スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

高知記念&運動の肯定

2010-04-08 19:18:48 | 競輪
 年度が改まって最初の記念競輪は高知記念で,一昨日が決勝(動画)でした。
 並びは鈴木-飯野の福島の後ろで関東単騎の芦沢と中村-白戸の南関東が競り,守谷-吉永-富の中国で松尾が単騎。
 鈴木がSを取りそのまま前受け。守谷が中団を取り松尾が最後尾で周回。守谷は徐に上昇していき打鐘過ぎにようやく鈴木を叩いて先行。隊列が入れ替わりホームに入るところで芦沢が外から中村を押し込めると中村はそのまま上昇して松尾の後ろへ。一列棒状でバックを通過してから鈴木は仕掛けましたが前には届かず。中国ラインの争いかに思いましたが5番手から中村が守谷と吉永の間を鮮やかに突き抜けて優勝。吉永の外を伸びた富が2着で外を捲り追い込んだ鈴木が3着。
 優勝した千葉の中村浩士選手は一昨年8月の松戸記念以来となる記念競輪2勝目。その前年に立川の北京オリンピック日本選手応援競輪を優勝しているのでGⅢは3勝目。ここは日程の関係でS級S班の参戦がなく,決勝進出を果たしたメンバーの中では実績上位。機敏に松尾の後ろにスイッチし,開くのを待って直線から踏み込んだ判断がよく,このメンバーでは経験の差で上回ったという感じがします。

 自分の身体のうちに一定以上の量の尿が溜まっているということは単にひとつの状態を示します。これに対してその尿を排出すること,あるいは排出するのではなくても排出しようとすることは,単なる状態というよりはむしろある運動を示しているといえるでしょう。しかし,どちらの場合であっても,それが客観的なものとして,すなわち自分の身体に関する何らかの観念としてその当人の精神のうちに生じる場合には,どちらの場合も知覚であると僕はみなしますし,これには異論は出ないであろうと思います。よってこの点に関する説明はここでは繰り返しません。
 問題は尿意というのを平行論におけるこの運動との同一個体という観点から考えたときに,これを肯定する意志作用というのがどのような思惟の様態であるのかということです。もちろんそれは,まずは尿を排出しようと,排出しているのではなくて排出しようとする運動を自分の身体に対して肯定するような意志作用であるということになるでしょう。しかしここでは僕はこの思惟の様態を,より積極的に,自分の身体のうちに蓄積された尿を体外に排出すること自体を肯定するような思惟の様態であると考えてみたいです。つまり,単にある運動を自分の身体に対して肯定するような思惟の様態ではなしに,排尿という運動自体を自分の身体に対して肯定するような思惟の様態として考えるということです。
 もちろん僕たちは尿意を感じるそのたびごとにこのようなことを意識するわけではありません。むしろそのようなことはごくまれであるといった方が,経験的な観点からは正しいのかもしれません。しかし,僕は何の根拠もなくある運動の観念として考えられるような尿意を肯定する意志作用について,このように考えているというわけでもありません。そこで次に,僕がこう考える根拠というのを,『エチカ』に訴えることによって説明していくことにします。
コメント
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