スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

自己愛と自己満足&精査の結論

2022-02-12 19:14:47 | 哲学
 第三部定理五五備考では,自分自身を観想するcontemplariことから生じる喜びLaetitiaのことが,単に自己満足Acquiescentia in se ipsoとはいわれずに,自己愛Philautiaまたは自己満足といわれています。このことには理由があると僕はいいました。スピノザがそう明言しているわけではないので,このことを断定することはできないのですが,僕が考えている理由というのは次のようなものです。
                                     
 第三部諸感情の定義二八説明では,高慢superbiaが自己愛または自己満足の一種であるといわれています。第三部諸感情の定義二八では,高慢は自己愛によって自己を正当以上に感じることであるといわれています。これを基本感情affectus primariiで表せば,正当以上に感じられた自己の観念ideaによって生じる喜びが,高慢であるということになります。第三部諸感情の定義二五は,自分自身を観想することから生じる喜びが自己満足であるといわれています。よって高慢は,自己満足の一種であるということが帰結するのです。
 この高慢という感情affectusは,第三部定理二六備考で,狂気の一種といわれています。『エチカ』で示されている感情の中で,スピノザから価値的に最も低く評価されている感情はこの高慢であると僕は考えています。少なくとも,スピノザが最も低く評価している感情のひとつであるということは,疑い得ないことだといえるでしょう。つまり,自己満足の一種,あるいは同じことですがある種の自己満足は,最も低く評価されなければならない感情なのです。
 一方,第四部定理五二では,理性ratioから生じる自己満足は,最高の満足であるといわれています。また,第三種の認識cognitio tertii generisからは最高の自己満足が生じるという意味のことがいわれています。ここから分かるように,第二種の認識cognitio secundi generisや第三種の認識から生じる自己満足は,スピノザにとって価値的な面から最高の感情,少なくとも最高の感情のひとつなのです。
 つまり自己満足は,そのあり方によって,価値的に最高の感情でもあり得るし最低の感情でもあり得るのです。それらを同じ自己満足という感情の範疇に含めることに躊躇する気持ちがスピノザにはあったので,第三部定理五五備考では,単に自己満足とはいわずに,自己愛ともいったのだと僕は考えています。

 Deusが第三種の認識cognitio tertii generisであること,たとえばXを認識したとしましょう。そう認識した神が,今度はそれを第二種の認識cognitio secundi generisで精査するとします。すると,第三種の認識で認識したXの観念ideaは十全な観念idea adaequataであるということが,その精査の結論になります。これはすでにいったように,Xについての個別の真理veritasは唯一で,かつ第二種の認識と第三種の認識は観念対象ideatumについての真の認識であるからです。つまり第二種の認識で認識されたXの観念と,第三種の認識で認識されたXの観念は同一の観念です。よって第三種の認識で認識したことを第二種の認識で精査すれば,観念対象が何であるのかとは関係なく,第三種の認識で認識された観念は十全な観念であるという結論が得られるのです。
 繰り返しになりますが,僕は神の無限知性intellectus infinitusが何事かを認識するcognoscereということ自体が,何か具体的な意味をもっていると考えているわけではありません。とくにそれを,人間の知性が何事かを認識するということとの類比で理解するなら,その理解は誤りerrorであると考えています。僕がここでこうした,現実的には意味をもっていない例を持ち出すのは,第二種の認識と第三種の認識が対決すると現実的に存在する人間の知性が感じる理由を分かりやすく説明するためであって,これはあくまでもその説明のための例であると理解してください。
 第二種の認識と第三種の認識の間にある関係は,知性がどのような知性であっても同一です。つまり神の無限知性であろうと現実的に存在する人間の知性であろうと同一です。ですから本来的には,神の無限知性についていわれたことが,人間の知性にも妥当します。いい換えれば,本来的には第二種の認識と第三種の認識が対決するということは生じ得ません。ところが,神の知性が無限知性であるのに対し,人間の知性は有限なfinitum知性であるために,本来的に真verumであることが,現実的には真とならないという場合があるのです。第三種の認識は直観scientia intuitivaなので,その認識が生じる際には無限知性であるか有限知性であるかは関係ありません。ところが第二種の認識というのは推論ですから,無限知性にはできる推論が,有限な知性にはできないという場合があるのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする