スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王位戦&思い込み

2010-06-01 19:46:41 | 将棋
 第51期王位戦白組は羽生善治名人と戸辺誠六段の2名が4勝1敗でフィニッシュ。挑戦者決定戦進出を掛けてのプレーオフが指されました。両者は今期のリーグ戦が初対局ですので対戦成績は戸辺六段の1勝。
 これは振駒で羽生名人の先手。戸辺六段のごきげん中飛車で③CⅠの超急戦。前期の王将戦第六局と同じように進みました。この将棋は結果的に後手が勝ちましたが,正しく指せば先手が勝っていた将棋なのでどこで後手が手を変えるのかと思っていましたが,第1図で新手が出ました。
                    
 久保二冠はここで△7一玉と引きました。これ以降は後手が手を変えるのは難しいと思えるぎりぎりの局面。ここは△6四桂と打つのも有力のようです。どちらも▲1三龍は最有力と思われる一手。後手が△5一桂と受けたのに対し,先手は▲5七香と打って5筋からの突破を目指すことに。そして第2図へ。
                    
 ここで後手は△5四同角成と取りましたが,苦心の受けという感じはします。実戦は▲同香△同飛から6三で清算し,後手玉頭に集中砲火を浴びせた先手が勝っています。
 羽生名人が広瀬章人五段との挑戦者決定戦に進出。これは11日の対局予定です。

 現実的に僕たちがトイレで排尿をする場合には,僕たちはとくにそれを意志するということを意識することがありません。それどころか,排尿をしている自分自身の身体の観念についてさえそれを意識していないという場合も多いと思います。一般論としていえば,自分の身体とある外部の物体との秩序が確定してくればくるほど,僕たちはとくにそれについて意識することが少なくなってきます。つまり無意識のうちにその運動を行いがちなのです。逆にいえば,そうした秩序の破壊が生じるから,表象の動揺という事態が人間の精神に生じるのだといえなくもないでしょう。あるいは病気なって健康のありがたみに気づかされるとか,いつも同じ時刻に乗っている電車に遅れが発生すると気になるとかいうのもこうしたことと同様の説明ができそうです。人間がある事柄についてそれを当然のことであると思い込むのは,その事柄と自分の身体との秩序がかなり確定されているからです。しかし反省的に考えてみれば分かるように,自分が健康であることとか,電車が時刻表の通りに走ることというのは当然のことではないのです。
 排尿についていうなら,放尿というのは僕たちにとっては当然のことに該当し,失禁の方は僕たちの身体の確定された秩序からは反する運動であるということになるでしょう。よってもしも僕たちが失禁するならば,僕たちはそのときの自分自身のことを強く意識するのではないかと思います。
 こういう事情ですから,トイレで排尿するということ自体,つまり放尿それ自体に関しては,その観念と意志作用が同一のものであるということを経験的に説明することは少し難しいのです。何しろ僕たちはある事柄をかつて意識しながらなしたからといって,それを正確に想起できるというものではありません。だれにでもあることを思い出せなかったということはあるでしょうから,このことは経験的に明らかでしょう。まして意識していない事柄については,それを思惟の属性の秩序で説明することにはどうしても困難が伴います。
 そこで今度は,このような限定的な意味での排尿の観念ではなく,もっと広い意味での排尿の観念,すなわちここでいう尿意として説明していこうと思います。おそらくこの方が,経験的にも知性と意志が同一のものであるということを容易に説明できるのではないかと思います。
コメント
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