スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

女流王位戦&第二部定理四九系まとめ③

2010-06-17 18:26:29 | 将棋
 決着がつくのか,あるいは最終局までもつれ込むのか。第21期女流王位戦五番勝負第四局が指されました。
 一風変わった出だしから後手の甲斐智美女王の中飛車。清水市代女流王位も早々に飛車を5筋に回り,早い段階から5筋での攻防が焦点となりました。
                    
 ここで▲5五角と飛び出すのが玉の懐も広げて気持ちいい感じなのですが,△5三銀から銀交換になり,▲6四角に飛車交換では後手の駒を鮮やかに捌かせた格好。さらにその飛車を先着(第2図)されてしまっては,完全に先手がやり損なった形になってしまいました。
                    
 この後,後手は多少のもたつきはあったもの着実に攻めを展開。先手は粘るだけのような将棋となってしまい,一局を通していうなら後手の完勝といえるような内容の将棋になりました。
 甲斐女王が3勝1敗で女流王位も奪取。一気に二冠を達成。女流将棋界はどうやら世代交代の波が一気に押し寄せてきたようです。

 この問題を解消するために,まず人間の精神のうちに排尿を否定するような思惟の様態,積極的にいい換えるならば排尿を我慢することを肯定するような思惟の様態が生じてくるような秩序,すなわち我慢の秩序について探求しました。そしてこれをスピノザによる表象の考え方から,刺激状態の変化複数の刺激という観点から考え,実例をとりあげることにより,少なくともこれは,人間の精神のうちに尿意が発生する秩序とは異なるということを明らかにしました。これによって排尿の肯定と我慢の肯定は同じ人間の精神のうちにあって矛盾するものではなく,むしろ同時にあることができる思惟の様態であるということを明らかにしたのです。
 ところで,人間が排尿を我慢するというとき,スピノザ哲学的にはふたつの意味が考えられます。すなわち,ひとつは人間の身体が排尿を我慢する運動をなすという意味であり,もうひとつは,人間の精神が排尿を我慢することを肯定するという意味です。そこで僕は,このようなふたつの意味において,意志と身体というのは平行論における同一個体であるということをまず示しました。これはちょうどこのような意味において観念と身体とが同一個体であるということと同じ意味にあるのです。
 続いて,個々の観念と個々の意志作用が同一の思惟の様態であるということについて,このことを経験的に示そうとする場合の最大の難関と僕には思えた,意識と無意識の問題の解明に突入しました。すなわち僕たちは意識のレベルでは,尿意の場合には観念の方を,我慢の場合には意志作用の方を意識することが多いという観点です。そしてその理由について,論理的観点と経験的観点からそれぞれあげました。ただしこれはあくまでも僕の仮説にすぎません。
 これは副産物ともいえるのですが,ここまでの一般的帰結として,物体AとAの観念は同一個体であり,この観念を肯定する意志作用もAと同一個体であるということまでは明らかにできました。ところで,同一個体であるものは原因と結果の連結と秩序は同一です。したがって,これは平行論からの帰結事項となりますが,僕たちが物事を考えていく場合には,それを精神の秩序ないしは知性の秩序で考えたとしても,あるいは身体の秩序で考えたとしても,結論は同一になります。これを利用して考察を続けていきました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする