スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

長州とブロディ&概念と知覚

2012-03-01 18:30:18 | NOAH
 全日本プロレスとジャパンプロレスとの対抗戦時代長州力の試合で,現在の僕に最も強い印象として残っているのは,1985年の3月に両国国技館で行われた試合です。対抗戦時代は,長州は天龍や鶴田を相手に数々の名勝負を残していますが,この日はそうした対抗戦ではなく,長州は谷津とタッグを組み,ブルーザー・ブロディとキラー・ブルックスのチームと対戦しました。なお,この試合は僕はライブで観戦したわけではなく,テレビで視ただけです。
 長州は全日本プロレスで試合をするようになったのがこの前年の暮れ。ブロディは最強タッグ決定リーグにハンセンと組んで出場していましたが,長州とは当たっていません。ブロディがその次に来日したのがこのときで,しかもこの直後に新日本プロレスに移籍してしまいましたので,長州とブロディがまともに顔を合わせたのは,あるいはこのときだけであったかもしれませんし,少なくともテレビで放映されたのはこの試合だけであったと思います。
 印象に強く残っているといっても,それはこの試合がよい内容であったからというわけではありません。むしろプロレスの試合内容としてはその真逆であったから,今でもよく覚えているのです。そしてこの試合をそうした内容にしたのは,ほとんどブロディの責任であったといっていいでしょう。ブロディはまったくプロレスを展開しようとせず,ただ力ずくで長州に対峙したのです。ブロディと長州では身体の大きさが違いすぎますし,長州というのは基本的にどんな相手に対してもプロレスオンリーで対抗しようとしますから,体力だけで押してくるブロディに対しては,ほとんど何もできませんでした。試合自体は長州がブルックスを破って勝ったのですが,あまりに異質な試合に,ブルックスが負け役を買って出たように思えたくらいで,観客の多くはブロディ強しという印象だけが残ったのではないでしょうか。
 このときのブロディがなぜ長州をただ潰すためだけとしか思えないような試合をしたのか,思い当たることがないわけではないのですが,今となっては大きな謎です。そしてその謎が,この試合への印象の度合いを,さらに深めているのです。
 
 第二部定義三説明がどのような観点から精神による事物の認識をふたつに分類しているのかといえば,それはそこに述べられている通りですから分かりやすいといえるでしょう。すなわち,ある精神が能動的に何らかの事物を認識するのであれば,それはその精神がその事物を概念するといわれます。一方,もしもある精神が受動的にある事物を認識するという場合には,その精神はその事物を知覚しているということになるのです。スピノザの哲学における能動と受動を僕がどのように理解しているのかということについては,前回の考察においてこれをかなり詳しく説明しました。ですからそれに関して関心があるという場合にはその部分を再読していただければ幸いです。ここでは,現在の課題という観点から重要な事柄のみ,もう一度だけ指摘しておきます。
 まず基本的に,僕はあらゆる事物のあらゆる作用が,能動と受動のどちらかに分節することが可能であると考えます。よって,精神による事物の認識は,能動である概念か,そうでなければ受動である知覚のどちらかであるということになります。現状のテーマにさらに接近させていうならば,人間の精神が個物を認識するという場合には,その個物を概念するか知覚するかのどちらかなのであって,これ以外の仕方で人間の精神が個物を認識するということはありません。よって,このふたつの場合のみ明らかにできれば,人間の精神による個物の認識のすべてが明らかとなるということになります。
 次に,精神の能動とは,その精神が十全な原因として働く場合であって,逆に精神の受動とは,精神が部分的原因として働きを受けるということです。このとき,前者の場合にはその精神のうちにある十全な観念が発生します。これは,能動というのがどういうことなのかということについて,僕が示した考え方から明らかです。一方,後者の場合には,この精神のうちにはある混乱した観念が発生することになります。こちらは受動をどのように考えるかということを示した内容から明らかだといえます。よって,人間の精神が個物を概念するなら,この人間の精神にはその個物の十全な観念が発生し,人間の精神が個物を知覚するときには,その個物の混乱した観念が発生することになります。ここまでがこれ以降の考察の大前提となります。
コメント
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