スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

役割分担&発生の必然性

2023-03-28 19:21:54 | 歌・小説
 小説の中に作品内作者を設定すると,実際に小説を書いている作者と作品内作者の作意が異なってしまうということがあり得ます。『虐げられた人びと』にせよ『悪霊』にせよ,ドストエフスキーの作品ではこれがあまりうまくいっていません。作品に入ることと出ることというのは,このような観点からも考えることができるのでした。
                                        
 夏目漱石の作品にも作品内作者が設定されているものがあります。『こころ』は私が作品内作者です。下は大部分が私が受け取った手紙である先生の遺書によって構成されていますから,作品内作者は私であるとはいえないかもしれません。ただ遺書をひとつの作品としてみれば,先生が作品内作者になっています。そして上と中は明らかに私が作品内作者です。
 『こころ』にはドストエフスキー作品のような明らかな失敗というのはみられません。むしろうまくいっています。作品内作者は作品内作者が理解したことだけを記述していて,しかし読者にはそれ以上のことも理解できるように書かれています。たとえば下でKが先生を尾行していたというようなことは,先生には分からなくても読者には分かるようになっているというのが一例です。これはつまり,実際に作品を書いている漱石と,作品内作者である私や先生との役割分担がしっかりとできているからだといえるでしょう。もちろん『こころ』にも破綻している部分はあるのですが,これは作品内作者が設定されているのとは無関係な部分です。
 『こころ』は新聞小説で,最初の部分が読者に読まれたときには,小説の全体が完成していたわけではありません。この事情を考慮すれば,作品内作者を設定したことによる失敗がみられないだけでなく,漱石自身と私および先生との役割分担ができていて,読者には作品内作者が理解したこと以上のことが理解できるようになっているのは驚異的とも思えます。『こころ』を書いているときに漱石の作家としての技量はそれほど高いものだったといえるでしょう。

 スピノザの哲学では十全な観念idea adaequataと混乱した観念idea inadaequataの関係は,何度もいっているように,前者が真理veritasで後者が虚偽falsitasであるということと同時に,前者が有esseで後者は無であるということも意味します。したがってある混乱した観念が十全な観念になるということは,虚偽が真理になるといっているのと同じでありまた無が有になるといっているのと同じです。これは不条理です。だから僕は混乱した観念が十全な観念になるということを否定します。なので観念を,同一の人間の精神mens humanaのうちにあるパズルのピースとして喩えることは,僕はできないと考えています。
 現実的にAという人間が存在していて,このAの精神のうちにXの観念があると仮定します。このとき,Xの観念が十全な観念である場合は,Aの精神の本性naturaを構成する限りで神DeusのうちにXの十全な観念があると説明されます。一方,Xの観念が混乱した観念である場合は,Aの精神の本性を構成するとともにほかのものの観念を有する限りで神のうちにXの十全な観念があると説明されます。僕は第四部定理一から,これらふたつの観念がAの精神のうちに同時に存在する,厳密にいうと,混乱した観念は無なので.それについてあるといういい方をするのはおかしいのですが,そこのところは無視して,同時にあるということは認めます。そしてこのことは第二部定理三六と両立します。Aの精神の本性を構成する限りで神のうちにある観念と,Aの精神の本性を構成するとともにほかのものの観念を有する限りで神のうちにある観念は,異なった必然性necessitasで生じると考えられるからです。いい換えればAの精神のうちにあるXの十全な観念とXの混乱した観念は,同一の必然性によって生じるのではなく,異なった必然性によって生じなければなりません。このことからも,Aの精神のうちにあるXの混乱した観念がXの十全な観念になるということは不条理であると僕は考えるのです。
 福居も僕と同様に,このような意味で混乱した観念が十全な観念になるということについて否定的な考えを有しています。しかしドゥルーズGille Deleuzeは,僕や福居よりも田島に近い見解opinioを有しているとみられます。福居はそれを批判するのです。
コメント
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