スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

高松宮記念&自由

2010-04-01 18:43:42 | 中央競馬
 中京競馬場は今春の開催を最後にリニューアル工事に突入。現在の中京競馬場で行われる最後の高松宮記念は先月28日に行われました。
 ここは先行したい馬が揃っていたレース。最内のセブンシークィーンが先手を取り,ヘッドライナーが2番手。エーシンエフダンズ,ビービーガルダン,アイルラヴァゲインといったあたりが続きました。前半の600mは33秒5でハイペース。
 好位集団の後ろにつけていたキンシャサノキセキが直線はヘッドライナーの外から伸びてまず先頭に。外を回ったためにこれに先を越された形となったビービーガルダンがこれに激しく詰め寄り並んだところがゴール。写真判定の結果は先に抜け出していたキンシャサノキセキが辛うじて凌いでいて優勝。ビービーガルダンは昨秋のスプリンターズステークスに続いての惜しい2着で,ビービーガルダンのさらに外を伸びてきたエイシンフォワードが3着。
 優勝したキンシャサノキセキは早くから頭角を現していたものの,気難しいところがあり,素質の高さをなかなか生かせないでいた馬。昨秋から重賞を3連勝していて,その勢いのままにここで初の大レース勝ちを達成しました。父はフジキセキですが,シャトルでオーストラリア滞在中の産駒。半年ほど産まれが遅いですので,現在が充実期なのかもしれません。
 騎乗した四位洋文騎手は昨年の秋華賞以来の大レース制覇で高松宮記念は1998年のシンコウフォレスト以来の2勝目。管理している堀宣行調教師はこれが大レース初勝利です。

 尿意が十全な観念ではなく,自分の身体の表象像であると結論したこの部分の考察は,スピノザの哲学の中で,自由,第一部定義七でいわれている自由という概念と少し関係していると僕は考えています。
 以前に第一部定理三二系一をテーマに考察したことがありました。そのときの考察の主旨は,人間の意志がどうということではなく,むしろたとえ神の意志であったとしても,それは絶対的な思惟ではなく,思惟の様態であるということでしたが,これはもちろん人間の意志というのを考察する場合にも妥当します。この場合には意志というのを必ずしも観念が含む肯定ないしは否定と考えずに,もっと一般的な意味で意志といわれているもの,すなわち人間をしてある行為ないしは行動に向かわせるような思惟の様態として解釈してもいいのですが,人間の意志というのは,思惟の有限様態,すなわち個物なわけです。よってこれは第一部定理二八の仕方で各々の人間の精神のうちに生じます。
 そこでこのとき,ある意志作用について,具体的にどのような観念が原因となってある人間の精神のうちに生じてくるのかということを,僕は老人に席を譲る場合の意志として探求しました。その結果として,どう考えても人間の意志というのは自由なものであるとはいえないという結論に達したわけです。
 実は尿意という観念の場合にも,これと同様のことが生じていると僕は思います。ここでいう尿意は意志ではなく観念ですが,それが自由なものではない,今はこれを人間の自由に限定し,これは人間の精神の任意には依拠しないということは,むしろ席を譲る場合よりも明らかだと思います。つまりこの点からも,尿意が十全な観念ではないということ,いい換えれば精神の能動によって生じるわけではないということが明白だと僕は考えます。
コメント
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