スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

高松宮記念杯&善としての失禁

2010-06-07 19:02:06 | 競輪
 歴史を重ねて第61回を迎えた高松宮記念杯競輪は昨日が決勝でした。
 並びは新田-渡辺一成の福島に渡辺晴智,武田-平原-神山-兵藤-諸橋の関東で,西からはひとりになった山口は先行の番手勝負。
 前受けは新田。山口を挟んで5番手から武田の周回。武田がなかなか動かなかったので山口が上昇し,残り2周のバックでは渡辺一成の外へ。打鐘後に武田は発進し,これに新田が合わせて新田の先行。この後ろに山口が入り,武田は苦しくなりましたが構わず踏んでいき,バックでは山口に踏み勝って新田の番手に。連結が外れて後方になった渡辺一成も自力で発進しましたが,山口後位で車間を開けていた平原がこれに合わせて自力発進。この平原の捲りが決まって優勝。マークの神山が2着で3着も兵藤が流れ込み関東の上位独占。
 優勝した埼玉の平原康多選手は今年は大宮,西武園と地元の記念競輪を優勝。昨年の競輪祭以来のGⅠ3勝目。高松宮記念杯は昨年も優勝で連覇。どういった経緯で武田が前を回ることになったのかは不明ですが,落ち着いてレースを進めて結果的に絶好の位置取りに。ラインにも恵まれていましたので,終ってみれば順当な優勝といったところでしょうか,

 もうひとつは,これも第三部定理二の考察のときの補足で述べたことに重なりますが,第三部諸感情の定義二の喜びという感情と関連した排尿の肯定です。いい換えれば,第四部定義一により,善悪という観点と関連しているといえるでしょう。
 第四部定理四は,人間が受動状態から完全に逃れることは不可能であるということを示しています。よって岩波文庫版113ページの第二部自然学②公理一により,各個人の身体は同じ物体から異なった刺激を受けることになるでしょう。そして第二部定理一一が示すように,ある人間の精神というのはその人間の身体と同一個体であるわけですから,人間というのは同じ物体ないしは同じ延長作用によって,喜びに刺激される場合もあれば悲しみに刺激される場合もあるということになります。同じことは第三部定理五七からも証明できると思います。
 このことから,失禁の観念が原因となって,ある人間が喜びに刺激されるということは,少なくとも生じ得るということになります。第三部定理九第三部定理七の内容というのが,人間が有する観念が十全な観念であるか混乱した観念であるかに関係なく妥当することを示しています。いい換えれば第三部定理一により,人間が能動状態にあるか受動状態にあるかに関係なく妥当するということです。したがってたとえ受動状態であったとしても,喜びは人間の完全性が大なる状態に移行することですから,人間は第三部定理一二により,その人間はそうした物体ないしは現象の表象像を希求するということになるでしょう。つまりはそれを肯定するということになるでしょう。したがってもしもある人間が失禁という排尿によって喜びに刺激されるということがあるならば,少なくともこの限りにおいてこの人間は,失禁を肯定する,この場合には善として肯定するということになるのです。
 僕がここで排除しようとしているのは,こうした意味における失禁の肯定です。ただしこれは,あくまでも考察の対象から排除しようとしているだけであって,僕がそうした善の追及に関して,これをたとえば倫理的な観点から排除したり否定したりしようとしているわけではないという点はご理解ください。
 これらふたつが,ここに新たに放尿の肯定という用語を導入しようとする主だった理由であるということになります。
コメント
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