スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

妙手⑩&第三部定理一一

2010-04-10 19:00:44 | ポカと妙手etc
 第44回NHK杯2回戦より。
 ▲7六歩△3四歩▲9六歩△1四歩という出だしから,先手が相居飛車か相振飛車を志向するという将棋。以下▲6六歩に△8四歩と突いたので相居飛車に。先手が早めに9筋を突いたのを咎めようと後手が棒銀に出て第1図。
               
 ここで後手はいきなり△9五歩と仕掛けました。▲同歩△同銀▲同香△同香▲9七歩。棒銀では定跡的な攻めで,ここで△9八歩と垂らすのが棒銀の手筋。しかし後手の狙いは別のところにあり,△4四角(第2図)と飛び出しました。
               
 ここで先手は早指し戦としては異例の長考。▲2四歩△同歩▲同飛は△2三香で駒損するので指し切れず,▲3六歩と突きましたが,これは△2六香と打たれ,▲2七銀△同香成▲同飛と駒損を回復されてから△9八歩。これは棒銀大成功です。最後は一手違いになりましたが,将棋も後手が勝ちました。
 角換りの将棋ではこのように角を打って飛車先を狙う筋がありますが,この場合はもともといた角が出てくる手のため,先手の盲点になったようです。
 なおこの将棋に関しては,一月ほど前に田丸九段大内九段に関する記事に僕の思い出をコメントしたところ,丁重な返答があったため,指された時期が分かり,棋譜を探す作業が楽になりました。遅くなりましたがこの場を借りて田丸九段にはお礼申し上げます。

 尿意には排尿という運動自体を自分の身体に対して肯定する意志作用が含まれているということを『エチカ』に訴える場合に,僕がまず援用したいと考えるのは第三部定理一一です。
 「すべて我々の身体の活動能力を増大しあるいは減少し,促進しあるいは阻害するものの観念は,我々の精神の思惟能力を増大しあるいは減少し,促進しあるいは阻害する」。
 定理自体の意味には難しいところはないでしょう。なので詳しい説明は省きます。
 ところで,排尿という運動は人間の身体がその現実的本性を維持するためになされます。いい換えればそれは,身体の活動能力を増大ないしは促進する運動であるということになります。このことはこれと逆の場合,すなわち排尿という運動がなされない人間の身体の場合というのを考えれば一目瞭然で,この場合にはその人間の身体は,その活動能力が減少ないしは阻害され,最終的には破壊される,すなわち死に至るということになるでしょう。したがって,排尿という運動の観念,これはここでいう尿意とは異なっていますが,身体に溜まった尿を体外に排出するという意味での排尿という観念自体は,その人間の精神の活動能力を増大ないしは促進する観念であるということがこの定理から理解できます。
 もちろん単にこのことだけでは,尿意のうちに排尿自体を肯定する思惟の様態が含まれているということを説明できるわけではありません。しかし少なくとも,排尿という運動を自分の身体に対して肯定することが,自分の身体の働く力を促進するということ,そしてこれは自分の身体の現実的本性にも合致しているということは,ここで明らかになったといっていいでしょう。
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高知記念&運動の肯定

2010-04-08 19:18:48 | 競輪
 年度が改まって最初の記念競輪は高知記念で,一昨日が決勝(動画)でした。
 並びは鈴木-飯野の福島の後ろで関東単騎の芦沢と中村-白戸の南関東が競り,守谷-吉永-富の中国で松尾が単騎。
 鈴木がSを取りそのまま前受け。守谷が中団を取り松尾が最後尾で周回。守谷は徐に上昇していき打鐘過ぎにようやく鈴木を叩いて先行。隊列が入れ替わりホームに入るところで芦沢が外から中村を押し込めると中村はそのまま上昇して松尾の後ろへ。一列棒状でバックを通過してから鈴木は仕掛けましたが前には届かず。中国ラインの争いかに思いましたが5番手から中村が守谷と吉永の間を鮮やかに突き抜けて優勝。吉永の外を伸びた富が2着で外を捲り追い込んだ鈴木が3着。
 優勝した千葉の中村浩士選手は一昨年8月の松戸記念以来となる記念競輪2勝目。その前年に立川の北京オリンピック日本選手応援競輪を優勝しているのでGⅢは3勝目。ここは日程の関係でS級S班の参戦がなく,決勝進出を果たしたメンバーの中では実績上位。機敏に松尾の後ろにスイッチし,開くのを待って直線から踏み込んだ判断がよく,このメンバーでは経験の差で上回ったという感じがします。

 自分の身体のうちに一定以上の量の尿が溜まっているということは単にひとつの状態を示します。これに対してその尿を排出すること,あるいは排出するのではなくても排出しようとすることは,単なる状態というよりはむしろある運動を示しているといえるでしょう。しかし,どちらの場合であっても,それが客観的なものとして,すなわち自分の身体に関する何らかの観念としてその当人の精神のうちに生じる場合には,どちらの場合も知覚であると僕はみなしますし,これには異論は出ないであろうと思います。よってこの点に関する説明はここでは繰り返しません。
 問題は尿意というのを平行論におけるこの運動との同一個体という観点から考えたときに,これを肯定する意志作用というのがどのような思惟の様態であるのかということです。もちろんそれは,まずは尿を排出しようと,排出しているのではなくて排出しようとする運動を自分の身体に対して肯定するような意志作用であるということになるでしょう。しかしここでは僕はこの思惟の様態を,より積極的に,自分の身体のうちに蓄積された尿を体外に排出すること自体を肯定するような思惟の様態であると考えてみたいです。つまり,単にある運動を自分の身体に対して肯定するような思惟の様態ではなしに,排尿という運動自体を自分の身体に対して肯定するような思惟の様態として考えるということです。
 もちろん僕たちは尿意を感じるそのたびごとにこのようなことを意識するわけではありません。むしろそのようなことはごくまれであるといった方が,経験的な観点からは正しいのかもしれません。しかし,僕は何の根拠もなくある運動の観念として考えられるような尿意を肯定する意志作用について,このように考えているというわけでもありません。そこで次に,僕がこう考える根拠というのを,『エチカ』に訴えることによって説明していくことにします。
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東京スプリント&尿意の肯定

2010-04-07 21:00:34 | 地方競馬
 大レースの勝ち馬2頭が有力視された東京スプリント
 ケイアイテンジンも逃げたかったのではないかと推測しますが,外から抜群のダッシュでポートジェネラルの逃げ。ヴァンクルタテヤマ,サクラビジェイも前にいき,スーパーヴィグラスとリミットレスビッド。ケイアイテンジンは結局はその後ろで,スーニとほぼ同じ位置。ミリオンディスクがこれをマークしてフジノウェーブはその後ろ。前半の600mは34秒7でハイペース。
 昨年同様にポートジェネラルは快調な逃げ。馬場の内目からこれを追ってきた馬は伸びを欠き,これらの外からスーニとミリオンディスクが並んで追い上げ,さらにその外からフジノウェーブ。この3頭が一気にポートジェネラルを交わして優勝争いを演じましたが,最初に抜け出していたスーニが優勝。追ってきたフジノウェーブが2着でゴール前で脱落したミリオンディスクが3着。
 優勝したスーニは前走の黒船賞に続く勝利で重賞5勝目。この舞台はフジノウェーブが最も得意とするところですからこれを撃破したのは価値があります。短距離馬としての地位を着々と固めているといえるでしょう。
 鞍上は川田将雅騎手で管理しているのは吉田直弘調教師。このレースは実質的にはこれが第2回です。
                  

 尿意というのをここまで厳格に規定すれば,もはや尿意という観念が含んでいる肯定,すなわち意志作用の内容がどのような思惟の様態であるのかということは,解決したも同然といっていいのではないでしょうか。すなわちそれは,自分の身体に対して尿を,あるいは一定以上の量の尿をといった方がより正確かも知れませんが,これを肯定することにほかなりません。このことは,ちょうどペガサスの表象像を肯定する意志が,馬に対して翼を肯定するような思惟の様態であるということと,ほとんど並列的な対応関係にあるといえますので,これ以上の説明は不要でしょう。
 ただし,これはあくまでもある人間の身体の状態というのを,きわめて静的にみた場合にのみいえることです。スピノザの哲学というのはむしろダイナミックなところがありますから,実際に尿意に含まれる意志というのを規定する場合には,これだけでは不十分かもしれません。
 人間の身体に尿が蓄積されていくと,身体は自己保存の法則によりこれを体外に排出しようとします。第二部定理七により,人間の身体の秩序とこの人間の精神の秩序は同一なので,この人間の精神のうちにはこの観念も生じます。さらにいうなら,より多くの尿が溜まってくるにしたがって排出しようとする運動もそれだけ大きくなると考えられ,実際に僕たちは尿意について,それを弱いものとか強いものと感じる場合があると思います。僕はこうした観念も含めて排尿の観念,すなわち尿意と規定しました。しかるに今回のテーマである第二部定理四九系は,個々の観念と個々の意志作用が同一であるといっていて,このことはすでに論理的な観点からは証明されています。したがって尿意の意志作用のうちには,この観念も肯定するようなものが必要なのであって,単に自分の身体に対して一定の量以上の尿を肯定する思惟の様態だけを尿意の意志作用というのは,少なくともこの考察における尿意の規定からは,やはり必ずしも十分であるとはいえないでしょう。
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女流王位戦&尿と身体

2010-04-06 19:07:58 | 将棋
 施行時期が繰り上がって第21期女流王位戦は今日が挑戦者決定戦。対戦成績は紅組優勝の石橋幸緒女流四段が5勝,白組優勝の甲斐智美女流二段が4勝。
 振駒で甲斐二段の先手で角道を止めてからの三間飛車。序盤から中盤に入るところで千日手が懸念されましたが先手が打開して第1図。
               
 ここで後手は△3三銀として▲6五歩からの角交換を拒否。こう指したからには先手の飛車角を抑え込みにいくのが自然ですが実戦の進行は▲8六歩△8二飛▲3八銀に自ら△8六歩と取り,▲同飛△同飛▲同角(第2図)であっという間に飛車交換。確かに△8七飛と先着できますが,少しちぐはぐだったかもしれません。
               
 結果的にいえばこのように角を使いにくい形で決戦にしてしまったのが失敗だったよう。この後の先手の指し回しはほぼ完璧といってよく,途中からはかなり一方的な内容となってしまい,先手の快勝。後手としてはやや悔やまれる内容の将棋だったのではないでしょうか。
 挑戦中のマイナビ女子オープンに続きここも充実ぶりを感じさせる将棋で甲斐二段が挑戦権を獲得。清水市代女流王位との五番勝負は来月13日からです。

 第二部定理一九に訴えるのだとしても,尿意という知覚がどのような知覚であるのかということについてはいろいろな考え方ができるように思えます。たとえばこれは,自分自身の身体の中に溜まった尿の知覚であるということも可能ですし,あるいは尿が溜まった自分の身体についての知覚であるということも可能でしょう。ただここでは,これがどのような種類の知覚であるのかということを確定することは必要ありませんので,この点についてはこれ以上の考察は避けるということにします。
 しかし,スピノザの哲学では混乱した観念の意志というのを考えることができるということになっています。したがって,尿意が知覚であるとしても,第二部定理四九の,とくに証明の内容からして,そこには意志があると考えなければなりません。ところで個々の意志作用は個々の観念に応じますので,もし観念の内容が異なるのであれば,それが異なっている分だけ意志作用の内容というのも異なってくるということになります。よって,尿意という知覚がどのような知覚であるかによって,その意志作用もまた異なってきてしまうわけです。ですから,尿意という知覚がどのような知覚であるのか,すなわち前述のふたつの例でいうなら,尿に関する知覚であるのか,それとも自分の身体に関する知覚であるのかということは,考察自体において確定する必要はないのですが,意志作用との関係を考える上では,決めておいた方がはなはだ便利です。
 そこでここではこれを,尿が溜まった自分の身体に関する知覚と考えることにします。これは今後の説明のために選択しているだけであって,仮に身体に溜まった尿に関する観念であると考えても,これ以後の説明をそのまま適用するということはできませんが,説明方法を変更することで同様に対応できるということになります。したがってこの規定もまた,この考察における約束事のひとつですので,このこと自体に対しての反論は受け付けないことにします。
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遺恨決着戦&知覚

2010-04-05 18:39:32 | NOAH
 アラビアの怪人ことシークがブッチャーと仲間割れをしたのは1979年の12月。世界最強タッグ決定リーグ戦の最終戦のことでした。試合自体は成立して,相手だったファンクスのフォール勝ち。そして試合後に両者が言い争った挙句,シークの方からブッチャーに火炎攻撃を仕掛けていきました。この試合も僕はプロレスクラシックで視ていますが,何となく唐突なものに感じられました。こういういい方が適切であるかどうかは分かりませんが,プロレスにおける仲間割れとして,不自然な仲間割れであったと思います。
 ふたりは翌春に揃って来日。1980年5月2日に遺恨の決着をつけるべく,後楽園ホールでシングルマッチで対戦しました。
 ところがこの試合は意外な方向に展開します。当時,全日本プロレスは土曜の午後5時半から放送されていました。時間の関係で生中継はありませんでしたが,これは注目の試合ということでカメラが入っていました。試合中にブッチャーが実況を担当していた倉持隆夫アナウンサーにやたらとちょっかいを出すと,シークもこれに呼応。ふたりに標的にされた倉持アナウンサーは,シークの凶器攻撃を受け,額から大流血。試合はノーコンテストで終わりました。
 録画されていたわけですが,あまりに凄惨ということで放映は控えられ,ようやく日の目を見たのは10年以上後。これも僕は視ていますが,どうしてこういうことになったのか,さっぱりわけが分からない試合でした。ごくまれにプロレスではそうしたことが起こるのですが,この試合の謎は最近になるまでずっと解けなかったのです。

 スピノザの哲学では,意志作用というのは十全な観念にだけ該当するのではなく,混乱した観念の意志というのもあります。したがって,ここでは尿意というのを表象像と規定したわけですが,当然ながらこの尿意にもそれを肯定するような意志作用というのがあるということになります。そこで,尿意を肯定する意志というのがどのような思惟の様態であるのかということを次に考えていくことにします。
 しかしこれをいうためには,尿意という表象像がどのような表象像であるのかということを先に知っておかなければなりません。といいますのも,たとえばペガサスの観念の場合でいうなら,ペガサスの表象像というものが,翼のある馬の表象像であるということを知っていなければ,馬に対して翼を肯定する意志というのが,ペガサスの表象像を肯定するのか肯定しないのかということは分からないからです。このことはそもそもテーマとなっている第二部定理四九系から,一般的にいえることでしょう。
 そこでまず第一に,僕は尿意というのを,表象の種類のうち,知覚と考えます。すなわちこれは想起でも想像でもないということです。実際の考察の上では実はこの分類は不要だと思うのですが,ここでいう尿意が知覚であるということには,とくに反論は出ないだろうと思いますから,第二部定理一七のみで説明できるという便宜性から,知覚であると規定します。
 ただし,実際には尿意というのは,外部の物体の知覚というよりは,自分の身体のある状態についての知覚という方が正しいでしょう。したがってここで援用するべき定理は,第二部定理一七であるというよりは,第二部定理一九であるということはいえます。ただこの定理の証明は,第二部定理一七の証明の外部の物体に該当する部分を第二部定義二の意味から自分の身体に当てはめただけですので,どちらを用いたとしてもさしたる障害は生じないということはいえると思います。
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将棋大賞&表象像の対象

2010-04-03 19:08:44 | 将棋トピック
 2009年度の将棋大賞が31日に発表となりました。
 最優秀棋士賞は羽生善治名人。名人防衛,棋聖防衛,王座防衛。タイトル数こそひとつ減りましたが,ほかに朝日杯とNHK杯で優勝していて,当然の受賞でしょう。一昨年,昨年に続き3年連続17回目。
 優秀棋士賞は久保利明二冠。王将挑戦,奪取,棋王防衛。そして順位戦A級復帰。羽生名人の一角を崩したわけで,これも当然の受賞。記録部門でも2年連続の最多対局賞でした。
 敢闘賞は木村一基八段。棋聖挑戦,王位挑戦。共にあと一歩のところで初のタイトルは逃してしまいましたが,逆にいえばいかにも敢闘賞という感じはします。
 新人賞は戸辺誠六段。順位戦の昇級以外にはっきりとした実績はないのですが,現在参加している王位リーグでは白組で強豪を連破し3連勝で首位に立っています。僕の印象ではプロになってからぐんぐん力をつけているという感じで,今年度以降の一層の活躍が期待されます。
 最優秀女流棋士賞は里見香奈女流名人倉敷藤花防衛,女流名人位挑戦,奪取。素晴らしい活躍で当然の受賞でしょう。
 女流棋士賞は清水市代女流二冠。女流王位を奪取し,女流王将を防衛しましたからこちらも当然。僕はまだ巻き返しがあるものと思っています。
 升田幸三賞は引き角戦法の飯島栄治六段。確かに対振飛車戦で角道を開けないというのは画期的な戦法だと思います。
 名局賞は先日の棋王戦の第五局。これはファンも投票が可能で,僕は王位戦の第七局に投票しました。どちらかといえば受賞した将棋は泥試合で,純粋な将棋の質という面では僕は僕が投票した将棋の方が上回っていると思っています。ただ,それとは別に,心に訴えかけられるという点では,棋王戦はすさまじいものがありました。人間と人間が闘っているからこそ将棋というのは崇高なものなのだということを如実に示した将棋であったと思います。僕の将棋観も少しだけ変わった一局です。
 名局賞の特別賞は,深夜の千日手指し直しで長時間の対局となった一局です。
 その他の記録部門は最多勝利賞と最高勝率賞が豊島将之五段,連勝賞は阿久津主税七段でした。

 観念の対象といわれる場合には,少なくとも『エチカ』においてはやや特殊なことばであるということを念頭に置きつつ,ここでいう尿意の対象,あるいはもっと一般的に表象像の対象ということを,それ自体でみられるような場合にはどう理解すればいいのかということを考えていきましょう。
 まず,いかに表象像の対象といっても,これを神に関連させて考えさえすれば,これは混乱した観念ではなく,十全な観念として把握することが可能です。よってこの場合には,観念の対象ということを実在的な意味,あるいは有と無の関係における有であるものと考えて何ら差し支えありません。こうしたことはこりん星の場合とかペガサスの場合のように,明らかに対象ということをそれ自体で考えようとするなら無であるとしか考えられないようなものでも妥当するわけですから,ここでいう尿意のように,それ自体では混乱した観念であっても,対象については明らかに実在的であるといい得るようなものならなおさらそうであるといえると思います。
 しかしもしも観念の対象というとき,これ自体で実在的な意味を含まなければならないと考えるのなら,実際には尿意の対象といういい方は成立しないのだろうと思います。表象像あるいは混乱した観念が,それ自体で実在性を含有するというようには,やはりスピノザの哲学では考えることはできないと思うからです。
 ただし,ラテン語におけるideatumという語が,それ自体では実在性を含有していなくても構わないと考えることはできます。というのは,第一部公理六で真の観念はそのideatumと一致するといわれるのなら,これとはちょうど逆に,誤った観念はideatumと一致しないといういい方も,僕には不自然とは感じられないからです。よってこの場合には,尿意の対象といういい方も,十分に可能であるといえるのではないでしょうか。
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名古屋記念&対象

2010-04-02 19:00:09 | 競輪
 競輪も4月が年度初め。2009年度最後の記念競輪は30日に決勝があった名古屋記念でした。
 並びは菅田-斉藤の北日本に遠沢,永井-加藤-笠松の中部,吉本に兵藤-大薗の関東。
 Sを取ったのは大薗で吉本の前受け。中団に永井,後方から菅田の周回。残り2周から菅田が上昇,吉本が引いたので誘導の後ろへ。これを打鐘から永井が一気に叩いて先行。中団に菅田,後方に吉本で一列棒状。バックから菅田が捲っていきましたが,永井のかかりもよかったようで車はそれほど伸びず,加藤の牽制もあってあえなく失速。直線で追いこんだ加藤が優勝でマークの笠松も続き中部のワンツー。笠松の外を伸びた兵藤が3着。
 優勝した岐阜の加藤慎平選手は昨年7月の弥彦記念以来の記念競輪6勝目。ここは自力タイプでは永井の力が上。その永井が逃げて番手を無風で回りましたので,展開的には当然の優勝。まだまだ活躍し続けられる選手だと思います。

 尿意という観念ideaが混乱した観念idea inadaequataであるということ,とくに自分の身体corpusのある状態についての表象像imagoであるということについてはこれでいいと思います。しかしこのように規定しますと,今度は別の問題が生じてきます。それは尿意の対象を問うことができるのかという問題です。すなわち,ここでは尿意というのを神Deusとは関連付けず,ある人間の精神mens humanaのうちにある思惟の様態cogitandi modiとしてそれ自体で考察の対象にしようとしています。ところで,表象像つまり混乱した観念というのは有esseか無かといえば無に該当します。したがって,無であるような思惟の様態に関して,その対象について言及するというのはいささか不自然になるからです。
 これを考える前に,ひとつ注意しなければならないことがあります。一般に対象と訳されるラテン語はobjectumです。岩波文庫版では想念的,僕のブログでは客観的といっているラテン語がobjectiveですから,少なくとも語源的には関係があるのでしょう。しかし,観念の対象といわれる場合には,ideatumというラテン語が使われています。たとえば第一部公理六で用いられている観念の対象という語がこれにあたります。岩波版の訳者である畠中尚志が観念の対象の後で,観念されたものという訳注を入れているのはこうした理由からでしょう。
               
 スピノザが哲学的な意味合いからあえて使い分けているのか,あるいはラテン語一般がこのように用いられていたのか,僕はラテン語に関する教養はほぼ皆無なので分かりません。ただ,観念の対象といわれる場合には,それ以外の場合に対象といわれるのに対して,少なくとも用いられていることばが異なっているということ,したがって意味合いにも何らかの相違があるかもしれないということは,『エチカ』を読む上で注意をしておきたいところだと思います。
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高松宮記念&自由

2010-04-01 18:43:42 | 中央競馬
 中京競馬場は今春の開催を最後にリニューアル工事に突入。現在の中京競馬場で行われる最後の高松宮記念は先月28日に行われました。
 ここは先行したい馬が揃っていたレース。最内のセブンシークィーンが先手を取り,ヘッドライナーが2番手。エーシンエフダンズ,ビービーガルダン,アイルラヴァゲインといったあたりが続きました。前半の600mは33秒5でハイペース。
 好位集団の後ろにつけていたキンシャサノキセキが直線はヘッドライナーの外から伸びてまず先頭に。外を回ったためにこれに先を越された形となったビービーガルダンがこれに激しく詰め寄り並んだところがゴール。写真判定の結果は先に抜け出していたキンシャサノキセキが辛うじて凌いでいて優勝。ビービーガルダンは昨秋のスプリンターズステークスに続いての惜しい2着で,ビービーガルダンのさらに外を伸びてきたエイシンフォワードが3着。
 優勝したキンシャサノキセキは早くから頭角を現していたものの,気難しいところがあり,素質の高さをなかなか生かせないでいた馬。昨秋から重賞を3連勝していて,その勢いのままにここで初の大レース勝ちを達成しました。父はフジキセキですが,シャトルでオーストラリア滞在中の産駒。半年ほど産まれが遅いですので,現在が充実期なのかもしれません。
 騎乗した四位洋文騎手は昨年の秋華賞以来の大レース制覇で高松宮記念は1998年のシンコウフォレスト以来の2勝目。管理している堀宣行調教師はこれが大レース初勝利です。

 尿意が十全な観念ではなく,自分の身体の表象像であると結論したこの部分の考察は,スピノザの哲学の中で,自由,第一部定義七でいわれている自由という概念と少し関係していると僕は考えています。
 以前に第一部定理三二系一をテーマに考察したことがありました。そのときの考察の主旨は,人間の意志がどうということではなく,むしろたとえ神の意志であったとしても,それは絶対的な思惟ではなく,思惟の様態であるということでしたが,これはもちろん人間の意志というのを考察する場合にも妥当します。この場合には意志というのを必ずしも観念が含む肯定ないしは否定と考えずに,もっと一般的な意味で意志といわれているもの,すなわち人間をしてある行為ないしは行動に向かわせるような思惟の様態として解釈してもいいのですが,人間の意志というのは,思惟の有限様態,すなわち個物なわけです。よってこれは第一部定理二八の仕方で各々の人間の精神のうちに生じます。
 そこでこのとき,ある意志作用について,具体的にどのような観念が原因となってある人間の精神のうちに生じてくるのかということを,僕は老人に席を譲る場合の意志として探求しました。その結果として,どう考えても人間の意志というのは自由なものであるとはいえないという結論に達したわけです。
 実は尿意という観念の場合にも,これと同様のことが生じていると僕は思います。ここでいう尿意は意志ではなく観念ですが,それが自由なものではない,今はこれを人間の自由に限定し,これは人間の精神の任意には依拠しないということは,むしろ席を譲る場合よりも明らかだと思います。つまりこの点からも,尿意が十全な観念ではないということ,いい換えれば精神の能動によって生じるわけではないということが明白だと僕は考えます。
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