スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

欲望&理由と原因

2021-02-05 19:53:06 | 哲学
 目的と欲望,動機と欲望をどのように解するべきかを説明しました。そこでスピノザの哲学における欲望cupiditasを僕がどう解しているのかをここでまとめておきます。なお僕はすべての個物res singularisに欲望があると解しますが,ここでは説明を分かりやすくするために,人間の欲望に絞ります。
                                   
 第三部諸感情の定義一から分かるように,欲望とは,現実的に存在する人間の,とくに受動状態における現実的本性actualis essentiaのことをいいます。スピノザは能動actioと受動passioの相違を重視します。それがデカルトRené Descartesが示した精神と身体の相違にとって代わる新たな道徳律を構成するからです。よってこの限りにおいて欲望と対立するのは,能動状態における人間の現実的本性です。それは第四部定義八でいわれている徳virtusです。したがって人間の徳と人間の欲望はひとつの組合せとして,スピノザの哲学の中で反対概念であると僕は解します。
 次に,第三部定理七では,現実的本性がコナトゥスconatusと等置されています。よってこの限りにおいては,僕は人間の欲望と人間のコナトゥスとを等置します。コナトゥスは自己の完全性perfectioをより小なる状態からより大なる状態に移行させる力potentiaです。したがって人間の欲望とは,喜びlaetitiaを希求し悲しみtristitiaを忌避することへ向かうことになります。そしてこの場合には,必ずしも人間の欲望と人間の徳は対立的ではありません。というのは第三部定理九から分かるように,人間は混乱した観念idea inadaequataを有するときすなわち受動的なときにだけコナトゥスを意識するわけではなく,十全な観念idea adaequataを有する場合すなわち能動的な場合にもコナトゥスを意識するからです。いい換えれば受動的なときにだけ喜びを希求し悲しみを忌避するわけではなく,能動的なときにも喜びを希求し悲しみを忌避しようとするからです。このために第三部定理五九にあるように,能動的な欲望があるのです。いい換えれば人間の徳から発する人間の欲望というのもあるのです。
 このことは第三部諸感情の定義一と矛盾しているわけではありません。人間の現実的本性は,それが十全な原因causa adaequataとなる場合でも部分的原因causa partialisになる場合でも,それ自体では与えられたものだからです。

 デカルトRené Descartesは神Deusが自己原因causa suiであるということを認めていませんでしたし,自己原因が起成原因causa efficiensであるということも認めていませんでした。ですが神は存在しますから,その存在existentiaについては何らかの仕方で説明する必要があります。そのときにデカルトは,神は神自身の広大無辺性によって存在するという説明をします。しかしこの広大無辺性は,神の存在に対して起成原因であるわけではなく,むしろ神が起成原因なしに存在する理由であるといういい方をするのです。スピノザはこれに合わせて,デカルト主義者たちがスピノザの証明を受け入れやすいように,あるいは理解しやすいように配慮して,第一部定理一一第二の証明では,単に原因とはいわず,理由ないしは原因という記述を頻発しているのではないかというのが,『スピノザ 力の存在論と生の哲学』で示されている秋保の推測でした。
 これはデカルトの哲学でも同じことですが,スピノザの哲学では原因というのが一律に起成原因を意味します。そしてこれもデカルトと同様に,スピノザは自己由来性を積極的に解します。その帰結として,ここはデカルトと違い,スピノザは自己原因も起成原因に含めます。それどころか,第一部定理二五備考でいわれているように,神は自己原因といわれるのと同じ意味において万物の原因なのであって,神は万物の原因といわれるのと同じ意味で自己原因であるといわれるのではありません。つまり起成原因として第一のものが自己原因なのです。ですから,起成原因さえ与えられればそのものは必然的にnecessario存在し,与えられなければそのものが存在することは不可能です。よって何かが存在する原因あるいは存在しない原因というのは,スピノザの哲学の中ではあり得るのですが,何かが存在する理由とか存在しない理由というのは,この理由を起成原因と同一視しない限りあり得ないのです。それなのにスピノザは当該部分においてわざわざ理由ないしは原因といういい方をしているのですから,秋保の推測には十分な合理性があるということができるでしょう。
 松田の論文では指摘されていませんが,デカルトによる神の存在の説明は,『省察Meditationes de prima philosophia』の第二答弁の中にあるのです。

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