桜井昌司『獄外記』

布川事件というえん罪を背負って44年。その異常な体験をしたからこそ、感じられるもの、判るものがあるようです。

まだ咲いてる

2015-03-03 | Weblog
先日のコンサートのとき、川上家が花束を持って来てくれた。
舞台にいるときではなくて、唄い終わってCDにサインをしているとき、三男坊のヒロが持って来た。
「舞台にいるときに渡してくれれば良かったのに!」と言ったらば「頑固なヒロを説得出来なかった」とか。恥ずかしかったんだろうな、舞台にいるときに渡すのは。
どこでも俺は嬉しかったが、今日になっても、まだ鮮やかに咲いている。

福島行きでの追伸

2015-03-03 | Weblog

昨日、開通した常磐道での放射能指数を書いたが、抜けていたことがある。
ならはPAを出発して常磐道で1番数値の高いと表示された周辺を走っていたとき、車の中での数値は1・4だったかを記録した。
確か、車外には出ないような注意もあったし、直接に空気に触れる二輪車は通行が許可されていないが、あの高さは異常だった。
あの空気を知れば、とても福島原発事故は終息したなどと言えないことが判るだろう。


呆れた人格

2015-03-03 | Weblog
先日、元判事と名乗る男から「本当は殺したくせに」と、パソコンにメールがあった。少しメールをやり取りしたが、口汚く誹謗したり、中身のないことしか書いて来ないので、もう止めたが、どうも本当に裁判官経験者みたいで、人格が破壊された人も裁判官がやれるのだと知らされ、呆れると同時に信じ難い判決が多いのも納得させられた。
先日の茨城弁護士会の勉強会では、今度は東京第一弁護士会の議論に驚かされた。「死刑制度廃止論についての疑問」だとして、「誤判の可能性を否定できない以上は死刑を廃止すべきであるというのは、誤った裁判をする可能性がある以上は、刑事裁判を廃止すべきという議論につながりそうである。法曹界は、誤判のないように最大限に努力をするべきものであり、誤判の可能性がある以上は死刑を廃止すべきであるというのでは、本末転倒である」と言うのだ。
これを読めば判るだろうが、死刑廃止論が「刑事裁判廃止論」に繋がるなどは、誰も言わないし、結び付く話でもないのに、強引に同列に並べてしまい、次は、恰かも「刑事裁判廃止論が存在するかのような、ありもしない前提」を作り上げて「本末転倒だ」と書くのを読んでは、これが弁護士を揶揄する「三百代言」の最たる詭弁だと賞賛するしかなかった。
この「死刑廃止論の疑問」を書いた人物が誰かは判らないが、この人は冤罪で死刑があっても仕方ないと思うのだろうか。きっと自分は冤罪に無関係で済み、自分が被害を被るとは思わないから、こんな乱暴なことを書けるのだろう、
自分が無実の罪で殺されるかも知れないと思えば、このようなお気楽な主張は出来ないだろう。
警察が証拠を捏造し、検察は無実の証拠を隠すのが日本の裁判だ。そして、それらを簡単に許してしまうのが日本の裁判所だ。この事実を知り、もしも自分が!もしも自分の友人が!もしも知り合いが!と思ったらば、それでも言えるだろうか。
日本の裁判村の住人たちには、異常者が多いのかも知れない。