当の自分自身に自信を持って、この道具を上手に使おうっ!
…って、自信を持つ、ってーのも感情だからなぁ…(笑)。
だって、たった1つの要素である「楽しい」っていう類いの感情のみを固定して表現するんだって、不可能だ。
「楽しい」の極みの点から「つまらない」の極みの点まで、座標軸をとったとしたら、離散的にではなく、連続的に、すべての点を、感情は取りうる。それらすべてに、名前をつけることは不可能。っていうか、無限個だし。
さらに、感情は「楽しい」軸上を、揺らぎでプロットされる。超曖昧な標準偏差つきで記述されるのだ。ものすごく幅広い揺らぎであり、さらに残念なことに、個人によって、その定義と範囲が違う。
加えて、「楽しい」類いだけの感情を、つまり1次元的に、もつことは、ほとんど無い。
感情豊かな人でなかったとしても、「楽しい」し、でも「哀しい」という感情は、いくらでもあるだろう。これで、2次元だ。「喜」ばしいし、ちょっと「怒」っていて、やや「哀」しくもあり、最終的には、「楽」しい。これで、4次元空間。
人間の感情は、もっともっと、複雑で、喜怒哀楽の4つの基底ベクトルくらいで表現できるなら数式化できるかもだが、そんな単純な人間はいない。もっと複雑ないくつもの基底で表現されるはずだ。
この点、感情は、量子力学の体系と似ている。感情は、揺らぎをもっていて、無限次元空間で、記述される(量力は、粒子を無限次元の複素ヒルベルト空間内で波という揺らぎで扱う)。
ということは、あなたが、自分の感情を単純な言葉によって表現、つまり「今、すごく、楽しいよっ」などと言ったなら、それは、たとえ本当の気持ちを素直に表現したつもりでも、ものすごく複雑で大切なあなたの感情を、非常に簡略化し、あなたの中の「楽しい」という座標に収束させていることになる。しかも、聞いてくれている相手の「楽しい」の定義は違う。こりゃ、すれ違いになるに、決まっている。
自分の感情を相手に伝えているときは、まだ良い。相手の感情を、頑張って感じ取り、それを発言した場合では、最悪なケースが起きそうなことは、予想がつくだろう。
だから、気をつけないといけない。言葉は、全然、便利じゃない。言葉は、感情の複雑さの前には、無力なのである。
相手の感情を簡単に決めつけてはいけないし、それと同じように、大切な瞬間に、めんどくさがって、自分の感情を簡単な言葉で表現してはいけない。どうしても、それをしないといけない状況の場合には、非常にデリケートにならなきゃなのだ。
感情自身、そのものも、非常に難しい。理屈がないから、ギロンにならないところが、難しい。
俺もそうだけど、嫌悪なモノはいつだって、どういう理由があったって、誰の関連だって、嫌悪だし、どうしてそれを嫌悪に思うの?っと聞かれたところで、答えられない。過去のトラウマ?なんとかだから…、いろいろ言えるけど、それは違う。ただ、単純に、嫌悪っ。同様に、好き、切ない、苦しい、笑える、ぜーんぶ、理由はない。
わかりにくいかな?例えばね、今、これを読んでいるあなたが、もし数学や理科に嫌悪を感じているとしたら、この文章に対して、嫌悪感でいっぱいだと思う(笑)。いくら、定義なんだから簡単、とか、ただの言葉じゃん、ただの式、記号だよぅー、っと言っても、嫌悪感があるなら、そんな簡単な問題じゃない。それは仕方ない。でも、限りなく正確に伝えたいので、この路線でいきます。
(数学という言語は、「正確さ」における、世界一の言語です。)
さて、そんな難しい感情だけど、見抜く方法は、ある。というよりも、本当の感情を隠そうとすると、見抜かれやすい。
どんなに言葉を上手く使って誤魔化したつもりでも、感情、本当はどう想っているのか(「思う」ではないことに注意)、っていうのは、必ず、言葉や行動の端々にあらわれる。必ず、言葉のちょっとした使い方、ほんの些細な言い回しや、行動の僅かな仕草に、本当の想いがでてしまうもんだ。
そこを、何も意識せず、見抜いてくるのは、かなりの切れ者か、感情の豊かさが半端無く高い証拠だと思う。
俺は、重要シーンでしか、意識することができない。研究室訪問のときに、使いまくったから、ちょっとは、慣れたけどね。
それにしても、「言葉」は不思議。それ自身では、何もできないのに、重なると、本物の感情が見えてくる。本来のその人が、見えてくる。
「言葉」や、それの行動バージョンである「演技」を、本来の自分を偽り、誤魔化すためのモノだと、勘違いしてはいけない。そんな使い方は、むしろ、逆効果で、見る人が見れば、誤魔化された部分が露呈するだけだし、誰でも、なんとなく感じ取ることができる。
「言葉」や「演技」は、自分自身を、限りなく正確に、みんなが知っている1つの形式として、相手に伝えるための、ツールであることを、忘れないで。
そう考え、心から想えたなら、「言葉」や「演技」ほど、価値のあるモノは無い。
「言葉」と「演技」は、使い方さえ間違えなければ、本当に、大切なモノだと思う。
さぁ、本当の自分自身に自信を持って、この道具を上手に使おうっ!
…って、自信を持つ、ってーのも感情だからなぁ…(笑)。