タイトル保持者同士の好取組となった第81期棋聖戦挑戦者決定戦。対戦成績は渡辺明竜王が5勝,深浦康市王位が8勝。
振駒で深浦王位の先手。渡辺竜王は一手損角換り4から四間飛車。後手は美濃囲いから銀冠,先手は矢倉模様から左辺に厚みを築く持久戦。
第1図から後手が△4二銀と引いたのに対し先手は▲6六角と打って中盤の戦いに。後手は△3三銀。先手は生角を手放し,後手はすでに手損をしているところにさらに手損を重ねましたので,局面の均衡は崩れました。焦点は先手が打った角が働くか遊ぶか。
角を先に打った先手から攻めていくのは当然として,後手はこんな指し方があるだろうかと感じるほど受け続けて第2図に。
ここで先手は▲2二角成と切っていきました。△同飛に▲6四飛と飛車も捨て,△同金に▲5三角。どうもこれで後手玉ははっきり寄っているのではないとしても,先手玉は堅い上に手掛かりがなく,先手が勝勢といえるような状況でした。こうなっては第1図で打った角も十分に働いた格好。全般的に先手の快勝といえる将棋であったと思います。
深浦王位が羽生善治棋聖への挑戦権を獲得。第一局は6月8日です。
第三部定理一二が証明されますと,現在の考察との関連において,具体的に次のようなことが帰結すると僕は思います。
現在の考察の対象としている尿意という観念は,自分の身体の状態に関する知覚であり,したがって混乱した観念です。しかし人間の精神は混乱した観念を有する限りにおいても自己の有に固執し,そのために自分の身体の実在性を促進しまた増大する事物の観念を表象する傾向を有しますから,尿意を知覚する限りでも人間の精神はこの傾向を有するでしょう。
ところで,身体のうちに溜まった尿を体外に排出する運動というのは,まさに身体の実在性を促進するような運動です。したがって人間の精神は,尿意を知覚するそのたびごとに,この運動,すなわち排尿という運動を表象する傾向を有することになります。つまり個々の尿意のそれぞれに,このように排尿という運動を自分の身体に対して肯定するような意志作用が含まれていると考えることができるようになるわけです。
このことは,経験的に考えても明らかではないかと思います。僕たちは尿意というのを知覚すれば,排尿すること,あるいは別のことばでいえばトイレに行くことを意志するのではないでしょうか。もちろん一般的な道徳というものは,人間があたりかまわず排尿という運動をなすことを許しませんので,僕たちはむしろそれを我慢することを選ぶ場合も多々あるわけですが,たとえそのような場合でも,それは排尿という運動自体を自分の身体に対して否定しているわけではなくて,その場所において排尿という運動をなすことを否定しているにすぎないといえると思います。
このような理由で,僕は尿意の肯定のうちには,排尿という運動自体を自分の身体に対して肯定するような意志作用が含まれていると考えます。しかしこれには反論も予想されますので,もう少し詳しく探求してみることにしましょう。
振駒で深浦王位の先手。渡辺竜王は一手損角換り4から四間飛車。後手は美濃囲いから銀冠,先手は矢倉模様から左辺に厚みを築く持久戦。
第1図から後手が△4二銀と引いたのに対し先手は▲6六角と打って中盤の戦いに。後手は△3三銀。先手は生角を手放し,後手はすでに手損をしているところにさらに手損を重ねましたので,局面の均衡は崩れました。焦点は先手が打った角が働くか遊ぶか。
角を先に打った先手から攻めていくのは当然として,後手はこんな指し方があるだろうかと感じるほど受け続けて第2図に。
ここで先手は▲2二角成と切っていきました。△同飛に▲6四飛と飛車も捨て,△同金に▲5三角。どうもこれで後手玉ははっきり寄っているのではないとしても,先手玉は堅い上に手掛かりがなく,先手が勝勢といえるような状況でした。こうなっては第1図で打った角も十分に働いた格好。全般的に先手の快勝といえる将棋であったと思います。
深浦王位が羽生善治棋聖への挑戦権を獲得。第一局は6月8日です。
第三部定理一二が証明されますと,現在の考察との関連において,具体的に次のようなことが帰結すると僕は思います。
現在の考察の対象としている尿意という観念は,自分の身体の状態に関する知覚であり,したがって混乱した観念です。しかし人間の精神は混乱した観念を有する限りにおいても自己の有に固執し,そのために自分の身体の実在性を促進しまた増大する事物の観念を表象する傾向を有しますから,尿意を知覚する限りでも人間の精神はこの傾向を有するでしょう。
ところで,身体のうちに溜まった尿を体外に排出する運動というのは,まさに身体の実在性を促進するような運動です。したがって人間の精神は,尿意を知覚するそのたびごとに,この運動,すなわち排尿という運動を表象する傾向を有することになります。つまり個々の尿意のそれぞれに,このように排尿という運動を自分の身体に対して肯定するような意志作用が含まれていると考えることができるようになるわけです。
このことは,経験的に考えても明らかではないかと思います。僕たちは尿意というのを知覚すれば,排尿すること,あるいは別のことばでいえばトイレに行くことを意志するのではないでしょうか。もちろん一般的な道徳というものは,人間があたりかまわず排尿という運動をなすことを許しませんので,僕たちはむしろそれを我慢することを選ぶ場合も多々あるわけですが,たとえそのような場合でも,それは排尿という運動自体を自分の身体に対して否定しているわけではなくて,その場所において排尿という運動をなすことを否定しているにすぎないといえると思います。
このような理由で,僕は尿意の肯定のうちには,排尿という運動自体を自分の身体に対して肯定するような意志作用が含まれていると考えます。しかしこれには反論も予想されますので,もう少し詳しく探求してみることにしましょう。