スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

東日本大震災被災地支援玉野記念&難問

2012-03-23 18:45:58 | 競輪
 2日目にはルーキーチャンピオンレースも行われた玉野記念は春分の日が決勝でした。並びは石橋ー新田の静岡,永井に三宅-岩津ー友定の地元勢がマークし,村上には桑原の西日本,伏見は単騎でしたが,村上ライン追走のレースに終始しました。
 前受けが村上,4番手に石橋で6番手から永井という周回。永井の上昇に合わせて石橋も上昇,打鐘前のバックで永井ラインが前に出きると,永井は流さずにそのまま先行。石橋が5番手も車間はむしろ開いていき,さらに間が開いて村上が7番手。村上はホームから巻き返していきましたが,追いつく前に三宅に番手発進されて苦しくなりました。直線は三宅の後ろから踏み込んだ岩津が差して優勝。三宅が2着で地元のワンツー。村上の勢いをもらって伸びた桑原が3着。
 優勝した岡山の岩津裕介選手は2009年12月に開催された玉野記念以来の記念競輪制覇で記念競輪3勝目。昨年度は同時期に予定されていたものの開催を自粛していますので,3年越しですが当地は連覇ということになります。記念競輪クラスではもっと安定的な成績を残せる選手になると思っていただけに,個人的には期待ほど活躍できなかったという印象を抱いていました。永井の持ち味といえばそうかもしれませんが,おそらくマークしていた地元勢も含めて予想外の展開となり,記念の決勝としてはやや単調なレースとなった感は否めません。勝因も永井の頑張りにあったということになるでしょう。

 この問いは,現在の考察それ自体とも直接的に関係してくるような,非常に重要なものです。ですが,僕は現時点では,これに関してこうであるとはっきりと自信をもって答えることができません。それだけ難問であるといえるわけですが,二様に考えられると思うのです。
 第二部定理八系で,個物の観念が神の無限な観念がある限りにおいて存在するといわれるとき,これは,ある個物の観念が,無限な観念の一部を構成していると考えてよいのではないかと思います。いい換えればそれは,ある個物の観念は神の無限知性の一部をなしているということです。そしてこのように解釈するなら,無限知性というのは神の思惟の属性の直接無限様態なのですから,第一部定理二一の仕方で生じます。よってその一部を構成しているような個物の観念も,この仕方で発生するということになるでしょう。いわば,思惟の属性があるならば,本性の上では思惟の属性がそれに「先立つ」ということになりますが,必然的に無限知性が存在します。そして無限知性が存在するということは,その部分を構成するような各々の個物の観念,この場合にはとくに思惟の属性に包容されるという様式で存在する個物の観念のことですが,それも存在するということです。そしてこのことは,おそらく第二部定理九の無限連鎖というのをひとつの全体として考えるならば,それを認識することができるのは神の無限知性だけであると考えることとリンクしています。つまり第二部定理九が現実的に存在するという様式での個物の観念に関するある理解であるとしたら,それが神の思惟の属性に包容される限りで存在するという場合には,そうした仕方で理解されるということなのだろうと思うのです。
 論理的にはこのことが正しいということは明白で,この訴訟過程のうちに何らかの不備があるというようには僕には考えられないのです。ところが,この仕方で個物の観念の起成原因というのを理解してしまうと,今度は別の難問が生じてしまうように僕には思えます。この個物の観念が神の無限知性のうちにあるということはこれでよいとしても,それは同様に有限な知性のうちにもあることが可能でしょうか。
コメント
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