スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

第五部定理四系&駒得と駒損

2022-02-04 19:14:58 | 哲学
 第五部定理四は,どのような身体の変状affectiones corporisすなわち身体の刺激状態の観念ideaも,明瞭判然と概念され得るといっています。つまり僕たちは,僕たち自身の身体の刺激状態については,それを明瞭判然と概念するconcipereことができるのです。もちろんこれは自分の身体の変状ということであって,他人の身体の変状についてそれが成立するわけではありません。同時に,この定理Propositioについて考察したときに示したように,これは僕たちが自分の身体の変状について,それを十全に概念することができるという意味ではありません。十全に認識するcognoscereことができるのは,僕たちの身体あるいは身体の観念と共通する要素についてであり,それを共通概念notiones communesによって認識できるのです。だからこの定理では明瞭判然と概念することができるといわれているのであり,十全に概念することができるとはいわれていないのです。
 この定理には系Corollariumがあって,そこでは感情affectusについても言及されています。
 「この帰結として,我々が何らかの明瞭判然たる概念を形成しえないようないかなる感情も存しないことになる」。
 第三部定義三により,感情は僕たちの身体のある状態を意味すると同時にその状態の観念のことを意味します。したがって,第五部定理四により,どのような身体の変状すなわち身体の刺激状態の観念であっても僕たちが明瞭判然と概念することができるなら,その一種である感情,この場合はとくに受動感情というべきですが,その受動感情についても僕たちは明瞭判然と概念することができるのです。
 このこともまた自分自身についてのみ成立するのであり,他人の受動感情について成立するわけではありません。ただ僕たちは自分自身が何らかの受動感情に刺激されるafficiということがあったとしたら,それについては明瞭判然とした概念を有することができるのです。

 実戦の第2図からの進展は,先手が6五に跳ねた桂馬を後手が取るというものです。つまり後手の駒得になっています。ただし先手はその代償として飛車が成り込んでいて,その代償の方が大きかったので先手が優勢になっています。そしてその優勢を生かした先手が勝ち切ったのです。ここが面白いところで,先手は駒得ができそうだからと第1図で桂馬を跳ねたのですが,実際に駒を得したのは後手の方でした。これはおそらく,後手の棋士の方に駒を損してはいけないという認識cognitioが働いたためであったと推測されます。もちろんそれは,第二種の認識cognitio secundi generisであり,青野のいい方に倣うなら,左脳の働きであったことになるでしょう。
                                        
 実は後手は第2図から,駒を損することについてはそれを甘受する指し方もありました。実戦は☖1四香と打ったのですが,☖1五歩と打つのがその順です。これは実戦のように☗8五歩と打っても☖同飛もあれば☖1四飛もあり,あまり意味がありません。また☗1五同飛と取ると今度は☖1四香が厳しくこれは後手が優勢。なので☗1九飛と取る一手で,これで先手は目論見通りに香車を得することになります。ただ後手から☖7六香と攻める手があり,これは先手が大変な変化なのです。後手は駒を損することがないように☖1四香と打ち,むしろ駒を得する変化に進んだのですが,それより駒を損する変化の方が後手にとってはよかったのです。
 ここではしかし,後手の棋士の指し手について,それが第二種の認識によるものであったのかそれとも第三種の認識cognitio tertii generisによるものであったのかを問うことはできません。あるいは左脳の働きであるか右脳の働きであるのかを問うことはできません。コラムを書いているのは先手を持って指している青野であり,はっきりと分かるのは青野の認識のあり方だけで,後手の棋士の認識のあり方は不明だからです。ただ,青野は第1図からの☗1七桂は右脳の働きで,実際の指し手である☗6五桂は左脳の働きによるものだといっていますから,この点についてはそれに従います。実際の最善手は右脳の働きによる指し手の方だったので,青野は左脳による誘惑に勝てなかったといういい方をしているのです。
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