スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

共同通信社杯&第一部定理二四の意味

2010-04-13 18:50:12 | 競輪
 小松島競輪場を舞台に争われた共同通信社杯春一番は,一昨日が決勝でした。
 ラインといえるのは村上-市田-朝日の近畿中部と坂本-加倉-守田の九州のふたつ。東の菅田,平原,山賀はそれぞれ単騎。
 市田がSをきめて村上の前受け。平原を挟んで坂本。山賀,菅田で周回。残り2周から坂本が上昇,バックで村上を叩きましたが打鐘でバンクの中腹へ。すかさず村上がインから巻き返して先行。4番手を取りにいった平原が前の朝日に接触して落車。坂本と菅田も巻き込まれました。結果的に追ってくるものがなくなったのですが,村上はペース賭けはせずぐんぐんとスピードアップし,このライン3人と後ろが大きく離れ前の争い。やや車間を開けていた市田が踏み込んだものの村上が粘って優勝。市田が2着で朝日が3着。
 優勝した京都の村上義弘選手は2月の向日町記念を勝っていますが,ビッグとなると2004年のふるさとダービー福井以来となる久々の7勝目。市田に少しだけ油断があったとも思えますが,緩めることなく踏んでいった姿勢がなにより立派。勝っても負けてもファンの心の琴線に触れるようなレースが多い選手です。初日特選なし,オール自動番組という制度での完全優勝は称えられるべきでしょう。
 東の3人はそれぞれ自力型の若い選手ではありますが,こういうメンバー構成になってもどうしてバラバラにレースをするのかが個人的には疑問です。

 不備の所在が明らかになったのですから,次はそれを埋めていく作業が必要です。そこでそのために,まず第一部定理二四でスピノザがいっていることのうちに,どのような意味を読み取ることができるのかということを考えていくことにします。
 この定理Propositio自体はきわめて簡単なもので,第一部定義一だけで証明Demonstratioは容易にできます。なぜならあるものの本性essentiaにそのものの存在existentiaが含まれているならそれは自己原因causa suiであって,ほかのものからは産出されない,つまり神Deusから産出されることはないということになるからです。
 しかし,実在するもの,あるいは実在し得るものというのは,必ずなにがしかの実在性realitasを含有します。これはそれ自体で明らかです。いい換えればそうしたものの存在はどこかにあるわけです。では存在が本性に含まれていないものの存在はどこにあるのでしょうか。
 これは第一部公理一から解くことができます。すなわちそれ自身のうちに存在がないものは,ほかのもののうちにその存在があるわけです。したがってもしもあるものが神から産出されるのであれば,産出されるもの存在は当然ながら神のうちにあるということになります。つまりこの定理の意味のうちには,神から産出されたものの存在は神のうちにあるということがすでに含まれていると考えられるのです。
 第二部定理一〇は,人間が実体substantiaではなく実体の変状substantiae affectioすなわち様態modiであることを示しています。第二部定理一三系により,人間は身体corpusと精神mensから,つまり延長の属性Extensionis attributumの様態と思惟の属性Cogitationis attributumの様態から成り立っていますから,これは人間の身体の場合にも人間の精神の場合にも同様に妥当します。したがって,人間の身体の存在も人間の精神の存在も,それは神のうちにあるということになります。なお,このこと自体は第一部定理一五からも明らかであるといえるでしょう。
コメント
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