桜井昌司『獄外記』

布川事件というえん罪を背負って44年。その異常な体験をしたからこそ、感じられるもの、判るものがあるようです。

厳罰

2008-06-30 | Weblog
刑務所は、どこでも超満員だと、かなり前から言われている。この原因は犯罪増では無い。統計的に犯罪が増えていないことは明らかだが、一般的には犯罪の増加が刑務所の人員超過を招いていると思われている。本当の原因は仮釈放が減っていることにある。
俺が受刑者になったころ、無期刑で13年くらいで仮釈放と言われていた。それが今では、30年と言われている。有期刑の最高刑が20年を超えるようになり、しかも有期刑でも簡単には仮釈放がされなくなったせいで、無期刑も長く服役するようになった。
社会的に犯罪の厳罰化を言う声が高くなったのも原因らしく、昨年の無期刑の仮釈放者は3名とからしい。厳罰化の声は、要は罪を犯すような奴は隔離しろ!ってことだ。
聖書に「汝らのうち、まず罪なき者石を持て打て」という言葉があるね。罪を犯した女性を責める民衆に対してイエス・キリストが語った言葉だ。キリスト文化は人を罪を犯す存在だと定義しているが、日本文化は違う。個人の資質と人格を原因とする。だから犯罪者に対する思いも違うように感じる。居酒屋タクシーに見られるように税金を我が物顔に浪費する公務員。昨夜、群馬県警察の元警部補だったという人から聞いた警察の公金詐欺的体質は、聞きしに優った。なぜ若手の正義感が裏金の領収書作りに巻き込まれるのか、良く判った。大阪高検幹部が検察庁の裏金など、不正を告発しようとして、その直前に逮捕された事実など、知る人は少ないのだろうね。
罪無き者と自分を意識する人は怖いね。罪を重ねていて平然と石を打てる人は怖いね。俺は若い頃に盗みの罪を犯していて良かったよ。少なくても苛酷に償いを求めないし、石を打てないから。

裁判交流集会

2008-06-30 | Weblog
昨日から熱海に来ている。全国で冤罪や解雇など、裁判をしている人の交流集会だ。
初めて来たのが11年前。これで8回目くらいの参加だろうか。
来るたびに新しい参加者に会い、事件や闘いに違いこそあれ、困難な月日を過ごしている人の思いを聞く。そして、このような闘いを生み出している日本の後進性を考えさせられる。
俺は再審の分科会に参加しているが、来ているのが10事件、30名ほどだ。
基調報告が滋賀県の日野町事件。これが、またひどい事件なのだ。何も証拠が無くて自白で有罪になったことは共通してるが、一審の裁判長が検察官に予備的訴因を追加させて有罪にした問題がある。こっそりと検察官を呼び出して、有罪にするために訴因を追加させるなんて、これは犯罪だ。しかも驚くのは、そのアンフェアな裁判官・坪井祐子が転勤を重ねて、また大津地裁に部長として戻って来たと言うのだ。
名張事件で勇名を馳せた裁判官を、よりによって布川の東京高裁に転勤させたことと言い、裁判所の厚顔、恐るべきものがある。こうでなくては事実を無視して有罪判決は書けない。
裁判官の思考は優秀過ぎて国民の常識外にあるが、裁判員制度で国民に対峙して、さあどうなるか。楽しみですな。
困難な闘いを支える支援者の誠に、本当に励まされ、力付けられた二日間。また俺も勝利を目指して頑張るだけだ。

叫び

2008-06-29 | Weblog
大崎事件という冤罪がある。ありもしない選挙違反事件をデッチ上げて全国にその名を轟かせた鹿児島県の志布志警察署が29年ほど前に作った冤罪だ。
この事件で犯人にされた一人の原口アヤ子さんは、今81才。無実を晴らさなくては死ねないと頑張っておられる。証拠も自白も無しに、共犯とされた人の嘘の自白で有罪にされたのだから、本当にひどい。
昨日は、その大崎事件の総会と原口さんの闘いを演劇にしたものが上演された。一度は再審開始決定がありながら、それが取り消されて第二次再審請求をしょうという今、彼女の味わった辛酸が、迫真の演技によって鋭く表現されていた。同じ思いを知る者として、その叫びに共鳴して涙が零れた場面が数回。原口さんに一日も早く無罪判決がありようにと祈る思いになった。
この大崎事件は犯罪では無くて自転車で深いコンクリート用水路に落下した事故なのだ。それを手荒く扱って殺したと勘違いした者がいて、被害者の家の堆肥の下に隠し埋めたから事件にされてしまった。自宅の堆肥下となれば疑われるのは家人。原口さんと夫など、三人の犯行とされた。
被害者とされた人は、用水路傍で下半身を露出してずぶ濡れで寝ていたのが目撃されている。それが不思議と思われないような大酒飲みだったらしい。
大崎事件にも真相を隠す不正がある。道端で寝ていた「被害者」の目撃情報が、たった一人のモノしか提出されていないのだ。もし目撃情報の総てが開示されたならば真相が見えるに違いない。
「被害者」を自宅に連れ帰った二人は、通夜の席で泣いて放った言葉があるそうだが、残念ながら何も話さずに他界したそうだ。
間近くなった布川事件の決定は、かなり重要な位置を占めそうだ。勝って証拠開示に道を開いて、原口さんを早く勝たせたいと、強く思った一日だった。

幸せ

2008-06-29 | Weblog
幸せになりたい!なんて言葉を聞くけど、幸せにはなれないよね。
幸せはなるとか、得るとかするものじゃないもの。
幸せは感じるだけ。感じる心があれば、例え人様が見て死にそうな苦しみの中にだって、きっと感じられる幸せはあるからね。
これ、獄中29年の俺の体験だね。

手段

2008-06-29 | Weblog
金は人間社会を潤滑に運営するのに必要な手段の一つに過ぎない。手段だから目的では無いのだが、今の社会は、まるで金が人間の生きる目的のようになっている。ここに過ちの総てがあるのではないか。
では、人生の目的は何だと言われても哲学者では無い俺には答えられないが、思うところはある。
人間は一人では生きられない。だから他人のために尽くして生きることが第一義であるべき。その中で持って産まれた能力を生かし、産まれて良かった、生きて良かったと思える月日を過ごす。人間の生きる目的は、そんなところではないかと思ってる。
でも、金が総て、金さえあれば人の心も買えるとホザクような人もいる今の時代は、そんな思いを夢想としか思わないだろう。
人の能力差はある、才能の違いは仕方がない。それが生きる差になってはならない。150キロで球を投げられる人は、更に速い球を投げられるような訓練の環境を作る。百メートルを9秒台で走れる人は、もっと速く走れるような訓練の環境を作る。勉強能力のある人には、更に能力を研ける環境を作る。どんな才能も充分に研ける環境を作るのが平等だと思う。もし、投げられない、走れない、勉強能力がない、才能の乏しい人がいたら、その人が生きて行けるに充分な環境を作る。手助けをする。
そんな社会になれば手段は手段となろう。人は一人では生きられない。隣りに一緒にいて欲しい人は、優しい人、思いやりのある人が一番じゃないか。でも、優しさや思いやりはお金にならない。本当は、そこが一番大事な人間の資質であるのに社会的に大切にされないところに問題があるのだ。
人間社会を公平で公正に運営する手段であるのが法律。なのに、その行使を歪めて真実を隠す警察や検察に困らされている俺は、手段と目的を間違えた社会の問題性を感じて仕方がない。手段と目的、間違えないで生きたいものだ。

今日は取材

2008-06-27 | Weblog
来月下旬、テレビ朝日のサンデープロジェクトが可視化問題の放送をする。
その中で自白テープの改ざんが判った布川事件も取り上げて、一部可視化でお茶を濁そうという警察と検察を批判するらしい。
我が体験から言えば、一部可視化なんて可視化の名に値しない。そんなのは調書をビデオテープに収めるだけのこと。肝心な自白の作られる過程が判らない。一番大事な部分を隠したままじゃ可視なんて言えまい。警察も検察も可視化して取り調べの全経過を明らかにするつもりはない。何しろ、彼らがやってるのは違法のオンパレード。今のやり方を変える気持ちが無いということなのだ。
裁判員制度を前に、本当に今のままでいいのか!
ぜひ裁判員になる国民に考えて欲しいものだ。

イカ

2008-06-25 | Weblog
俺はイカが好き。美味いよね、いか焼き。
前に、河津桜を見に行ったとき、屋台でいか焼きを買って食べた。美味かったんだこれが。でも、半分くらいになったら、櫛から落ちて川の中へ!
ばかやろー!だよね。一緒に行った奴が「やると思った!」なって言ったから、あときのイカ、今でも思い出すね。
そのイカ、食べられなくなるってか、高くなるよね。油が高くなって漁船が出ないと言うのだから。これっておかしくない?
アメリカの軍艦に油をタダで給油してないの、日本って。何でアメリカの軍艦に無料で給油しているのに、日本の漁船には出来ないの?
今、テレビでは原油高のニュースを流す。でも、アメリカの軍隊に油を支給していることは言わないね。
皆さんは、森田実さんという評論家をご存じでしょうか。勿論、テレビに出ていたのですから、政府の旗振り、俺に言わせれば御用評論家だけど、彼がアメリカと日本の軍事同盟に触れる批判をしたら、その後、一切、テレビには出演出来なくなっている。俺は、森田さんの評論、好きじゃない、所詮、権力の手先!って感じていたから。でも、アメリカを批判したらテレビに出られなくなるってのは凄いよね。
これが日本の現実だね。日本はアメリカの属国。独立国じゃないね。技術や製品では先進国だけど、政治、人権では後進国、いや野蛮国だね。
拉致被害者のことなど、ただ政治に利用するだけ。本当に考えていない。アメリカの言うまま、なんて政治、何時まで続ければ目が覚めるのだろうか、この日本人は。

3日目

2008-06-25 | Weblog
今日は、今月になって働いた3日目。つくばみらい市なんて訳の判らない地名になった所にある医院の花壇の改修に行った。
仕事はいいね。滴る汗。全身に感じる疲労。俺は仕事が好きなんだと、今日も判ったね。本当は、俺も働きたい。杉山のように、働くだけの生活をしたいんだよね。気楽だし。何て書くと波紋が起きるよね。
えん罪が二人と言うのは難しい。何時も比較されるんだ。こっちでなければ、あっち!ってね。まあいいか。
今月は、働けなかったな。まあ俺は再審請求に人生を賭けたし、その月日に得るものが多かったからいいんど、もう11年。決着させたい、そう願ってる。
帰宅したら、冤罪で知り合い、かかわった人からの手紙が待っていた。
その方も冤罪に係わり、幸いにも無罪となったのだが、「裁判中には言い尽くせぬほどにお世話になった」と書かれていた。へえ~!だね。何もしてない。ただ仲間に、冤罪に苦しむ仲間に出来ることをしただけ。大袈裟だよと思ったが、でも「一生友達でいたいと思っている夫婦より」と結ばれた手紙を読んで、また涙を流した。
俺は自分がしたいからしているだけ、何時も口から出るまま、俺の体験からの思いを語るだけなんだけど、それで感じてくれる人がいるのは、本当に幸せなことだ。
布川事件は41年、長いから、他の冤罪は「へえ~!」で負けるよね。俺たちが、一応は刑務所生活を乗り越えて社会に帰り、再審請求をして勝っている、しかも、検察官の抗告など、屁ともせずに闘い、でっちあげをますます証明している。この事実は、俺たちが考えているよりも大きな事実なのかも知れない。
冤罪との闘いは苦しい。正直に俺も大変だよ。でも、苦しければ苦しいほど、それを乗り越えた時に得るものは大きいと知っているからね。だから俺は、苦しむ仲間にも、俺の思いを語り、一緒に闘おうと呼びかけているだけのこと。
それだけのことを心に留めて下さり、過分な言葉を頂けるのは、やはり刑務所に行った冤罪人生の俺は、無類の幸せ者だと感じたね。
3日しか働かなくて日干し?
いや、日干しにはならないですね。社会に帰ってから米を買ったことが無いんです、無くなれば本家のお嫁さん、ヨネちゃんに電話。すると明日にはコメが貰えるのです。米さえあれば、生きては行ける。なあに、刑務所を思えば、どなことにも耐えられる、こんなに気楽に闘えるのも長い受刑生活のお蔭でしょうか。

弁護団会議

2008-06-24 | Weblog
今日は弁護団会議。
勝つか負けるか、シリアスな情勢じやないから、参加の弁護士は少なかったが、何時も通りに熱く議論を重ねた。
何時も感じるけど、弁護士って安心しないね。まだ新しい証拠を求めてるんだから、何と言うか、その執念と行動力には感謝と敬意しかない。
このところ感じるけど、再審開始決定に異議をとなえた検察庁って、甘いよね。面子があって即時抗告をしたのだろうが、時期が最高だ。来年から裁判員制度が始まるからね。社会の裁判員候補者に、裁判員になる人に、裁判官の言うことは信用できないよ、何しろ証拠を隠して良しってのが裁判官!って語り、訴えて回る。
検察官は信じたらダメ。証拠を隠して当たり前の奴らだよ!と言えるね。
で、マスコミの人に言われたね、「裁判員制度が始まる前に、総ての再審を棄却、整理して、さあ裁判員の皆さん、冤罪は無いから安心して裁判して、有罪にして大丈夫ですよ、とされる危機感はありませんか?」と。
即座に返答した。証拠のでっち上げ、改ざん、もういらないってほどに捜査官が
した不法行為が判った布川事件の再審を拒否したなら、この事実を更に宣伝して、裁判員制度が立ち居かなくなるようにしてやります。
そしたら笑ったね、それは困りますね、だって。
証拠隠しは犯罪でしょう?証拠のでっち上げ、犯罪でしょう?
普通の社会人は犯罪だと思うからね。裁判員制度には問題が多くて、それで自由に国民をコントロールできると権力者が考えたのだろうが、そうはヤワじゃないよ、国民は。
さて、どうなりますか、今日も満ち足りた1日。でした。

得れば失い、失えば得る

2008-06-24 | Weblog
刑務所は楽しかった、の中で書いた言葉だが、人生は、総てが良いとか総てが悪いとか、一方的な結果にはならない。
どんな大きな幸せや歓びでも、それを得れば失うものがある。命を削るような苦難に出会っても、それを補う何かを得られるものだ。俺はどちらも体験した。20才の秋から49才の初冬まで続いた獄中生活。その月日の長さを考えて貰えれば、俺の失ったものは判って貰えるはずだ。
両親はじめ、沢山の人。社会人として築けた歴史。何も出来ぬままに失う痛みは、それは辛かった。でも、その辛苦の毎日にもある、極細やかな喜びや楽しみを見つけながら、常に明るく楽しく過ごした。そういう意識になれば不思議と楽しみは得られた。
両親の死に立ち合えなかったのも、それゆえに、直接に知らないから、何時もどこかにいる気がしている。一番の得は、失うことに拘りが無くなったことだ。失うものがあれば、必ず何かを得る確信があるから失う怖さが無い。人間は得たい生き物。常に、何かを得るために過ごしている。だから、失うことに拘り過ぎる。
例えば、我が布川事件に於ける警察の証拠改ざん、証拠のでっち上げ画策も同じ心理。犯人と間違いました、と言えないのは、警察の神話的なムビュウ性を失いたくなかったのだと思う。検察の証拠隠しも同じこと。起訴した誤りを認めれば権威が失墜するとでも思ったのだろう。バカな話だ。
社会に帰り、自由を得たが、塀の中で生まれたような詩や曲は出来ない。善意の人に囲まれ、毎日幸せだし、満ち足りているのに、その幸せ感や喜びが、俺の中から何かを奪ったのだ。総て良しとはならないのが人生なのだ。
自殺する人の心理、それは異常なのだろう。俺には理解できないし、できるとも思わない。ただ、喪失感の絶望が引き金になるのではないか、結局、失うことへの拘りが主因になるのではないかと、ずっと考えてきた。そして、これを書き始めたのだが、果して、そうだろうかと疑問になり、川田亜子さんの自殺で書こうとした思いが、なかなか書き進まなくなった。
しかし、これだけは言える。20才で逮捕され、31才で無期懲役が確定した俺の絶望を考えて欲しい。あれからの月日、それを乗り越えて来て、まだ冤罪と闘ってはいるが、沢山得られた喜びを知って欲しい。どんな絶望も乗り越えれば思い出になる。生きていれば変わる、変えられるのが人生だ。
死なないで欲しい、生きて欲しい。自殺は何も生み出さないのだから。