スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

東日本大震災被災地支援松山記念&補足

2012-03-13 18:57:17 | 競輪
 ダービーは終りましたが年度末に向けて記念競輪が続きます。今日は松山記念の決勝。並びは武田-飯嶋ー兵藤の関東,小嶋-浅井で中部,稲垣には渡辺で渡部と菅原が単騎を選択。
 小嶋が前受けし,稲垣が3番手,菅原が5番手で6番手に武田,渡部が最後尾という周回。残り2周のホームで武田が上昇すると小嶋は早めに引き,渡部まで4人が前に。バックで今度は稲垣が上がり,打鐘で武田を抑えてスローに落として先行態勢。小嶋が早々に勢いよく巻き返していったのですが,武田と菅原が3番手を争うようなところ,その菅原がやや外に来て,接触してしまい小嶋,菅原,浅井の3人は落車。稲垣,渡辺,武田,飯嶋,兵藤で一列。渡部は落車を避けるのに精一杯で競走は続行したものの圏外。稲垣の掛かりがよかったか武田はなかなか動けず,直線で外を追い込むようなレースに。しかし稲垣と渡辺の中を割った飯嶋が突き抜けて優勝。武田が2着で栃木茨城でワンツー。マイペース先行となった稲垣が粘っての3着。
 優勝した栃木の飯嶋則之選手は2008年8月のふるさとダービー以来となる久々のグレードレース制覇。その半年前に奈良記念で優勝していて,これが通算3勝目。年齢面から考えても,なぜ落ち込んでしまったのか少しばかり不思議でした。突き抜けた勢いはかなりのものがありましたから,これが復活への狼煙となるのでしょうか。

 第二部定理四四系二証明の後で,スピノザが補足として述べていること,あるいはスピノザ自身にしてみれば,これもその証明の範疇に入るのかもしれませんが,その概略というのはおおよそ次のようなことです。
 まず,理性の基礎というのは共通概念です。これはスピノザによる理性の定義を含んでいる記述ですから反駁する余地がありません。次に,第二部定理三七によって,共通概念というのは個物の本性というのを説明しません。いい換えれば,個物が現実的に存在するとき,その個物が持続するといわれるような性質を含みません。なので共通概念というのはそうした現実的に存在する個物の持続とは関係なしに認識されなければなりません。つまり,それは持続という観点から説明することが不可能な概念であるというわけです。よってそれは持続ではなく永遠という観点から説明されなければならず,あらゆる事物についてそれを永遠という観点から認識することが理性の本性に属さなければならないと主張するのです。
 僕はこの主張自体には別に反論するつもりはありません。ただここには,個物の本性というものをどのように考えるべきであるのかという,別の種類の問題が介入していて,しかもこのことが,現在の考察と大きく関連してくるように思うのです。というのも,第二部定理九というのは,個物の結果と原因の関係の無限連鎖を示していますから,このときにその個物自体の本性というのをどのようなものとして理解するべきであるのかということは,非常に重要なことであると考えざるを得ないからです。
 実は,現実的に存在する個物の本性のうちに,その個物が現実的に存在するものであるということ自体,いい換えれば個物は一定の持続のうちに存在するものであるということ自体が,属するのかどうかということは,スピノザの研究者の間でもその見解が分かれるのではないかと僕は考えています。たぶんといって,断定することができないのは,この点について詳しく分析している研究というのが見当たらないからです。ですが,確かに属すると考えれば考えたで,また属さないと考えれば考えたで,それぞれに困難を発生させるように僕には思えます。
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NOAHの旗揚げ&第二部定理四四系二証明

2012-03-11 18:27:05 | NOAH
 名と実のうちの実の方を選択したというのが,三沢光晴の全日本の退団,そして新団体の設立の理由であったというのが僕の理解です。しかしそのときに三沢が,自らが設立する新しい団体が,NOAHのように大規模なものとなると想定していたかといえば,どうもそうではなったようです。仲田龍は『NOAHを創った男』の中で,自分が三沢と行動を共にすることは決めていたけれども,実際に設立する団体はもっと小規模になるだろうと思っていたといっています。
                         
 一方,三沢自身は自伝である『船出』において,自分が全日本の役員を辞任して退団したのは個人的な問題であったといっています。しかし多くの選手やスタッフもそれぞれの意志で集結したので,新しい団体を旗揚げすることにしたといっています。
                         
 ふたりの言い分には齟齬があるようですが,実際にはそれほどの相違があるわけではないと思います。というのも,三沢は自分が全日本を退団するとしても,プロレスラーをやめようと思っていたわけではないと思うのです。ですから場合によっては,新しい団体を旗揚げしなければならないということも,まったく頭の中になかったということはあり得ないでしょう。しかし,団体を設立するのであれば,ある程度の数のレスラーやスタッフも必要で,その条件が満たせるかどうかは本当に分かっていなかったのではないかと思います。実際,仲田がいっているように,少なくとも実際にそうなったように多くの人間が自分と行動を共にすることは考えられなかったのでしょうし,この点については,和田京平も『読む全日本プロレス』の中で,三沢も仲田もそれは考えていなかっただろうと指摘しています。
                         
 こうした事情から,三沢が,場合によってはフリーのレスラーとしてプロレスを続けていくということも想定したとしても,それは不思議なことではありません。しかしいざ三沢が全日本を退団すると,所属していたレスラーのほとんど大部分と,社員として全日本プロレスで働いていた人たちがついてきました。実は僕はこの点で,三沢というレスラーを高く評価しているのです。
                         

 第二部定理四四系二というのは,それだけでみるといささか茫洋としていて,そこでスピノザが示そうとしている事柄を十全に把握することが困難であるという印象を僕自身は抱いています。しかしここに立ちこめた靄は,続くスピノザによる証明Demonstratioによって,すっきりと晴れ渡ることになります。
 この系Corollariumの証明のために最も重要なこと,それは精神mensが理性ratioによって何事かを認識するcognoscereという場合には,それはその何事かを十全に認識しているのだということです。これは『エチカ』における理性の定義Definitioから必然的に帰結しなければならないことですから,それ以上は説明のしようがありません。いい換えれば第二部定義四第一部公理六により,理性による事物の認識cognitioというのは,その事物,すなわち観念の対象ideatumについて,その事物自体がある通りに認識するようなあり方なのです。
 しかるに,第二部定理四四は,どんな事物であったとしても,それを必然的なものとして認識することが理性の本性naturaに属するということになっています。ところがどんな事物の必然性necessitasも,第一部定理一六からして,神Deusの本性の必然性そのものでなければなりません。そしてその神の本性の必然性というのは,永遠aeterunusから永遠にわたっての真理veritasです。いい換えれば,神の存在existentiaは第一部定理一一の第三の証明から明らかなように,ただ単に神の定義から,つまりは神の本性から帰結します。よって第一部定義八によって神は永遠であるということになるでしょうが,神が永遠であるということは,第二部定義二によって,神の本性も永遠であるということを同時に意味しています。したがって神の本性の必然性というのも,永遠なものとして理解されなければなりません。ゆえにどんな事物であったとしても,それを必然的なものとして認識するということは,要するにそれを永遠なものとして認識するということと同一でなければならないということになるのです。
 これで,事物を永遠という観点から認識するということが,理性の本性に属さなければならないということは証明されていると僕は考えます。しかしスピノザの証明はもう少しだけ続いていて,ここが現在の考察との関連では重要ですから,そちらも見ておくことにします。
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王将戦&第二部定理四四系二

2012-03-09 18:37:34 | 将棋
 河津桜で有名な静岡県河津町で指された第61期王将戦七番勝負第五局。
 佐藤康光九段の先手でしたので久保利明王将はごきげん中飛車に。この将棋も③☗4八銀。後手が角頭を放棄して美濃囲いに組むことを優先したので,先手がその銀を進出させ,2筋突破を図る将棋になりました。
                          
 これが封じ手の局面で,☖3一金も検討されていたとのことですが,僕には実戦の☖3三銀の一手のように思えました。先手は☗2八飛と逃げ,☖2七歩☗同飛☖2六歩☗同飛☖2五歩の連打。そこで☗3三成銀と取りました。対して☖同桂もないことはないと思いますが,わざわざ連打したのですから☖2六歩と取るのは普通でしょう。☗3ニ成銀はこの一手。☖2八飛の王手に☗6八金上で受け,後手は☖2九飛成と取って,駒割はほぼ互角になりました。
                          
 ここで☗4二銀と打っていった局面は午前中に観たのですが,深く読む時間はなかったもののこれは先手がやれる変化になっているのではないかと思いました。実際にそうであったようで,この後,6筋からかなり手厚く攻めた先手が後手をほぼ圧倒しています。
 4勝1敗で佐藤康光九段が新王将に。谷川九段の理事就任に伴い,棋士会長となり,かなり忙しいようですが,その中でのタイトル獲得は立派だと思います。
                          

 第二部定理四四にはふたつの系Corollariumがついています。ここでは第二部定理四四系二の方を援用します。
 「物をある永遠の相のもとに知覚することは理性の本性に属する(De natura Rationis est res sub quadam aeternitatis specie percipere.)」。
 理性Rationisによる事物の認識cognitioは第二種の認識cognitio secundi generisであり,これは第二部定義三説明における概念conceptusでなければならず,知覚percipio,perceptioではありません。したがってそもそもある知覚が理性の本性natura Rationisに属するということ自体が,スピノザの哲学においては本当は不条理であると僕は思います。したがってここは知覚するpercipereではなく概念するconcipereといわれなければならない筈です。これはおそらくスピノザの用語の使用法のルーズさがもたらしたものと思われますので,ここではこの知覚するというのを,広く認識するcognoscereという意味で把握することにし,これ以上は問題とはしません。ただ,前回の考察で指摘したように,共通概念notiones communesの認識というのは,概念であるとも知覚であるとも,いい換えれば精神の能動actio Mentisであるとも精神の受動passioであるとも解釈すること自体は可能であるような認識ではあります。したがってこのこともまた,マシュレPierre Machereyと僕との懸隔の一因となっていると考えることはできるでしょう。いずれにしても僕自身はこれを人間の精神の能動と考えているという点は注意しておいてください。
 この定理Propositioでいわれている「永遠の相aeternitatis specie」というのが,スピノザの哲学における特別のことばであるということ,あるいはある意味においてはスピノザの哲学を代表するようなことばのひとつであるということは,かつて示した通りです。このうち,相と訳されている部分は,ラテン語ではspecieとなっていて,spesiesというのは相とか観点といったように訳されることばのようです。ようですというのは,僕にはラテン語の知識がほとんどありませんから,岩波文庫版の訳者である畠中尚志の訳注からの受け売りです。しかし,その訳注によれば,これをもっと別のことば,具体的にいえば種類ということばに訳すべきであるという説を主張した学者がいて,議論となったようです。詳しいことはその訳注に書かれていますからそこをお読みください。僕は畠中尚志に従い,あくまでもこれを観点という立場で理解します。
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TOKYO MX賞東京スプリング盃&第二部定理四四

2012-03-07 18:45:05 | 地方競馬
 次の開催からナイターとなる大井競馬。この冬ラストの昼間開催のメーンは第3回東京スプリング盃
 再内枠を利してバトルファイターの逃げ。わりと早めに先頭に立ちましたので,最初の600mが35秒3と,ミドルペースといってもいいくらいのものになりました。このためファイナルスコア-,セントラルコースト,フジノウェーブ,ダイワディライト,ディアーウィッシュ,リアライズノユメ,ネイキッド,イーグルショウといったあたりまで,前の集団がごった返しての追走に。
 直線に入ると粘るバトルファイターを,わりと内目を捌いて出てきたフジノウェーブが楽々と交わし,あとは抜け出して3馬身半もの差をつけて快勝。バトルファイターが一杯に粘って2着。3着は馬場の外目を中団から伸びたセイントメモリーとイーグルショウの争いとなり,一旦はセイントメモリーが前に出ていたのですが,内からまた差したイーグルショウ。
 優勝したフジノウェーブ昨年のこのレース以来の勝利で,南関東重賞は6勝目。第1回の覇者でもあり,このレース3連覇です。ほかに重賞でも2勝。ここはどの馬が1番人気になるのかすら予想が困難なレースでしたので,これだけの差をつけて勝ち馬が出たのは個人的にやや意外。もちろん能力的には勝つだけの力があるというか,最上位と思われますので,10歳とはいえ,順当な勝利といえる面もあります。勝ちタイムは昨年よりも遅いくらいで,現時点の能力を十全に発揮したら,ほかの馬が意外と走れなかったというところでしょうか。半兄に重賞1勝のキネティクス
 騎乗したのは大井の坂井英光騎手で,昨年の船橋記念以来の南関東重賞制覇。東京スプリング盃は初勝利。管理しているのは大井の高橋三郎調教師で,こちらはこのレース3回ともすべて勝ったということになります。

 第三種の認識に関して,これを論理的に考察していくということには困難が伴います。あるいはそれ自体が語義矛盾であるともいえるでしょう。よって,あくまでも第二種の認識との関連で探求していかざるを得ません。しかし第二種の認識というのは共通概念を基礎とした認識であって,第二部定理三七から,あくまでもある個物の十全な観念というわけではありません。いい換えれば,人間の精神のうちにある共通概念があって,この共通概念を基礎としてその人間が何事かを概念するのだとしても,そのことを第二部定理九をそのまま用いることによって説明することは,実は不可能であるということになります。したがって以下に進める僕の考察は,あくまでもこの様式に則していると考えられなければならないと僕が理解する限りでの,人間の精神による事物の概念,第二部定義三説明における意味での概念であるということになります。そしてたぶんこのことは,スピノザの哲学の全体を通していうならば,非常に重要なことだと思いますから,誤解を避ける目的から,さらにこの点について,『エチカ』の他の部分も援用しておくということにします。まずは第二部定理四四です。
 「事物を偶然としてでなく必然として観想することは理性の本性に属する」。
 この定理というのは,理性が第二種の認識であるということに注意するなら,それだけで帰結するといっていいでしょう。すなわち,理性による事物の認識というのは,ある十全な観念が形成されるということを意味します。したがって第二部定義四により,事物の真の観念が形成されるということになるのです。つまりその観念は第一部公理六によってその対象ideatumと一致します。しかるにあらゆる事物は第一部定理一五により神のうちにあります。そして神というのは第一部定理一一により必然的に存在します。よってあらゆる事物の存在は必然的です。そしてこのことは事物の存在にだけ適用されるのではなく,第一部定理二六により,事物の作用にも適用されなければなりません。いい換えれば事物の存在も作用も必然的です。よって理性の本性には,事物の必然的な認識が属していなければなりません。
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棋王戦&第三種の認識

2012-03-05 18:22:44 | 将棋
 漁港で有名な静岡県焼津市で指された昨日の第37期棋王戦五番勝負第三局。
 郷田真隆九段の先手で久保利明二冠のごきげん中飛車。③☗4八銀に。この手に対する後手の対応策が最近は二種類に限定されつつあり,ひとつは左銀を繰り出して4筋で銀が向い合う形で,もうひとつが玉の囲いを優先して☖4四歩と突く形。この将棋は後者となり,先手は左の銀の方も進出して5筋の歩を狙いにいきました。
                         
 このままですと歩を取られていけませんから☖5六歩。☗同歩☖同飛で銀取り。☗4八飛と受けました。☖5一飛では抑え込まれるとみた後手は☖6六角と切り,☗同歩に☖4五歩。これは取れませんから☗5七銀の一手で☖3六飛と転換。次に☖2六飛の狙いがあるので先手は☗2八飛と先回り。後手はいきなり☖3七銀と打ち込み,☗同桂☖同飛成と進めました。
                         
 第2図は角桂交換で先手の駒得。これに対して龍を作っているというのが後手の主張。ただ,実戦の展開はこの龍が働きに乏しく,むしろ狙われる駒となってしまい,最終的に飛車との交換となりました。つまり駒損の不利を挽回するだけの主張点ではなかったようで,後手の作戦が失敗しているようです。久保棋王は早々に悲観していたようで,はっきりとした終盤戦には至らぬ段階で投了となりました。
 郷田九段が先に2勝目をあげて棋王奪取に王手。金曜日の順位戦で敗れ,A級からの陥落が決まった久保棋王は,王将戦に続いてこちらもカド番に追い込まれました。しかしここからが棋士の本当の正念場で,力のみせどころではないかと思います。注目の第四局は17日です。

 続いては,現実的に存在する人間の精神mens humanaが,必然的にnecessario個物res singularisを概念するconcipere,概念と知覚とを厳密に分節した意味において概念するのかどうかを探求していきます。
 このことが,『エチカ』において示されているか否かと問われるならば,僕は示されていると答えるでしょう。ただしそれは,主に第三種の認識cognitio tertii generisとの関連で示唆されているというのが正確であると思います。第三種の認識についてスピノザは直観scientia intuitivaといっています。しかし,人間がある個物を直観的に認識するcognoscereというのでは,現在の課題を解消するのにはいささか無理があるようにも思います。というよりも,第二種の認識cognitio secundi generisが理性ratioといわれるのに対して,第三種の認識は直観といわれているのであって,直観に依拠して何らかの事柄を認識するというのは,それを理性的に認識するような仕方では説明が不可能であるということが含まれてしまっているともいえるでしょう。
 『エチカ』において,個物の概念conceptus,すなわち個物の十全な認識というのが,そのように直観に依拠するような仕方で説明されているのには,明確な理由があると僕は考えています。スピノザはさらに第一種の認識cognitio primi generisも含め,これら人間の精神の認識作用について,第二部定理四〇備考二でまとめて説明しています。このとき,理性といわれる第二種の認識は,共通概念notiones communesを基礎とした認識といわれているのに対して,第三種の認識というのは,神Deusの属性attributumの本性essentiaの十全な観念idea adaequataを基礎として,個物の本性の妥当な認識へと進むとされています。
 ここで重要なのは,共通概念の認識というのが,個物の認識とは異なるということです。このことは第二部定理三七から明白です。すなわち共通概念は十全な観念ではありますが,個物の本性というのを構成するというわけではありません。しかるに第二部定義二により,ある個物を十全に認識するということは,まずもってその個物の本性を十全に認識するということでなければなりません。よって,共通概念の認識というのは,それがどんな共通概念であったとしても,それが共通であるというまさにそのことによって,個物の十全な認識ではあり得ないのです。したがって,この場合の探求には,別のルートを探索しなくてはならないでしょう。
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東日本大震災被災地支援日本選手権競輪&知覚の必然性

2012-03-04 19:08:29 | 競輪
 ダービーは関東地区か南関東地区で実施されることがほとんどなのですが,今年の第65回日本選手権競輪は熊本競輪場。これが幸いして29日の雪に影響されず,順延もなく日程通りに今日の決勝を迎えることができました。自力型が揃っての並びは山崎-成田の福島,鈴木-岡田ー長塚で東日本,深谷には園田がマークして西日本,小嶋と村上は単騎を選択。
 スタートは成田が決めて山崎の前受け。3番手は深谷でしたが小嶋を入れて4番手に。6番手は鈴木で村上が最後尾という周回に。鈴木は打鐘前のバックでようやく上昇開始。十分に深谷を牽制してから打鐘過ぎに前に出て,ホームは一旦は流してから先行。村上が続き前で待っていた山崎がその後ろ。小嶋がいて深谷は8番手。深谷も村上も動いたのですが,前には届かず。最後に発進した山崎が大外から捲り,この勢いをもらった成田が内目に突っ込むと,鮮やかに突きぬけて優勝。大外の山崎が2着で福島のワンツー。バック最後尾からインを回り,一旦は成田より前に出た園田ですが,直線の進路をその成田に奪われる形で3着。
 優勝した福島の成田和也選手は昨年は8月に富山記念で優勝。5月には風光るを制していてGⅠは2勝目,ビッグは3勝目。これは深谷に力を発揮させないためですが,鈴木がかなり遅めの上昇となり,結果的に山崎がいい位置を回ることができたのが幸いしました。そういう意味ではさっと出て誘導の後ろに入った作戦が功を奏したといえるでしょう。最後まで山崎をマークしていては届かなかった筈で,インに斬り込んだ判断も的確なものであったと思います。
                         

 現在の課題との関係でいえば,まだこれだけでは不十分といえる側面が残っているということも事実です。なぜなら,人間の精神第二部定理一七の仕方で外部の物体,すなわち神の延長の属性の個物を認識するならば,これはその人間の精神がその個物を知覚している,概念と知覚とを明確に分けた場合の意味で知覚していることになりますが,これはあくまでも,この様式で認識を行うならばという仮定にすぎない面があるからです。実際に必要とされているのは,人間の精神が現実的に存在するならば,その精神が必ず個物を知覚するということです。いい換えれば,第二部定理一七の様式の個物の知覚が,現実的に存在する人間の精神には必然的に生じるという結論を得なければなりません。そして確かにこのことは,第二部定理一七それ自体のうちには含まれているとはいえないでしょう。
 実際にはこのブログにおける考察においては,こうしたことはたびたび起こっています。そしてそれはいつも同じ仕方で解決されています。毎度おなじみでしょうが,ここでも同様の仕方を採用します。
 『エチカ』岩波文庫版117ページの第二部自然学②要請三によれば,人間の身体は外部の物体によってきわめて多様の仕方で刺激されます。したがって,もしもある人間の身体が現実的に存在するという場合には,この身体は外部の物体によって必然的に刺激されるということになります。いい換えれば,そうした外部の物体による刺激から,現実的に存在する人間の身体というのは逃れることができないということになります。しかるに,もしも外部の物体がそのように現実的に存在する人間の身体を刺激するのであれば,その人間の精神はその外部の物体を現実的に存在するものと認識する,すなわち表象するというのが,第二部定理一七でいわれていることなのです。よって,現実的に存在する人間の身体が,外部の物体からの一切の刺激から逃れるということが不可能なのですから,現実的に存在する人間の精神は,何らかの外部の物体を必然的に表象するということになります。したがって,人間の精神が現実的に存在するなら,その人間の精神は必然的にある個物を知覚するということになるのです。
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名と実&人間の精神の知覚

2012-03-03 18:20:04 | NOAH
 『NOAHを創った男』の巻末には,この本の著者のひとりである仲田龍と,『読む全日本プロレス』の著者である和田京平との対談が掲載されています。和田が著書に書いたような理由から,進む道は互いに異なってしまったわけですが,別にこのふたりの仲が険悪になってしまったというわけではありません。三沢や仲田と元子夫人との間にははっきりとした確執があったと考えるべきだろうと思いますが,和田と仲田はもちろん,和田と三沢との間でも,そうしたことはなかったと考えるのが自然だろうと思います。
                         
 この中で和田京平が,馬場が残したプロレスを続けているのはNOAHであるという主旨の発言をしています。要するに全日本プロレスという団体は,名前は残っているけれども,それは以前の全日本プロレスではなく,実質的に全日本プロレスといえるのはNOAHの方であるということでしょう。つまりNOAHが旗揚げされ,それ以前に全日本プロレスに所属していた選手のほとんどがそちらに移籍してからは,全日本プロレスは名と実とに分裂してしまったということです。
 これは,現在の僕の感覚と非常に似通ったものがあります。僕はプロレスキャリアの初期の頃から,新日本プロレスよりは全日本プロレスの方を好んで見ていまして,それは馬場の死後も変わることはありませんでした。しかしNOAHの旗揚げ以降は,全日本プロレスからは離れてしまい,むしろNOAHの方ばかりを見るようになっていったのです。それは僕自身の中に,僕自身がずっと見続けてきたプロレスは,NOAHの方であって,旗揚げ以後の全日本プロレスの方ではないという感覚があったからです。つまり僕の認識の中では,かつての全日本プロレスは今のNOAHなのです。
 三沢は自分でやりたいことがあって全日本を離脱しました。これは,いい換えれば実のために名の方を捨てたということだったと思うのです。そして名と実とが分裂せざるを得ないような状況となったときに,実の方を選択するのは,プロレスラーとしては当然のことのように僕には思えます。そのように理解すれば,新団体の設立は,ある意味では必然であったといえるかもしれません。

 ふたつの場合のうち,どちらかといえば簡単に示すことができるのは,人間の精神のうちに個物の混乱した観念は発生するということ,いい換えれば,人間の精神が個物を知覚するということの方だと思いますので,先にこちらの場合から考えていくことにします。
 『エチカ』において人間の精神による個物の知覚について,最も明瞭に示しているのはいうまでもなく第二部定理一七です。これは人間の精神による外部の物体の表象,表象という認識について示された定理です。このとき,外部の物体というのは,第二部定義一により外部の延長の個物という意味ですから,これが人間の精神による個物の認識であるということは間違いありません。そして第二部定義三説明の内容と,第二部定理一七そのものの記述内容とを照合すれば,これが人間の精神による外部の物体の知覚,概念ではなく知覚であるということも明らかであると思います。
 なお,このブログにおける用語の使用法の上でひとつ注意しておきますが,今回の考察で僕が知覚といっているのは,あくまでも概念と知覚とを分類した上での知覚という意味です。表象についていうなら,僕は表象の種類のひとつとして知覚というのがあるといっているのですが,その意味における知覚ではありません。表象の種類としての知覚というのは,概念と知覚とを分けたときの知覚のひとつの形態です。つまり大きな意味での知覚とさらに限定された意味での知覚というのがこのブログでは用語として用いられますが,ここでは大きな意味で知覚ということばを使っています。
 これが人間の精神による知覚であるということは,これまでの考察との関連でいえば,第二部定理二五を参照する方がさらによいでしょう。すなわち,第二部定理一七の仕方で人間の精神が外部の個物を認識するとき,その個物の混乱した観念が精神のうちには発生しているのです。そしてこのことは,人間の精神が部分的原因として作用している,いい換えれば,ある受動的な思惟作用をしているという意味であると僕は理解しているからです。そしていうまでもなく,人間の精神が受動的な作用をなす場合に,人間の精神がそれを知覚するといわれるのだからです。
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長州とブロディ&概念と知覚

2012-03-01 18:30:18 | NOAH
 全日本プロレスとジャパンプロレスとの対抗戦時代長州力の試合で,現在の僕に最も強い印象として残っているのは,1985年の3月に両国国技館で行われた試合です。対抗戦時代は,長州は天龍や鶴田を相手に数々の名勝負を残していますが,この日はそうした対抗戦ではなく,長州は谷津とタッグを組み,ブルーザー・ブロディとキラー・ブルックスのチームと対戦しました。なお,この試合は僕はライブで観戦したわけではなく,テレビで視ただけです。
 長州は全日本プロレスで試合をするようになったのがこの前年の暮れ。ブロディは最強タッグ決定リーグにハンセンと組んで出場していましたが,長州とは当たっていません。ブロディがその次に来日したのがこのときで,しかもこの直後に新日本プロレスに移籍してしまいましたので,長州とブロディがまともに顔を合わせたのは,あるいはこのときだけであったかもしれませんし,少なくともテレビで放映されたのはこの試合だけであったと思います。
 印象に強く残っているといっても,それはこの試合がよい内容であったからというわけではありません。むしろプロレスの試合内容としてはその真逆であったから,今でもよく覚えているのです。そしてこの試合をそうした内容にしたのは,ほとんどブロディの責任であったといっていいでしょう。ブロディはまったくプロレスを展開しようとせず,ただ力ずくで長州に対峙したのです。ブロディと長州では身体の大きさが違いすぎますし,長州というのは基本的にどんな相手に対してもプロレスオンリーで対抗しようとしますから,体力だけで押してくるブロディに対しては,ほとんど何もできませんでした。試合自体は長州がブルックスを破って勝ったのですが,あまりに異質な試合に,ブルックスが負け役を買って出たように思えたくらいで,観客の多くはブロディ強しという印象だけが残ったのではないでしょうか。
 このときのブロディがなぜ長州をただ潰すためだけとしか思えないような試合をしたのか,思い当たることがないわけではないのですが,今となっては大きな謎です。そしてその謎が,この試合への印象の度合いを,さらに深めているのです。
 
 第二部定義三説明がどのような観点から精神による事物の認識をふたつに分類しているのかといえば,それはそこに述べられている通りですから分かりやすいといえるでしょう。すなわち,ある精神が能動的に何らかの事物を認識するのであれば,それはその精神がその事物を概念するといわれます。一方,もしもある精神が受動的にある事物を認識するという場合には,その精神はその事物を知覚しているということになるのです。スピノザの哲学における能動と受動を僕がどのように理解しているのかということについては,前回の考察においてこれをかなり詳しく説明しました。ですからそれに関して関心があるという場合にはその部分を再読していただければ幸いです。ここでは,現在の課題という観点から重要な事柄のみ,もう一度だけ指摘しておきます。
 まず基本的に,僕はあらゆる事物のあらゆる作用が,能動と受動のどちらかに分節することが可能であると考えます。よって,精神による事物の認識は,能動である概念か,そうでなければ受動である知覚のどちらかであるということになります。現状のテーマにさらに接近させていうならば,人間の精神が個物を認識するという場合には,その個物を概念するか知覚するかのどちらかなのであって,これ以外の仕方で人間の精神が個物を認識するということはありません。よって,このふたつの場合のみ明らかにできれば,人間の精神による個物の認識のすべてが明らかとなるということになります。
 次に,精神の能動とは,その精神が十全な原因として働く場合であって,逆に精神の受動とは,精神が部分的原因として働きを受けるということです。このとき,前者の場合にはその精神のうちにある十全な観念が発生します。これは,能動というのがどういうことなのかということについて,僕が示した考え方から明らかです。一方,後者の場合には,この精神のうちにはある混乱した観念が発生することになります。こちらは受動をどのように考えるかということを示した内容から明らかだといえます。よって,人間の精神が個物を概念するなら,この人間の精神にはその個物の十全な観念が発生し,人間の精神が個物を知覚するときには,その個物の混乱した観念が発生することになります。ここまでがこれ以降の考察の大前提となります。
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