スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

棋王戦&別の真理

2022-02-11 18:56:16 | 将棋
 焼津市で指された6日の第47期棋王戦五番勝負第一局。対戦成績は渡辺明棋王が16勝,永瀬拓矢王座が5勝。
 振駒で永瀬王座の先手。角換わりを目指しましたが後手の渡辺棋王が拒否して雁木。先手の矢倉で,先手から積極的に攻めていく将棋になりました。ただ玉頭から攻めていったのが判断ミスであったようで,後手が有利に。しかし後手も攻め方を間違って,局面は先手の有利になりました。とはいえ先手が勝つのは難しかった将棋という印象が僕には残ります。分岐における最善手が選びにくそうな手であるケースが多かったからです。その一例が第1図。
                                        
 ここで先手は☗6八金引として,玉の逃げ道を作りました。しかしこれは最善ではなく,差を詰められることになりました。
 ここでは☗9六銀と打つ手があります。これも有力で,☗6八金よりはよかったようです。
 AbemaTVのAIが最善と示していたのは☗9八銀。これは桂馬にヒモをつけ,☖8七歩成を☗同金と取り,☖同桂成☗同玉で受け切ろうという手。第1図は分岐には違いないのですが,☗9八銀は最も選びにくい手のように思えます。この後も,入玉を目指す指し方が最善ではなかったというように,どうも先手にとって難しい勝ち方が多かったように思いました。
 渡辺棋王が先勝。第二局は19日に指される予定です。

 個別の真理veritasは唯一です。このことは,Xの真理はどの知性intellectusのうちにあっても同一であるということを表すと同時に,Xの真理とYの真理とは異なるということをも意味します。そうでなければXの真理は唯一で,Yの真理も唯一であるというように,あらゆるものの真理は唯一であるということが成立しなくなってしまうからです。よって,現実的に存在している人間の知性のうちで,第二種の認識cognitio secundi generisがXの真理を追究し,第三種の認識cognitio tertii generisがYの真理を追究しているということが同時に生じる場合には,各々の結論は異なってくる,というか必然的にnecessario異なるといわなければなりません。ところがその知性が,第二種の認識も第三種の認識も同じ事柄,たとえばAの真理を追究していると思ってしまうなら,その知性は,自身の知性のうちで第二種の認識と第三種の認識が対決していると思ってしまうということがあり得ます。こうしたことは,XもYも同じようにAと関連している場合には生じやすくなります。青野の例でいえば,将棋一般の本筋も,駒を得することも,現に指している目の前の将棋に勝つことと関連しているので,青野の知性はそれぞれが別の結論を導出している第二種の認識の☗6五桂と第三種の認識の☗1七桂が対決しているというように感じるのです。あるいは同じことですが,青野のいい方に倣っていうなら,右脳の☗1七桂と左脳の☗6五桂が対決しているというように感じられるのです。
 これが第二種の認識と第三種の認識,左脳と右脳が対決していると感じられる場合があるということのひとつ目の理由です。そしてふたつ目の理由は,このことといくらかの関連を有します。それは,現実的に存在している人間の知性というのは,神Deusの無限知性intellectus infinitusとは違って有限なfinitum知性であるという点です。僕は神が第三種の認識で何かを認識するcognoscereとか,第二種の認識で何かを認識するとかいうこと自体は意味がないと考えます。とくに,人間が何事かを認識するというのと同じ意味で神が何かを認識するということはないと考えます。これはスピノザの哲学における神からの人格の剥奪と関係することですが,ここではそれには触れません。今はこの基本に反する例を出します。
コメント
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