
昨日のコメントにレスしてあります。
ニーチェはスピノザについて,孤独な哲学者といういい方をすることがあります。ドゥルーズのことばを借りれば,ふたりともハンマーを持って哲学する在野の哲学者(講壇哲学者の逆の意味で)であり,また存命中はその哲学が社会的な非難を浴びせられたという意味で(両者とも無神論といわれましたが,無神論というのは野蛮という意味を帯びていた時代です)似通っていた部分もあり,その意味でニーチェがスピノザに自身をなぞらえるのは理解できます。ただ,ニーチェのいい方には,少し揶揄している印象も僕は受けます。それはスピノザが生涯独身であったという意味での孤独なのですが,実はニーチェも独身を通していたので,この揶揄は僕にはよく分からないのです。
第二部定理一二は定理九系から直接的に帰結します。そしてその意味は,人間の精神は自分の身体の中に起こることについて,十全な観念を有するということでした。そして僕の疑問は以下のみっつに分けられます。①人間の精神は,自分の身体の十全な観念をもたないのに,なぜ自分の身体の中に起こることについては十全な観念をもてるのか。②定理一二は定理九系から直接的に帰結するが,定理九系は定理九の帰結事項といえるのか。③スピノザが定理一二で身体の中に起こることというとき,スピノザはそのことばで具体的に何を意味しようとしているのか。
ニーチェはスピノザについて,孤独な哲学者といういい方をすることがあります。ドゥルーズのことばを借りれば,ふたりともハンマーを持って哲学する在野の哲学者(講壇哲学者の逆の意味で)であり,また存命中はその哲学が社会的な非難を浴びせられたという意味で(両者とも無神論といわれましたが,無神論というのは野蛮という意味を帯びていた時代です)似通っていた部分もあり,その意味でニーチェがスピノザに自身をなぞらえるのは理解できます。ただ,ニーチェのいい方には,少し揶揄している印象も僕は受けます。それはスピノザが生涯独身であったという意味での孤独なのですが,実はニーチェも独身を通していたので,この揶揄は僕にはよく分からないのです。
第二部定理一二は定理九系から直接的に帰結します。そしてその意味は,人間の精神は自分の身体の中に起こることについて,十全な観念を有するということでした。そして僕の疑問は以下のみっつに分けられます。①人間の精神は,自分の身体の十全な観念をもたないのに,なぜ自分の身体の中に起こることについては十全な観念をもてるのか。②定理一二は定理九系から直接的に帰結するが,定理九系は定理九の帰結事項といえるのか。③スピノザが定理一二で身体の中に起こることというとき,スピノザはそのことばで具体的に何を意味しようとしているのか。
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