将棋盤の升目の数は81。それと同じだけの歴史を重ねた第81期棋聖戦五番勝負が開幕しました。対戦成績は羽生善治棋聖が28勝,深浦康市王位が27勝。
異例の振駒で羽生棋聖の先手。角換り相腰掛銀先後同型に。先手は富岡流という形に進めました。未知の局面に持ち込んだのは後手の方。

前例はここで△4一玉でしたが本譜は△3三同桂▲同歩成の交換を入れてから△4一玉。前例も後手が勝っているということですので,深浦王位はこの交換を入れた方がさらに後手が得だと考えたということでしょう。先手が▲4五桂と跳ねていったのに対し△4九飛と王手して▲6九桂と打たせ,△8六歩▲同歩(第2図)と突き捨てて△8八歩と打ちました。

しかしこれは▲同銀と取られ,△8七歩▲同銀△8八歩▲同金と壁形にさせても,△4八馬▲同金△同飛成に▲7八金と戻る手がぴったりで,後手が勝ちにくくなっていたようです。以下,後手も粘りましたがほどなく先手の勝ちで終りました。
第2図では先に△7六歩と突くなど,後手にも修正の余地はありますので,第1図からの新手の成否はまだはっきりとは分からないのではないかと思います。
羽生棋聖が先勝。第二局は18日です。
こうした例外を排除した上で放尿の肯定という意志作用,もしも意識のレベルでいうなら,トイレに行くことを肯定するような僕たちの意志作用について考察するなら,この意志作用がその観念と同一のものであるということは,容易に証明することができます。なぜなら,放尿の肯定,もっとも,僕たちが尿意を感じることによってトイレに行くことを肯定するような意志作用は,意識のレベルでみるならば,それは放尿の肯定というよりは失禁の否定として認識されるといった方が適当なのかもしれませんが,ここで排尿という運動を分節した際の約束事としては,失禁ではないような排尿はすべて放尿であるということになっていますから,たとえそれが放尿の肯定としてではなく失禁の否定,ないしは失禁の回避というように意識されるのだとしても,これは要するに放尿の肯定であるわけで,こうした放尿の肯定という意志作用自体が僕たちの精神のうちに現実的に生じてくる場合の思惟の様態としての性質は,それが尿意を感じることによって生じる場合であれ,尿意なき意志作用の場合であれ,実は相違はないからです。これは,ここでの失禁と放尿の各々の定義から,実際には排尿の肯定というのは,人間身体の排尿という運動の秩序がトイレという外部の物体と組織立てられている場合には,放尿の肯定を意味し,失禁についてはむしろそれを否定することであるということから明らかでしょう。尿意を感じている場合と感じていない場合の放尿の肯定においてどのような差異があるかといえば,それは尿意という観念が,前者の場合にはこの放尿の肯定の部分的原因の一部を構成するのに対して,後者の場合にはそうではないという点のみにあるといえると思います。
実際のところ,僕たちが尿意を感じることによってトイレに行くことを肯定するということを想起するならば,この肯定というのがその観念がなしにあることができないのはいうまでもないことですが,これを想起するとという条件そのものが,この表象像は放尿を肯定することなしにはあることができないという点で,尿意なき意志作用の場合と完全に一致します。したがってこの場合にも,個々の観念と個々の意志作用は同一のものであり,それをどのような観点から判断しているのかという相違点があるだけだということが明らかだと思います。
なお,ここでも想起を例にしましたが,知覚の場合にも同じことがいえるであろうと思います。
異例の振駒で羽生棋聖の先手。角換り相腰掛銀先後同型に。先手は富岡流という形に進めました。未知の局面に持ち込んだのは後手の方。

前例はここで△4一玉でしたが本譜は△3三同桂▲同歩成の交換を入れてから△4一玉。前例も後手が勝っているということですので,深浦王位はこの交換を入れた方がさらに後手が得だと考えたということでしょう。先手が▲4五桂と跳ねていったのに対し△4九飛と王手して▲6九桂と打たせ,△8六歩▲同歩(第2図)と突き捨てて△8八歩と打ちました。

しかしこれは▲同銀と取られ,△8七歩▲同銀△8八歩▲同金と壁形にさせても,△4八馬▲同金△同飛成に▲7八金と戻る手がぴったりで,後手が勝ちにくくなっていたようです。以下,後手も粘りましたがほどなく先手の勝ちで終りました。
第2図では先に△7六歩と突くなど,後手にも修正の余地はありますので,第1図からの新手の成否はまだはっきりとは分からないのではないかと思います。
羽生棋聖が先勝。第二局は18日です。
こうした例外を排除した上で放尿の肯定という意志作用,もしも意識のレベルでいうなら,トイレに行くことを肯定するような僕たちの意志作用について考察するなら,この意志作用がその観念と同一のものであるということは,容易に証明することができます。なぜなら,放尿の肯定,もっとも,僕たちが尿意を感じることによってトイレに行くことを肯定するような意志作用は,意識のレベルでみるならば,それは放尿の肯定というよりは失禁の否定として認識されるといった方が適当なのかもしれませんが,ここで排尿という運動を分節した際の約束事としては,失禁ではないような排尿はすべて放尿であるということになっていますから,たとえそれが放尿の肯定としてではなく失禁の否定,ないしは失禁の回避というように意識されるのだとしても,これは要するに放尿の肯定であるわけで,こうした放尿の肯定という意志作用自体が僕たちの精神のうちに現実的に生じてくる場合の思惟の様態としての性質は,それが尿意を感じることによって生じる場合であれ,尿意なき意志作用の場合であれ,実は相違はないからです。これは,ここでの失禁と放尿の各々の定義から,実際には排尿の肯定というのは,人間身体の排尿という運動の秩序がトイレという外部の物体と組織立てられている場合には,放尿の肯定を意味し,失禁についてはむしろそれを否定することであるということから明らかでしょう。尿意を感じている場合と感じていない場合の放尿の肯定においてどのような差異があるかといえば,それは尿意という観念が,前者の場合にはこの放尿の肯定の部分的原因の一部を構成するのに対して,後者の場合にはそうではないという点のみにあるといえると思います。
実際のところ,僕たちが尿意を感じることによってトイレに行くことを肯定するということを想起するならば,この肯定というのがその観念がなしにあることができないのはいうまでもないことですが,これを想起するとという条件そのものが,この表象像は放尿を肯定することなしにはあることができないという点で,尿意なき意志作用の場合と完全に一致します。したがってこの場合にも,個々の観念と個々の意志作用は同一のものであり,それをどのような観点から判断しているのかという相違点があるだけだということが明らかだと思います。
なお,ここでも想起を例にしましたが,知覚の場合にも同じことがいえるであろうと思います。