朝起きると、必ずテレビをつける。連れ合いも「好きですねえ」と、呆れて言うが、好きなんだから仕方がない。でも、新しい住まいになって、少し変わり始めた。
まず、新聞を読む。
朝日、毎日、読売、それに赤旗。順次読んでいくのだが、そうとは感じていたが、新聞によって視点も論調も違うね。もちろん、社会のカナリヤ的存在の赤旗が書く鋭さは、他の商業紙には求めようはないが、それでも、こうも各紙で違うものかと感じる。
今朝は毎日の「視点」野沢記者に言いたい。こう無批判に「村木さんのまいた種」を書いて、何も感じないのだろうか。
いや、村木さんの行動を言うのではない。「共生社会を創る愛の基金」も、村木さんらしい素晴らしい行動だ。でも、この記事の中身は、村木さんの行動を汚しはしまいか。
長くなるけども引用するが「あたかも常に有罪そのものを目的とし、より重い処分の実現自体を成果とみなすかのごとき姿勢となってはならない。我々が目指すのは、事案の真相に見合った、国民の良識にかなう処分・相応の科刑の実現である」と、その設立記念シンポジュウムで語った人がいて、それは林真琴最高検検事だと言うのだ。
しかも、今までの悪しき検察を創り上げて来た張本人の但木敬一元検事総長が、この「基金」の理事として名を連ねていると言うのだから呆れ返った。
これはブラックジョークの世界としか、俺には思えない。なのに、無批判に検察の「空念仏」を紹介する「視点」を読むと、昨年9月に笠間雄治検事総長が公表した「検察の理念」が、あたかも検察の実務として行われているごとき錯覚をさせることになると感じたね。
検察のやっていることを見れば、笠間さんの公表した「理念」は、社会の検察批判を逃れるための手段でしかない。「福井女子中学生殺し事件」「東住吉事件」「東電OL殺人事件」「名張事件」など、冤罪裁判で行っている見苦しい抵抗は、何も検察は変わっていないことを示している。
村木さんを犯人にしようとした連中が、したり顔で「村木さんの善意」に顔を出して、平然と社会を欺く虚言を振り撒き、それを無批判に新聞が書く。
この連鎖が冤罪において、「真実と正義」を社会に隠す力になっていることを認識して欲しいものだ。